[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



 須永紀子詩集『中空前夜』について



 詩集『中空前夜』は、今ここで生きている、という「現在」の感覚が、よく伝わってくる詩集だ。著者にとって、この「現在」の感じがうまく定着できれば、詩が成立した、とみなされる、ということがあるのかもしれない。この詩集のちょっと不思議なタイトルの由来について、著者の「あとがき」で触れられている。


 「ドアをあけて外へ出る。歩き、電車に乗り、どこかへ向かう。身体が運ばれているとき、わたしたちはいろいろなことを考える。断片的に、または散文的に。心が先に行くこともあるし、身体が引っ張っていくこともある。移動する身体と意識の流れ。それを「中空」から見るとき、詩が生まれてくるのだと思う。
 心と身体はなかなかうまく動いてはくれない。それでわたしたちは日々後悔したり、新たな決意をしたりする。どの夜も明日につながるものであり、何かが起こる「前夜」であるかもしれないと思うことで少し元気が出てくるような気がする。」
(詩集『中空前夜』「あとがき」より)


 ふだんの生活の場面で、自分がいろんなことを考えながら行動(移動)しているときの状態というものを、「中空」からみるとき詩が生まれるということ。どんな夜も翌日に何かが起きる「前夜」ではないかと思うこと。前者は、この作者の多くの詩がどんな場面をその素材や背景にしているか、といういみで、意識的な強い選択がはたらいていることを明かしているし、後者は、作品にこめたい意想といういみで、自分自身を励ます(生きる力をみいだす)というモチーフがこの作者にとって大きな意味をもっていることを明かしているように思える。

 これらのふたつの要素、自らのみじかな日常性の地平に材をもとめ、それを意識的に「作品化」する(中空からとらえる)という選択の方法と、詩の表現にもとめるひとつの誠実な希求が、わかちがたく結びついて「現在」の感覚をつくりあげていることが、作者の詩のおおまかな特徴といってもいい気がする。

 この「現在」ということでいいたいのは、いわゆる「現代風」というようなことではない。もうすこし存在論風な、「今ここ」ということだ。どこかへ向かい、「身体が運ばれている」ときに思いうかべる「断片的」「散文的」な思念。その状態は、その時点の心に生起する想念とともにある「現在」そのものだ。また「どの夜も明日につながるもの」と感じている、「どの夜」というのも、同じように絞って言えば、それぞれの、固有の夜に生起した心の「現在」をしめしている。つまり、その「現在」を起点にして、過去と未来、昨日と明日が交差する切断面という側面をもっている。そういういみで、「現在」の感覚は誰にとっても、いつでも半分が未知がひらかれていると同時に、過去からも切り離されている。白紙のうえに文字があたらしく書かれるように、なにかが創生される現場なのだといってもいい。この「現在」の感覚は、いつも未知からの到来をうけて、やがて既知として流れ去ってしまうけれど、現象の記述としてではなく、「中空」の視点からかきとめられることで、すくいとられるようなものとしてある。


わたしの朝


漕ぎ出す舟のように
自転車は走り始める
光のなかを
昆虫に似た影が移動し
じょじょに加速して
昆虫とわたしは飛行体勢に入る


今月は忙しかった
健康診断を受け図書館で本を五冊借り
髪を切り六十年代のヨーロッパ映画を観て
人を好きになった(ここでさらに加速


ケヤキ通りには
昨夜の風に飛ばされた小枝が無数に散らばり
車輪はそれを踏みしだいて進む
古い公民館の横に
フェニックスとオリーブの木があって
そこだけが南国のようだ


ターミナルでは噴水が
石像女神の白い肌を濡らしているが
濃い木立に囲われていて
眺められることもない


昆虫は駅前に着地し
わたしは電車に乗りこむ
車両がホームをすべるとき
いつも別れということを思う
船のように
ただなかへ漕ぎだしてゆく


 自転車にのっていて、路上にうつる自分の影が昆虫のようだと感じたり、人を好きになったことを思い出してペダルを漕ぐ足ををはやめたり、植物の植え込みをみて南国のようだと感じたり、ターミナルの噴水では女神像がいつも木立にかくれているのを惜しんだり、そうしたこきざみなテンポでかわる断片的な想念の転換が、実際に自転車にのっていて、やつぎばやに移っていく風景をみているときのようなテンポを再現していて作品を爽快で臨場感のある魅力的なものにしている。この想念の流れは、ただ視線の快楽とでもいいたいような目にうつったものばかりから反射的に構成されるのではなく、今月あったことを追想したり、前からの気がかりが連想されたり、といった厚みをもっている。注意をひくのは、最終連の「車両がホームをすべるとき/いつも別れということを思う」という感覚だ。この身体が別の動きに入るときの切断や始動の気分とあいまった「別れ」の感覚は、たぶん作者のなかで「現在」がせりあがるときの条件のようになっている。詩集には、「特別な一日」という、この詩と双生児のような作品も収録されている。


