アンディは皆と別れ、冒険者達の宿に部屋を一つ取った。そして灯火も灯していない暗い部屋の中で、動く気にもなれず、寝台の上で、最高の相棒の形見となってしまった短刀を見ていた。今日迷宮であった出来事を、繰り返し、繰り返し思い出しながら、何時までも短刀を見つめていた。
真夜中、かのギルガメッシュの酒場も閉店になったくらいの時間に、突然部屋の扉が開き、人が入って来た。今日は誰とも顔を会わせたくなかったので、一人部屋を取っている。しかも、錠はしっかりと掛けていた筈だ。取りあえず、敵意は感じられない。しかし、訪問者に心当たりがないアンディは、寝台から飛び下りつつ、短刀を寝台の横にある卓上に置いて、卓に立て掛けてあった愛用の長剣を構え、侵入者を見据えた。
「よお、アンディ。元気にしてるかあ?」
見慣れない酒瓶と二つの杯を手に、能天気な声を上げたのはウォーリィだった。かなり酔っていると見え、呂律が少しおかしい。
「どうしたんだ、ウォーリィ。お前の部屋は、此処じゃないだろう?」
「良いじゃねぇか。少し話してぇと思ってさ」
そう言いながら、後ろ手で器用に錠を掛けている。ウォーリィは、どうも宿の主人から宿の鍵をせしめたようだ。
「……俺は、今、誰とも話をしたくない。出て行ってくれないか」
入ってきたのがウォーリィだと判った時に、剣は既に収めていたが、アンディは少なくとも今まで仲間には一度として向けたことのない、鋭い視線を向けて厳然と言った。
「まあ、気にしねぇこった。これをお前にって、折角持ってきてやったんだ。な、飲もうぜ」
ウォーリィは持っていた瓶を振る。その瓶に入っているのは火酒のようだった。火酒とは、一般に洽酒と総称される、発酵させただけの酒を炙って、蒸留した物の事を言う。蒸留する事によって、不純物が少なくなる為に、洽酒とは比べ物にならない程強く、慣れない者が飲めば、気持ちが良くなるどころか、あの世迄運ばれてしまうだろうとも言われている。酒瓶の感じからすると、火酒の中でも上級の物のようだ。
「そんな気分ではない、と、言っているだろう」
ウォーリィの言い様に神経を逆撫でされた形になったアンディは、剣の柄に手を掛け、抑え過ぎて低くかすれた声で言い放った。しかし、ウォーリィは、そんなアンディの肩に手を掛けて、いとも簡単に寝台に座らせてしまった。
「な、そんな時は、酒でもカッ食らって、寝るのが一番だぜ。ほら」
ウォーリィはアンディに杯を持たせ、無造作に酒を注ぎ、身振りで促す。
「ウォーリィ! お前は、俺の話を何も聞いていないな! 俺は今、そんな気分じゃないんだ!」
アンディは怒鳴りながら、杯を壁に叩き付ける。
「勿体ねぇ。良い酒なんだぜ。……このままじゃ、お前、眠れねぇだろ?」
「……そんな事、お前には関係がないだろう?」
アンディは声を荒げながらも、頭の何処か冷静な所が、ウォーリィの言葉を肯定しているのを感じた。しかしだからと言って、ウォーリィの言うようにしようとは思わない。元々酒は好きな方ではないし、今は酔いたいと思うような心境でもなかった。
「……そんな、苦しそうにしてんのは、見てらんねぇんだよ……」
怒ったらしいアンディに、弱い調子でウォーリィが囁いた。その瞳は、深い哀しみに彩られているようにも見える。
「? ウォーリィ?」
「酒が駄目なら、こんなのはどうだ?」
ウォーリィはアンディの首を抱くように、ゆっくりと両手をまわし、軽く口唇を触れさせた。
「こんな時は、何も考えねぇ方が良いんだぜ」
ウォーリィはそう言いながら、アンディの身体に覆い被さっていき、アンディを寝台に横たえてしまった。唐突なウォーリィの行動に、アンディは呆然とウォーリィの顔を見つめる事しか出来ない。
「お、おい……」
「なぁんにも考えられねぇように、してやるよ」
ウォーリィは慣れた手つきで、アンディの衣服を脱がせながら、口移しで持ってきた酒をアンディに飲ませる。一回の量はほんの少しだが、口唇を合わせる度では、アンディの限度など軽く超えてしまう。
「な……に…を……」
アンディが火酒の所為で、火のように熱くなった息を吐いた。何時も洽酒しか飲まないアンディには、かなりきつく、一気に酔いが回る。理不尽な扱いに、アンディはウォーリィを睨む。そして押し退けようとウォーリィの肩に手を掛けた所為で、気付いた。ウォーリィが何時になく真剣な眼差しで自分を見ている事。そして、アンディの事をどんなに心配しているかが直接伝わってきたのだ。
「……あ」
アンディはウォーリィの酔っている所為で少し潤んだ、綺麗な黒い瞳に魅入られたかのように、抵抗の一つも出来なくなってしまった。ウォーリィのその瞳は、事の他弱かった、今はいない相棒のものに良く似ていたし、その心情が伝わって来たのでは、拒絶する事も出来ない。
「う、あ……あぁ……」
