1)今回の旅行経路と日程

 今回もパックツアーにもぐり込んでの旅から始まった。せっかくヨーロッパまで出掛けてそのまま帰ってしまうのは惜しい気がして、個人旅行を付け加えることを考えついたのが2年前、この方式に味を占め今回が3回目である。

 当然ツアーの中に帰りの飛行機代も含まれていて、ただ日取りをずらしてもらい、その間の宿泊を自分で手配するだけである。前半はスキーに専念、後半は観光半分の気ままな個人旅行と云う訳である。今回ツアーに選んだのはバルディゼール。フランスと云ってもアクセスはジュネーブ(スイス)、南東へバスで3時間半位の所にある。帰途一行とはジュネーブ空港で別れ、一人旅に出発した。

○バルディゼール (フランス) 7泊
(ツアー参加)
○ルツェルン (スイス) 3泊
○ザンクト・クリストフ (オーストリア) 2泊
 ゼーフェルト・イン・チロル (オーストリア)
○ガルミッシュ・パルテンキルヘン (ドイツ) 3泊
 オーバーアマガウ (ドイツ)
○ミュンヘン (ドイツ) 3泊

4カ国−5カ所、3月3日出発、3月22日帰国、18泊、機中1泊、20日間の旅であった。もちろん期間、旅行距離共、これまでの最長である。


2)スケールの大きいバルディゼール(Val d'Isere)

ティーニュの町と山 バルディゼールと云うとスキーヤーは別として、一般的にはあまり知られていないかもしれない。先程ジュネーブの東南と書いたが、グルノーブルの東100Km、ヨーロッパアルプスの最高峰モンブランの南45Kmに位置する。山を一つ越えればイタリアである。 スキーシーズンが終われば、おそらく静かなリゾート地となるのであろう。隣のテーニュと合わせて縦横にリフトで結ばれていて一帯をエスパス・キリー(l'espace Killy−the space of Killy )、キリーの空間と呼ばれている。バルディゼールの山々キリーは1968年の冬期オリンピックでトニー・ザイラー(オーストリア)についで2人目のアルペン3冠王に輝いたフランス選手で、その名を冠したものである。その後アルペン種目も4つに増えているし、それぞれが高度に専門化されている現在、将来も含めて再び全種目優勝選手が現れることはないだろう。  スキー場の規模ついては、資料によると                                   

標高 1,550〜3,550m(標高差 2,000m)
コース総延長 350Km
リフト数 ケーブルカー,ロープウェイ:12、チェアーリフト:49、Tバーリフト:41

とあるがこれだけではちょっと見当が付かない。 我々は6日間滑ったが、もちろん全部のコースを廻った訳ではない。というより地図を持っていても自分が何処を滑って、何処にいるかさえ判らない位である。この様な訳で当然ガイドが付いてくれた。フランス国家検定スキー教師の資格を持つパトリックさんとフランソワーズさんの2人でメンバー17人を2組に分け、交代でガイドしてくれた。因みにフランソワーズさんは北海道に居たことがあるとのことで日本語もかなり堪能だった。

針の穴  標高3,000m付近に2つの氷河があり、夏スキーも出来るとのことである。もちろんここも滑ったが、冬の間は全体が雪に覆われていてどこが氷河なのかはっきりは判らなかった。また永年の風化作用によってできた"針の穴"(L'AIGUILLE PERCEE)という今にも崩れそうな環状の岩の造形も面白かった。 スキー場内の最高峰はグラン・モッテ(3,656m)でリフトで登れる最高地点は3,456mである。独断と偏見を以て日本のスキー場に例えれば「志賀高原一帯と熊の湯、横手山をくっつけ標高差を2倍にして、リフトのつなぎを良くしたもの」と表現しておこう。

高速ケーブル“Funival”  国際的にも一級のスキー場であるここはリフトなど設備も良い。とにかく一つのリフトが長いのには驚いた。またほとんど地下部分を走る最新のケーブルカー(ロープで結ばれた2台の車両が行き来する一般的登山電車の方式)"Funival"は標高差1,000mを、かなりの傾斜ながら数分で行き来する。乗っているとまるで平地の電車のようなスピードで、とても登山電車とは思えない初めての体験であった。 ここのスキー場だけではないが、ヨーロッパでTバーリフトが多いのは氷河など地盤の弱い所に柱を建てなければならないという制約かららしい。