特別な一日


左足から靴下をはき
湯を沸かしパンを焼く
朝は儀式のように
何もかもがスムーズ
今日は昨日の続きなんかじゃない
新しい平らかな気持ちになって
漕ぎだすように出発する


雑木林のあるC公園
小枝が散らばるケヤキ通り
駅に向かう人たちを追い抜いて
身体は少しずつハイになってくる
誰よりも先を歩きたい
体内で何かが発生している
アドレナリンとかエピネフリンと呼ばれる
すてきに熱いものが
駆けめぐろうとするのを感じる


駅前には三人の女神がいる噴水があって
ライオンの頭に守られ
水はその口から出ている
だから正式には「噴水」ではない
忘れられ、ほとんど眺められることのない
薄汚れた白い女神を
いつか洗ってやりたい


古い公民館と港町のような市場
小さな遊歩道にはオリーブの木が一本
もうじき取り壊される公団住宅の
ベランダにシャツが一枚干してあり
マリーゴールドの黄色が鮮やかで
そこから目を離すことができない


夜になったら
今日わたしが眺めたものをつなげて
地図を作ろうと思う
それから線をことばにおきかえて
長い長いラブレターを書くのだ


 この詩では、自転車でなく徒歩で移動したときの心に浮かんだ想念が再現されているが、目にした景観から、小枝の散らばる「ケヤキ通り」、「古い公民館」、オリーブの木、駅前の「噴水」というように、「わたしの朝」と酷似した対象が選ばれている。駅にむかう人を追い越して、「ハイになって」早足であるく気分がつたえるのは、自転車ですいすい道を漕いでいくときの気分と、さしてかわらないと考えて良いと思う。すると、作者は同じような朝の家から駅にでかける移動時の心象スケッチのような作品を、二つ、詩集に採録している、ということになる。これはどういうことなのだろう。目にとめたいのは、この作品の一連目だ。


左足から靴下をはき
湯を沸かしパンを焼く
朝は儀式のように
何もかもがスムーズ
今日は昨日の続きなんかじゃない
新しい平らかな気持ちになって
漕ぎだすように出発する


 これはある意味再現の記録だ。左足から靴下をはくのも、湯を沸かしてからパンを焼くのも、すべて昨日と同じことの再現であり、作者にとって様式化された生活スタイルだからこそ、その順序がとどこおりなく「スムーズ」に行われることが、「儀式」のようであるとさえ、感じられている。けれど、「今日は昨日の続きなんかじゃない」という意志の表明がなされる。たぶんこの行に、「現在」の感覚、ということが深く関わっている。昨日と同じことをしているから、今日は昨日の再現だ、というように、言葉でいうことはできても、人は、そんなふうに「生きる」ことはできない。もうすこし丁寧にいえば、今日は昨日の再現のようだ、と思って観念としての「今」を生きることはできても、実際には身体として「再現」を生きているわけではない。つまり、この朝の記録は、まさにライフスタイルのみかけでは昨日とかわりばえのしない所作の再現のようでいながら、身体が直面する「現在」としては、半分は未知にひらかれているような「現在」の記録であり、そのいみで「特別な一日」の記録なのだ。「今日は昨日の続きなんかじゃない」という表明の挿入は、「わたしの朝」の最終連で指摘した「車両がホームをすべるとき/いつも別れということを思う」という、過去からの「別れ」の感覚と不思議なかたちで結びついている。「わたしの朝」も「特別な一日」も、ある朝の心象が「現在」という面から切り取られることで、その現象としての相似性からあふれだす生きる時間の固有性がすくいあげられているように思える。


**


夢見るちから


土の下で新しい水が甘く匂っている
深々と呼吸をすると
ふるえが少しおさまった
わたしは小さなベッドを抜け出す
ささやかすぎる食事から古い本ばかりの図書館から
実質的で信頼できる人々の住む町から
いつも心が先に行ってしまう
本のなかの砂漠の町、濡れた夢のほうへ
身体が追いつく間
本体であるわたしは上の空で
傘をなくしたり紐をたてに結んだりしている