酒の所為もあって、かなり陽気になっているウォーリィは、アンディの戸惑いも知らずに、声も出さずに軽く笑って、アンディの身体の線をなぞっていく。アンディの身体には、剣士の証しとも言える傷跡が幾つも残っている。古く消えかかったのもあるし、真新しい、このワードナの迷宮を探索している時に付いたものもある。そしてウォーリィは、その傷跡一つ一つに手と口唇で柔らかく、優しく触れて、アンディの思考を混乱させ、身体の力を奪っていく。
「や…め………ぅく……くぁ……あ……」
アンディはウォーリィから与えられる感覚に、堪え切れず、呻き声を上げ、抗うかのように、弱々しく何度も頭を振る。しかし、アンディが頭を振る度に、何時も彼の首に掛かっている、首鎖が首を締め付けるかのように絡み付いて、圧迫されるような感じすらある。普段は、身体の一部にでもなっているかのように、着けている事すら忘れているというのに。そして、その圧迫感はアンディを更に追い詰め、ウォーリィが言ったように、何も考えられなくなっていく。
「……ぅ……ぁ……ああ!」
撫でるように、軽く触れていたウォーリィの手が、アンディの中心に絡み付いた。その刹那、アンディの身体が激しく跳ね上がり、背が虚空に綺麗な曲線を描いた。
アンディは寝台に俯せて、解放された後の気怠さに身を任せ、荒い息をついていた。何時もは綺麗な光を湛えている瞳も、今は潤んで何も映していない。
「……好きだな、お前の身体。しなやかで強靭な、細いけど華奢に見えない所なんかがさ。身体が描く線に変な歪み何かもねぇ。無駄がなくて、機能的で、いかにも動く為っていうような……」
ウォーリィはアンディを後ろから優しく抱き締め、軽く項に口接ける。動作は穏やかなのだが、絡まっている足が、触れ合っている肌が、そこから燃えてしまいそうな程熱い。
「……は…ぁ……」
求められていると感じる。ウォーリィが始めに言った事も本当なのだろうが、その他に、他の誰でも無く、自分が求められていると感じられる。失いたくない、そんな強い思いにアンディは包まれた。子供の頃から、強い他人の思いは言葉で無くても、声に出していなくても判る時があった。丁度、そんな感じ。ウォーリィがどれほど自分の事を失いたくないと思っているかが判る。
「……いくなよ……、俺の……」
柔らかな愛撫を加えながら、ウォーリィが囁いた。自分の今の思いを言葉では表せなかったらしい。言いかけた言葉は、口接けの中に消えた。
「―――――」
ウォーリィに翻弄されて意識を手放す瞬間、アンディは苦しい息の下で一つの言葉を紡いだ。荒い息に掠れてしまっていたが、それは自尊心の高い、優しい剣士の名だった。
寝台の横の窓から、朝日が差し込んできていた。ウォーリィはその光に目を覚まし、傍らで寝ているアンディの顔を覗き込んだ。昨日の酷く辛そうな色は影を潜め、安らかな表情を見せている。ウォーリィは思わず、アンディの顔に乱れ掛かっている前髪を、普段の言動からは考えられないような、柔らかな手つきで撫でていた。出会った頃から考えると、かなりやつれた印象を受ける。それは、この所の状態では無理からぬ事だった。
アンディは未だ起きる気配がない。何時もなら既に起きて、迷宮に入る為の用意をしている頃だ。そして何時もなら、このくらいの時間迄寝ていると、叩き起こすようにしているウォーリィだが、今日は起こす気はないらしい。部屋の中にあった椅子を寝台の横に持って来て、ただアンディの寝顔を見ていた。
しばらくすると、部屋の外が大分騒がしくなった。泊まっていた者達が起き出したのだろう。その音に反応するように、アンディの身体が微かに動き、瞼が開いた。
「起きたか、アンディ。気分はどうだ?」
「ん……ああ、悪くはない」
アンディは少し気怠そうにしてはいたが、初めてギルガメッシュの酒場で会った頃よりも、明るい表情を見せていた。ウォーリィは既に着替えていたが、鎧は着けていないし、長剣も背負袋に入れてあった。
「……どうして、起こさなかった?」
アンディにしては少し掠れた声で問い掛け、ゆっくりと身体を起こす。外の喧騒を聞くと、寝過ごしたらしい事が判る。それなのに、ウォーリィが自分を起こしもせず、寝顔を見ていただけらしいと気付いて、訝しげな表情を向けた。
「ビルが言ってたんだが、十日程迷宮には入らねぇ事にした。事後承諾になっちまってすまねぇな」
ウォーリィは柔らかい笑みを見せて、何時もと何も変わる事のない明るい調子で言い、こう付け加えた。
「早く、朝飯食いに行こうぜ」
部屋を出る時、二人は何となく同時に振り返った。そしてまた同時に顔を見合わせ、屈託なく笑いあう。その後、二人は何事も無かったように、階下に降りる階段に向かった。昨夜の事は二人の胸の内にしまわれ、表に出る事は二度と無いだろう。しかし、忘れ去られる事もなく、それぞれが、それぞれの思いと共に、死のその瞬間まで大切に抱えていく事だろう。
二人が出た後、部屋に残された、半分だけ中身が入っている糖酒の瓶が、朝日を浴びて、やけに優しげな光を放っていた。