 我々が滞在した週は下では最高気温がプラスになる程で、高目であったが、この時でも3,000m付近は別世界で雪質も良く滑り心地は最高だった。「先週は−20゜Cの日が続いた」とフランソワーズさんが云っていたように、今年のヨーロッパは気候の変動が激しいようである。日本は今年大雪であったことを彼女は知っていた。 

バルディゼールの街  町は大きくはなく、ホテル、レストラン、銀行、ブティック、スポーツ店などが両側に300m程続くだけである。スポーツ店と云えば先程のキリーの店もあるが、「本人はスイスに住んでいて、めったに顔を見ない」とフランソワーズさんが云っていた。(おそらく今50代半ばではないかと思われる。)なおスーパーは2軒あった。

 何日目だったか忘れたが、夜市が立つた。衣類、食料品、日用品、雑貨などの露店が歩道を埋め、見るだけで楽しかったが、人形を扱う店で"ピカチュウ"のぬいぐるみを見つけた。 “ピカチュウ” "ポケモン"のTV番組そのものを見た訳ではないが、おそらく吹き替えが行われ日本製とは知らずに子供達が喜んで見ている人気番組なのだろう。アメリカでブームを起こしているのは聞いたことがあるが、ヨーロッパにも進出しているとは知らなかった。 

 最終日は山越えでイタリアのラ・テュイールに行くオプションツアーに参加しようと思っていたが、天候が悪く中止となった。結果的に翌日回復し、残念であったがまたの機会に楽しみを残して置こう。バルディゼールは結構リピーターが多いと聞いているが、これもこのスキー場の大きさ、奥深さを物語る証しであることを体験してみて良く判った。とにかくこの6日間はなにも煩わしいことなくスキーに専念できて楽しかった。年を省みず若い人達と張り合って滑りまくり、最後はさすがにバテ気味だったが・・・。

 リフトパスは全域共通で、例えば6日間で大人1,160フラン/シニア(60歳以上70未満)971フラン、円換算1日当たり¥3,300/¥2,700で、最近少し安くなった日本とほぼ同程度の料金である。(リフトパスは写真が必要。75歳以上は無料というのが面白い。)ここは人による改札であるが一番下のリフトやロープウェイでパスを見せるだけ。二番目からはフリーパスなので見せる回数は一日せいぜい4,5回程度。不便は全く感じなかった。日本でも全リフト改札をやめて下のリフトだけに何故出来ないか検討して欲しいものだ。 日本を発って8日目、朝早く起こされ7時出発、ジュネーブ空港には11時頃着き、昼過ぎにはツアーの一行と別れた。


3)スイスの中のスイス-ルツェルン

 いよいよ一人旅の始まり少々気の引き締まる思いがあった。今回鉄道での移動を前提にユーレイルパスを日本で購入して来た。何処でも何回でも乗り降り自由。1等車に乗れ、追加料金もなく、その度毎に切符を買わずに済む。今回の旅の距離、内容ではたして元が取れたか疑問であるが、慣れない者にとっては非常に便利であった。

 ジュネーブ空港駅12:20発、ベルン14:13着、時間も多少あるので市内見物でもと思ったが、資料を持って来なかったのに気付き、スタート初日のことではあり、諦めてルツェルンへ直行した。予約していたホテルにチェックインし、夕方のルツェルンの町に出掛けた。
遊覧船から見たピラトゥス山  ルツェルンはフィアヴァルトシュテッター湖 (Vierwaldstaetter See−4つの森の国の湖)のほとりにあり、スイスのほぼ中央部に位置する。中世の面影をとどめる静かな美しい町で、旅行案内書にスイスの中で最もスイスらしい街と紹介されていた。例えば湖上の遊覧船からの景色はまだ冬で鮮かではないが、明るい草原に草をはむ家畜と点在する農家の春景色を想像すると、日本人の思う"スイス"がそこにあった。