はじめに来た電車に乗ろうと思った
海に行きたいが
のりかえがわからない
地図の読みかたを知らない
世界の大きさの見当もつかなかった
電車は山に向かっている


「なにごとも一つのところにとどまるのはよくない」
本のなかで東方の人が書いている
「流れるのはよいこと」
「流れることで不浄からのがれる」
流れていれば清くいられるということだろうか
「お金や水のように」と東方の人は言っている


先に行く心に身体を添わせ
きょうわたしは流れていく
流れていくことを選んだ



 詩集冒頭におかれた「夢みる力」という作品は、謎めいた魅力をもっている。「現在」ということでいえば、夢からさめたばかりで、これから一日がはじまる、という始動の気分ということになるだろうか。まだ半分は夢の記憶にひたされていて、心ここにあらず、というような状態が、おもわず軽い笑いを誘うようなふだんの日常の不如意のエピソードや不条理な夢のエピソードに重ねられていて、とつぜん「東方の人」が書いたという言葉が挿入されることで、「わたし」を暗示のように夢見て生きることの肯定性(覚醒)のほうに導いていく。詩集の最後に置かれている「水の夜・夜の水」は、やはり同じような構造をもった作品で、ちょうど、朝と夜の対比のように配置されている。


水の夜・夜の水


月が動き
地上の水という水が揺れ
砂漠や森や寺院を濡らし
叶わなかった無数の夢が濡れた
そんな夜わたしたちは
いつもとちがう身体になって
突然の決断をしたりするのかもしれない


外から戻ると
死んだものたちの匂いが部屋中にあふれていた
湿った紙と傷んだ布
怒りのような気持ちに突き動かされ
ひきだしを逆さにして
大きなビニール袋にどさどさ落とす
手にとらなくなって久しいものと埃が
暗黒に吸いこまれてゆく
〈とどまることはよどむこと〉
古びていくものをそのままに
わたしは朽ちようとしていたのか
すぐにでも出ていきたいが
行く先を思いつかない


ふくらんだビニール袋が転がる
がらんとした部屋
台所に立ち
錆びた蛇口をまわすと
水がかすかに赤い
めいっぱいひねって
流れる水をしばらく見ている
〈流れるものは浄められる〉
流れていく
わたしは流れなければならない



 この「夢みる力」と「水の夜・夜の水」というふたつの作品は、いずれも今暮らしている場所(環境)からどこかへでていきたい、という気分が主題になっている。その場所(環境)が、前者では「ささやかすぎる食事から古い本ばかりの図書館から/実質的で信頼できる人々の住む町から」というふうに肯定的にとらえられたうえで、にもかかわらず、「心が先に行ってしまう」(本や夢なしで生きられないから)、というふうにこの脱出願望が説明されているのにたいし、後者では、部屋に充満する「死んだものたちの匂い」に象徴されるような、手にとらなくなって久しいもの、古びたもの、自分を朽ちさせるようなもの、として自分を拘束する過去のしがらみや停滞感として否定的にとらえられている。後者で「わたし」を脱出願望にかりたてるのは、とてもここにはいたたまれない、というような強い焦燥感(「怒りのような気持ち」)だ。けれど、そうした心の泡立ちを共通にしずめるのは「流れることで不浄からのがれる」、「〈流れるものは浄められる〉」という「東方の人」の暗示的なメッセージであり、そのことばに応えるようにふたつの作品は「先に行く心に身体を添わせ/きょうわたしは流れていく/流れていくことを選んだ」「流れていく/わたしは流れなければならない」と結ばれている。

 ここで使われている「流れる」ということば、それが変ないいかたかもしれないが、まさに「流れる」以外ではないことに注意してみたい。つまりある具体性として、家を出ていくとか、濡れた夢や本の中の砂漠の町に憧れて、現実を否定する、というようなことではない。それはたぶん端的に「こだわりをすてる(執着をすてる)」というような意味合いのレベルでうけとっていいのだとおもう。「現在」ということは、実は「流れる」ようにある、ということで、ひとは、それ以外の存在の仕方をしていないのではないだろうか。「現在」が半分を未知にひらかれている以上、まったくの停滞や執着ということは「観念」としてしかありえない。そしてそのことに気づくことが「先に行く心に身体を添わせ」、夜がいつでも夜明けの前夜であることに心をひらいて生きることに結びつく。とはいえ、ここで東方の人の「悟り」にみちびくような「気づき」についてなにかをいいたいわけではない。作品もまたそんなふうに書かれているわけではないだろう。多くの読者が、水のように「流れていくことを選んだ」という詩の作者のメッセージから、それぞれ豊かないみを感じとってもらえればいいとおもう。



ARCH

須永紀子詩集『中空前夜』(書肆山田 2006年1月10日発行)






[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]