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ARCH 23

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇六年八月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




英霊と霊節

                                     わが霊師に




   靖国神社へのA級戦犯合祀論も、分祀論も、奇妙な思い込みに立った上で考察が始められている点において、ともに意味をなしていない。英霊なるものの存在を、心霊についての反省もなしに盲目的に措定した上での議論など、日本社会の再編に関わりかねない問題の扱いにおいては、言語道断と認識すべきである。
 英霊というものを、生者の側の心理的慰めの投影として受け止めるならば、なるほど幾許かの了解はできる。生者が心理的な複合感情を慰撫する施設として、ということならば、靖国神社の位置づけも知的に了解しやすいものとなってくる。
 しかし、その場合、英霊という言葉をすすんで用いる人々自身にとっては、皮肉な事態が出来するということになろう。「英霊」と発語しながら、その実、自分たち生者の心の慰撫が賭けられているというのでは、真に存在しているべき英霊に対して侮蔑も甚だしいことになろうから。
 英霊という言葉を用いる人々にとっては、「英霊」の意味は、なんら比喩的でない真の英霊でなければならないはずであり、真の英霊とは、心霊学上の心霊そのものでなければならない。心霊が問題とされるこのような場合、「英霊」という言葉の使用者は、心霊学における心霊の扱いを尊び、それを甘受しているのでなければならない。これは、自らが生きるこの世界を霊的な世界と認識し、霊界のしきたりに適うよう努めて生きるということを意味する。霊界のしきたりを知るのは、確実な能力を保持する霊能者たちや、運命と緊密に結びついた直観に恵まれるのでないかぎり、一般の人間には容易ではないので、霊能者たちの話につねづね耳を傾けて民俗学の伝承収集のような地道な作業を続けたり、五感や第六感を研ぎ澄ますための生活習慣の堅持や適切な心身の修養も行わなければならない。とりわけ、自我意識と自己顕示欲に対する峻烈な否定と解消の修養がなされなければならないのは言うまでもない(たとえばマイスター・エックハルトは、「我ということ、それは欺くことである」と言った)。
 そうした配慮を欠く者に「英霊」という言葉を使う資格がないとまでは言い得ないが、この語を、靖国問題のような場合に議論のひとつの礎として用いてしまえば、考察過程にしても、行き着く先にしても、いい加減なものにしかなりようがない。
 現状においては、「英霊」という言葉を好んで用いる人々の多くは、なんら心霊的能力を持っておらず、心霊生活の最低限のしきたりにも鈍感であるため、彼らにとって「英霊」はまったく存在していないに等しいという事実がある。「正義」や「愛」や「平和」とまったく縁のない心魂の人間たちが、好んでこれらの言葉を旗印に掲げがちであるのと同じ事情である。
 真に英霊とともにある者、心霊のしきたりを知る者ならば、たとえば靖国問題のような場合に際しては、身内である自国の英霊たちには当然ながらお待ち戴いて、大日本帝国が侵略し甚大な被害を与えてしまうことになったアジア諸国民の英霊たちに対してこそ、なによりも先ず赦しを求め、祈りを捧げようとするだろう。これが心霊学上の礼節というものであり、霊節なのである。「英霊」という言葉は、国語の範疇で考えれば、もちろんひとつの単語に過ぎないため、誰であっても思い通りに用いることができる。しかしながら、使用者が言葉の真義を理解しているかどうかが、使用者自身の態度にこれほど露骨に表われる単語も少ない。
 英霊とともにある者、心霊のしきたりを知る者は、霊的な常識も持っていなければならないし、霊的なノブレス・オブリージュというべきものも強いられている。霊的な常識は彼に、「英霊」と呼ばれうるほどの霊たちは、特定の神社に縛られるものでなく、そもそも祈りそのものを必要としないレベルにあると教えるであろうし、国家や民族のために本当に命を投げ出した霊たちであれば、死後はやい段階で、すでにこの世とは関わりのない次元に達しているはずであるとも教えるだろう。また、霊的なノブレス・オブリージュは、自らの血に繋がる先祖の霊たちの慰撫を差し置いても、異民族の霊たちの慰撫を先行するように強いるだろうし、なにより、途方もない悲惨な過去を大陸に作りだしたこの国をごく当然に恐れる諸隣国に対して、侵略を二度と繰り返さないとの決意をくりかえし明言する必要性を認識させるだろう。  はっきりと何度も確認しておかねばならないのは、「英霊」という言葉をあえて使用したがる者たちの側に英霊の存在したためしは一度もないということである。そういう者たちがなんらかの存在を心に感じ、それに衝き動かされる気がすると言ったところで、それはあくまで、彼らの統禦され切らぬ自意識と自己顕示欲が、無礼にも「英霊」という言葉とイメージを借りて表われ出てきたものに過ぎない。このような場合に顕著なのは、「英霊」を語る人間たちの示す狭量さと激しやすさ、差別の容認、他者の辛苦と悲惨への無関心などである。これらが発言者や行為者の上に観察される場合、これらの者たちの傍らには、断じて英霊はいない。霊は本性上、境界を作るものではなく、分かつものではなく、主客の別のある位相にも存在できないものだからである。
 万一、これと逆のことを生者に要求し、自らの帰属集団や民族や特定の地域の優位を主張してくる霊がいたとすれば、それは霊界のしきたりを認識できていない低級霊である。祀る対象というよりも浄霊や訓導の対象というべきであって、厳格に対処しなければならない。

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