リギ登山鉄道の蒸気機関車  初日は始めピラトゥス山の観光を予定していた。世界一の急勾配を誇る登山電車に興味を持ったが、調べてみると冬の間は運休で別ルートのロープウェイで往復するよりないと分かり、急遽リギ山(1,750m)に変えた。遊覧船でフィッツナウに渡り、そこから登山電車で頂上まで行ける。天気が今一つだったが360゜の展望が望めた。私の乗ったのは電車だったが、蒸気機関車も走っており、整備中の機関車は見ることができた。料金はユーレイルパスを使って往復43.5スイス・フラン(約¥3,200)/なしで58 SFr(¥4,300)。駅構内のインフォメイションで購入できる。

 2日目はスキーを持ってティトゥリス山(3,033m)へ出掛けた。エンゲルベルク鉄道で南30数Kmのエンゲルベルクまで行き、ロープウェイを乗り継いで一気に山頂直下に行ける。最後のロープウェイは上まで行く間に1回転するという展望サービス付きである。ここを訪れる半分は観光客で、私の行った時はインドネシアの団体に占領され、私のスキーは記念写真の小道具として借り上げられ、暫く戻って来なかった。頂上近辺は氷河地帯で中斜面、さすがに雪質も良かった。 青氷の露出した氷河 その下は氷河の末端と思われる青氷が露出していて珍しい光景だった。その脇を急傾斜の上級バーンがしばらく続き、その下にもスキー場があるといった具合で何段かの階段状になっている。巻き道はあるがもう少しつながりが良ければ長いコースがとれ、規模の大きい良いスキー場になるのではと思った。料金はエンゲルベルクまではユーレイルパス使用で、ティトゥリス一日券は大人49SFr(約¥3,600)/シニア39SFr(¥2,900)だった。

 市内の名所は2日に分けて空いた時間を利用し見物した。カベル橋、ホーフ教会、ライオン記念碑、スイス交通博物館など観光案内は専門の旅行書に譲るとして2,3写真を載せておく。

カペル橋 スイス交通博物館内部


4)懐かしのザンクト・クリストフ

国際列車“ユーロ シティ”  ルツェルンから1時間余り、チューリッヒでオーストリア国鉄乗り入れの国際列車、ウィーン行きユーロシティ(EC)に乗った。私の乗ったのは2階建ての一等車だった。音も静かで乗り心地が良く快適だった。途中スイス−オーストリア国境近くのブックスで税関職員が乗り込んできて、パスポートの検閲があった。常時やっているのか判らないがヨーロッパEU域内国境での検閲は珍しく、お陰でパスポートにスタンプをもらえた。普通海外旅行をしても、成田の出入国の判が押されるだけで何処へ行ったのか判らないのに良い記念になった。

 昼過ぎザンクト・アントンに着いた。話には聞いていたが駅が山側へ移動していた。駅舎は新しく綺麗になったが、残念ながら壁で遮られホームからスキー場が見えなくなっていた。今年一月末アルペンスキーの世界選手権が行われ、それに合わせて工事が行われたと思うが、後で元の駅の場所に行ってみると線路は取り外されてはいたものの、駅舎はそのままでただ広場になっているだけだった。競技観戦がし易いようにゴールを広げたのかと想像していたがそこまでは行われておらず、もとの家並みが旧駅広場との間を隔てていた。これから移転が始まるのか?

オーストリア国立スキー学校  ザンクト・クリストフはザンクト・アントンからバスで10分位の小さな集落で実は今度3度目である。一昨年とその前ブンデス スキー アカデミー入校体験ツアーというのに2回続けて参加したことがあり、その時に教わったエディ&ペピ・ハウワイス氏の経営するホテル−ガストホフ・バルーガに今回予約してあったのだ。エディさんはおそらく60代半ばだと思うが、オーストリア国家検定スキー教師の中でもアウスビルダーと云い、教師の指導をする資格を持っている。日本にも指導あるいはデモンストレーションに来たことがあるそうで、彼を知っている日本人もいるはずである。

 全日本スキー連盟(SAJ)のスキー教程のできる前、昭和32年にクルッケンハウザー教授著「オーストリア スキー教程」が法政の福岡孝行氏によって翻訳され、この本により日本でオーストリアスキーが広まるきっかけになったのであるが、この本を見せたらある写真を指して、「これは僕だ。」と言っていた。おそらく当時20歳を前にしていたはずで、既にデモンストレーターの端に加えられていたのだろう。今回もお会いしたが元気で指導を続けている。写真は前年度版でも触れたザンクト・クリストフにあるオーストリア国立スキー学校の本拠地"ブンデス シー アカデミー"のものである。

