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ARCH 47

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年十月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




食べないことの気持ちよさ



 古い対談で、野上弥生子と網野菊が日々の食生活について話していた。当時、野上はすでに八十歳に達し、毎朝、テレビでドイツ語とフランス語を学んでから執筆にかかっていた。そういう彼女なのに食事の取り方がいい加減で、なかなか面白い。それなりに実を取っていると窺えるのも面白い。

   私は朝ご飯はいただきません。その代りにお抹茶を大服で二杯がぶがぶ飲んで、お菓子をたくさん食べて、それでお仕舞い。お昼は牛乳二合に有り合わせの果物を食べるぐらいで、すこしも手間はかかりません。ただ晩だけはご飯を食べるから、どこかにお招ばれすると、恥ずかしいみたいにたくさん食べますよ。*

 頷ける気がするが、ものを食べないことの気持ちよさに、近ごろ敏感になったからかもしれない。一日に一度、バランスのとれた少量の食事を採る、後は胃をごまかす程度でいいと思うようになった。
 食べないといっても仙人ではないので、そこそこは食べる。ここでいう「食べない」は、このくらいは食べなければいけないという思いに従うのをやめ、あえてぐっと量を落とし、料理に気を使うのもやめることだ。ここまで意識的に行うのは、この生の中でも初めての経験といえる。
 たとえば休日の昼、これまでならスパゲティーや他の麺類を作ってみたりしたところを、キャベツの千切りと林檎で済ます。初めてやってみた時、体が軽々として気持ちのいい午後を過した。生活の中でなにがうれしいといって、ほとんど休息なしに、一日じゅう軽い体で活動できる以上の喜びはない。食後に体が重くなったり、眠くなるのは辛い。虚しくなる。そうした時間や感情を、どうすれば減らせるか。生活していく上で、これはかなり重要な課題だった。同じ作業を一時間半以上は続けないとか、同じ姿勢は四十分以上はとり続けないとか、人と会食や会話をするのは長くて三時間ぐらいまでが最良とか。いろいろな発見は自分なりにし続けてきたが、食事を極端に減らすことの効用までは、なかなか思いつかなかった。
 ストイックと評されることもある。が、体の軽さを保ちながら、なるべく疲れず、疲れても活動の中で回復をはかり、あれこれの文物、人びと、場所、テーマのあいだを蝶のように駆けまわるのは、好奇心だけで生きているような人間には、この上ない快楽主義と思える。心身の鈍重さこそが快楽に遠いのだ。自分の心身から、どれだけそれを落とせるか。これは、一日の生の充実度に直結する。
 食についての態度は人それぞれで、食べることに格別の喜びを見出す人がいるのはわかる。まずいものを食べるよりは、旨いものを食べたほうがいいに決っている。だが、ここに問題が生まれる。まずいものを食べるのがそんなにいやなことか、旨いものを食べるのはそんなに得難い幸福か。そう振り返ってみると、答えはそれほど明快ではない。他のことを差し置いてまで旨いレストランを探し続ける情熱を私は共有しないし、グルメを気取る人と同席するのは落ち着かない。まずいものを我慢するかしないかは、その時々によって態度が違ってかまわないと思うし、異常なまでに旨いものを追求したい時とそうでない時があってよいとも思う。
 食にかぎらず、ポリシーや趣味やファッションが決っているというのが好きでないので、そういうのが決っている人びとというのも苦手だし、そういう人びとに薀蓄を垂れられると茶化したくなる。状況優先型というか、心身の軽さ優先主義というか、気まぐれというか。その時どきの心や体の調子に過度に敏感で、瞬間ごとに方針を変えるセンスィティヴの極みの型なのかもしれない。
 この世の快楽の代名詞のひとつのように言われる酒なども、所詮、つまらぬものと思う。悪酔いもしなければ、酔いつぶれもしない便利な身体を持って生まれてきたし、酒の味わいの違いにも鈍感ではないから、いくらでも付きあえるが、それでも多量に飲めば、憎むべき鈍重さで心身が満たされていく。飲んでいる時の脳裏には、アルコールが体の細胞をどんどんと老化させ破壊していくさまがいつも浮かんでいる。肝臓のアルコール処理能力は、体重一キログラムあたり一時間に〇・一グラムほどだそうだから、六十キログラムの人なら一時間で六グラム。ビールの場合なら、一八〇CCに九グラムのアルコールが入っているから、もし夜遅くに六三三CCの大瓶を二本も飲んだら、朝にもアルコールは抜けない… こんなことを考えながらたいてい飲んでいるのだが、無粋だとも思わない。どう飲んでも、旨い酒は旨いので、味わいの妨げにはならない。
 とはいえ、どんなに旨いと思える酒を飲もうとも、やはり酒はくだらない。そう思うのにかわりはないわけで、酒を大事とみなす姿勢には歩み寄る気もない。文化というものは、古来、感覚刺激系の経験を誉めそやし、そういう経験を与えてくれる文物に偶像崇拝を差し向ける傾向がある。一方、そうした文物や経験を排除しようという傾向も同一文化内にはつねにある。私のようなものは、そちらに属しているということになろう。
 ボードレールなどを読む際にもこれは影響する。彼の詩や思想には面白みも共感も感じるものの、あの酒精礼賛や阿片礼賛など、本気で言っているのなら子供じみていて、相手にしていられない気がする。むしろ、酒に酔う暇など惜しみ、ノルマンディー上陸作戦を迎え撃つべく、始終明晰な頭で準備に余念のなかったロンメル元帥などのほうが興味深いし、よほど親しみも感じる。
「この酒はいい」というのと、「酒というのはいい」というのとは、まったく違う。ひょっとしたら、「この」という指示語が付くか付かないかにこだわっているのかもしれない。ポリシー嫌いなどと言いながら、いちばんうるさいポリシーの持ち主ということなのか。




*中央公論社版『日本の文学 第四十四巻 野上弥生子・網野菊』(昭和四十年十月五日発行)、付録「女流文学と作家生活〈対談〉野上弥生子・網野菊」所収。

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