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果歩さんへの手紙 ―詩集『綿花―シロハルコ―』への覚書として



 だいぶお返事するのが遅くなって、申し訳なく思っています。お詩集『綿花』恵与
のこと、改めてお礼申し上げます。
 さて、前作『姉妹』もそうでしたが、この『綿花』にもタイトルポエムらしきもの
はありません。また、「綿花」という言葉に対応する、詩集の側の内的な連関という
ものもあまり感じられないようです。その真の秘密は果歩さんが握って放さないので
しょうね。ノンブルも目次もない。これが、前作に続く、果歩さんの「詩集の作り
方」なのだと思います。
 その「詩集の作り方」といえば、これも前作を引き合いに出して申し訳ないのです
が、あれに比べ、いっそうの完成度というか、その方向性の揺るぎなさというか、そ
ういったものを強く感じます。
 このことはまた、作品の内容にも関わって、そのいわば削ぎ落とされた贅肉や、あ
る倫理的な意志、いやそれどころか、宗教的な禁欲のようなものさえ覚えて目を瞠り
ました。それがまず扉のエピグラフの言葉、「切って! 切って! 切って!」の意
味するところなのでしょう(たぶん)。冒頭近くの作品「同じ人に掴まって」など
は、ほとんどプロフェッション、信仰告白のような色合いを帯びます。ですが、いわ
ば無神に対しておこなうプロフェッションというふうな色合いを帯びて――。
 なぜ「無神」なのかというと、私はここに明らかに認められる宗教性というもの
に、キリスト教に代表される感性のほうには回収されない性格を感じるからです。詩
を相手にして宗教論議というのも味気ないものですが、とくに「千百十一点イチイ
チ、無限の無」「双子電車」「紫空環生」「おサルの木」などには、仏教的な何かを
感じると言ったら過つことになるでしょうか。例を挙げると、「壁の向こうは無 壁
のこちらも無」(「千百十一点イチイチ、無限の無」)、「ぜんたい青 ぜんたい赤
とそれは敵対しない/ただの違いである」(「双子電車」)、「生かされていたと感
じていたあなたがわたしを生かす/殺されていると感じているあなたがわたしを生か
す」(「紫空環生」)、「色がついているものはなにひとつない/色がついているも
のはぜんぶである」(「おサルの木」)などに顕著です。これらに有無に渉らない
「空」の面影を見ないほうがむつかしいのではないでしょうか。般若心経などの言説
も思い起こされます。これは何によって果歩さんの詩の現場にもたらされてきたの
か。扉の「切って! 切って! 切って!」は、まるで煩悩、頭燃を払うかのように
手書きされていますよね。
 ひとつ考えられることは、ここに私的な履歴、というかエピソードがあって、それ
が果歩さんにかかる詩を書かせているのは明らかであるということ。しかし、いった
ん書かれた詩の理解が、再び私的なエピソードの中に一面的に回帰してしまうなら
ば、詩の価値ということを考えた場合、こういった作品行為に(当人にとって以外
に)どんな意味があるのか、という疑義がもちあがってくるのです。やはり、作者の
私性を突き抜けたところに、いいかえれば、作者が自分で自分を撥無してしまうよう
な作品行為に見舞われたとき、初めて真の意味で「詩が書かれた」と言えるのだと思
います。
 そういった意味で、その苦しみや悲しみ、寂しさがどこからやってきたか、それは
分からないけれど、詩集『綿花』における禁欲に至る心の足取りは深く普遍に触れて
いて、その果歩さんの詩的なみちゆきに私は心惹かれるのです。
 ところで宗教的なものとは言ったが、「双子電車」にはもっと荒々しいと言ってい
い初原的な、いわば「他界」が見えてしまう視力のようなものを感じます。例えばこ
んなところ。


赤いシートの電車に乗って
人間を見るためではなく かみさまのもとへ 出かける
それはぜんたい赤い
祝福しているつもりだろうかとおもう
なぜなら窓の外が窓の外がこんなにも照りか がやいているから
はんたいむきの電車とすれちがったとき
めだまをやたらおおきく見開いたおんなと
目があう だけど まったく関係のないこと と
できるだけゆっくり次元をまたいで、時間や 空気を味方につける
         (「双子電車」第一連)


ほんのわずかだが、行の間から凄まじいものが覗いています。これは果歩さんの資質
的なことにかかわる問題だろうから、これ以上は言わないけれど、果歩さんの「道
徳」性が神話の域に根を下ろしていることを思います。
 それにしても「湖岸」や「それは古びた仮部屋の一夜」に見る、哀切を極めた愛を
考えると、これらはこの世に占める地歩がないというか、この世のどこにも着地点の
ない性質のものではないかと思えます。また「かわうそとかわうそとかわうそのはな
し 二 虹色の橋をわたる」に見られる濃密な「死」のイメージも、そのことと相
渉っているのだと感じます。
 この世に占める地歩の無さはまた見方を変えると、この世における束縛の無さとも
言えるわけで、それが顕著にあらわれているのが、「遠くから来たバニラ」と「胡桃
屋(くるみや)」だと思います。ここに引いてみます。


遠くから来たバニラ
遠くから来たバニラ
ここにはたいくつもりくつもない
手はゆらゆらとじゆうに舞い
こんなところで会うなんて マダガスカル空 港のかなた
さかなになるよ
熱い火も燃える                  (「遠くから来たバニラ」全 行)


くるみやの子は ぴーちくぱーちく
ランドセル 木のお風呂がすき
空が青く透き通るころ
べにいろのふわふわの花が咲く


さむくなったらくるみをかついで かぞくで 全員すがたを消します(「胡桃屋」全 行)


下手を打つと通俗に堕すぎりぎりのところで反転し、詩のスイートスポットを打ち抜
く、こういう作品を読んで、胸の内にふくらみ拡がる自由というもの、放浪や旅、そ
んなことをむしろ抗いがたく思わせる果歩さんの詩人としての資質を、私は貴く感じ
ています。
 この世に占める地歩の無さと束縛の無さの両者を、この場合、作品系列的に媒介す
るのが「過ぎ去り行く時と星、記録は捨て去っても」であろうと思います。作品の最
後の三行「たとえ全部のアルバムをすてても/たとえ全部の日記をすてても/きっと
なんにもかわらないだろう」は、「わたしより早くあちらへいってしまうだろう君」
という一行と照応して、束縛の無さが現世と他界を往還するものであるとともに、な
んと、詩人の自由と抒情が、不増不減不生不滅という「空」の思想にも結び付いてゆ
く希有な光景を見せていると、私には思えてなりません。
 以上の言葉でこの詩集を言い尽くせたとは到底思えません。私の力の至らなさを、
この、あえて言えば「強い」作品集を前にして痛感します。また読ませてください。
果歩さんはいま、まだ誰も歩いていない荒野の中の道なき道を、たった独りで先行し
て歩いているのです。



(「tab」12号初出 2008・9月)

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