 ここで2泊したが、ザンクト・クリストフとアントンはスキー場としては全く一体のもので以前のことを思い出しながら滑った。さすがに何度か来ているのでコースはほぼ覚えていた。ザンクト・アントンは野沢温泉と姉妹都市の提携関係にあることを知っている方は多いと思う。リフトパスは1日券、大人485オーストリア・シリング(約¥3,900)/シニア435ATS(¥3,500)だった。

 そう云えばリフトパスの方式が変わっていた。カード式であることには変わりないが、非接触式、厚さ0.6〜7mmのカードサイズで日本のよりずっと薄く軽量、しかも検知範囲が広く通過するだけ、大分進歩していた。(ICカードにしては薄過ぎ、しかも使い捨て)


5)ガルミッシュ・パルテンキルヘンへ

 ザンクト・アントンを出発、インスブルックでドイツ国鉄(DB)ミュンヘン行に乗り換えた。時間の余裕があったのでインスブルックから40分"ゼーフェルト"で途中下車した。 ゼーフェルトの観光馬車 この町はスキー場も2カ所あるが、日本では"ディスタンス"と呼ばれている歩くスキーが盛んで、高級ブランド品を扱う洒落た店などが並ぶ高級リゾートである。一昨年友人に紹介されて泊まり、感じが良かった"Hotel−Garni Dietrich"に立ち寄った。実はその時家族と撮った写真を昨年インスブルックに来た時に郵送したのだ。そのことを覚えていてくれ、お礼を云われた。ついでにコーヒーをご馳走になった。

 ここではもう一つ初めての経験をした。実は昨日泊まったバルーガのホテル代をカードで払おうとした処カードは受け取らないことが判り、現金は用意してなかったので銀行口座を教えてもらい後日、日本から振り込むことを約束したのだが、それでは遅くなるし、時間もあるのでここの銀行から送金することにした。ドイツ語で送金するなんて初めての経験でどう切り出したら良いかどきどきしたが、考えてみればここはまだオーストリアなのでまず日本円をシリングに替え、送金先の口座と金額と私の名を告げれば良いのだ。結果的にはこういう事務的な話のほうが、ドイツ語のテキストより余程やさしいかった。手数料として10シリング払い残りをシリングで貰ったことを良く覚えている。再び汽車で1時間、5時半前にはガルミッシュ・パルテンキルヘンに着いた。


6)ツークシュピッツェ

バイエルン ツークシュピッツェ鉄道  どうしてこんな長い名の町が生まれたのか、ものの本によると私の生まれる前の話であるが、ヒットラーが冬期オリンピックを招致するために強引に2つの町を統合させたことから付いた名らしいのだ。今でも市庁舎一つはやむを得ないとして、その他の施設はバランスを取って交互に作るよう配慮していると書いてあった。線路を挟んで西側がガルミッシュ、東側がパルテンキルヘンという訳である。ここで泊まったのは今回の旅行では唯一の4つ星ホテル、さすがに設備、サービス等それなりに良かった。

ツーク シュピッツェ山頂より ここでは1日目はツークシュピッツェ(2,966m)、2日目午前はアルプシュピッツェ(2,628m)でスキーを、午後は市内観光を行った。ツークシュピッツェはオーストリアとの国境にあり、ドイツでは一番高い山である。頂上直下ツークシュピッツェ プラットまでアブト式鉄道−バイエリッシェ ツークシュピッツ鉄道が運んでくれる。途中2度ばかり車両を乗り換える。この辺がスキー場で、さらに頂上まで標高差で300m程ロープウェイが延びている。天気も良く頂上からの景色は素晴らしかった。さらにロープウェイで麓まで下るコースもある。ドイツ最高峰と云うことで観光客も多くにぎわっていた。何故か山頂駅の案内板、ゴミ箱などドイツ語、英語に加え日本語の表示がなされていた。このスキー場は氷河で削られた"カール"部分にできているので傾斜も緩く、上級コースはないがさすがに雪質は良かった。氷河地帯なので確か1本を除いてすべてTバーリフトであった。麓へ滑っては降りられないようだ。

 スキー場としては2日目のアルブシュピッツェの方が規模も大きく多様で面白かった。前日と同じ登山電車で2駅目、アルプシュピッツェからロープウェーで頂上まで行ける。距離も長く麓まで滑り降りることができるがすでに下は春、雪も悪く最下部はコースだけ人工的に雪を付けている様な状態だった。もう少し早い時期に訪れたかった。

ツークシュピッツェ山頂駅の案内板  昼頃リフトの中間乗り場でうっかりストックを挟んで折ると云うハプニングがあった。バランスも良くようやく手になじんできた頃で非常に残念だったがスキーは今日で最後、今までの"厄払い"をしてくれたと思って諦めた。写真を撮って山頂駅にそっと置き、昼食後早々に引き上げた。午後は市内観光、聖アントン教会、アルテ教会、バイエルン地方特有の建物に装飾されたフレスコ画など見て回った。ここではホテルに泊まると市内のバス無料のカードをくれる。

 リフトパスは登山電車を含み一日券、ツークシュピッツェ63ドイツ・マルク(約¥3,600)/アルブシュピッツェ50DM(¥2,900)だった。登山電車の駅で買える。クレジットカードは使えなかった。


7)オーバーアマガウ経由ミュンヘンへ

オーバーアマガウのカトリック教会  ミュンヘン直行では時間が早すぎると気付き、前日予定外のオーバーアマガウ、リンダーホフ城に寄ろうと決め、フロントで聞いたところ駅前からバスが出ていることが判った。8:00発、オーバーアマガウまで40分位だったろうか、9:50発のリンダーホフ城行きにはまだ少し時間があったので町を少し見て戻って来た。よく時間表を見たらその日はたまたま日曜で、9:50発は週日のものだったのだ。そこへ先程のバスが終点フュッセンから折り返して戻ってきた。その運転手が私のことを覚えていて、時間表を確認しタクシーで行くしかないことを教えてくれ、近くにいた人にタクシー料金を聞いてくれた。どうしようか迷ったがここまで来て諦めるのはとの想いで、意を決して駅の広告にあった番号を回した。恥ずかしい話だがこれまでドイツ語で電話したことはなかったので少々緊張した。しかし考えてみると、せいぜい行き先、今何処にいるか(名前)ぐらい告げれば十分であることを電話した後で改めて認識したのだった。

リンダーホフ城  リンダーホフ宮殿はあの有名なノイ シュバンシュタイン城を作ったルードヴィッヒU世が完成、住んだ唯一の城で、小型ながら装飾の華麗さは遜色ないと云われている。それ程古いものではなく、高々19世紀半ばの建築である。確かに豪華絢爛なことは認めるが、日本人の私にはくどすぎる感は否めなかった。ノイ・シュバンシュタインは以前見学したことがあり、この後ミュンヘンで訪問したニンフェンブルク城と合わせてバイエルン王国の主要な居城は今回でだいたい訪問したことになる。入場料は8マルク、ドイツ語か英語の説明付きでチケット購入の際どちらにするか聞かれる。私の場合とりあえず英語にしたが次回の説明がたまたまドイツ語で、説明員が館内に入れる時私に英語の説明は次回だと言ったが、「構いません。時間がないのです。」とドイツ語で答えたら入れてくれた。周りのドイツ人の視線を感じた。内容はたまに知っている言葉が聞こえる程度だったが、説明の口調が舞台女優のせりふを聞くようで面白かった。英語ならどうだったかな?

“ヘンデルとグレーテル”の家  来る時のタクシーに時間を指定し迎えを頼んで置いたので、またそのタクシーでオーバーアマガウに戻った。タクシー料金は往復で約80DM(¥4,500)だった。オーバーアマガウではロココ様式がたいへん美しいカトリック教会や案内書にでていたフレスコ画で装飾された建物、「赤頭巾ちゃん」「ヘンゼルとグレーテル」「七匹の子山羊」など写真に収めてきた。駅に戻り15:08発の列車に乗っていたら、後で乗ってきたお婆さんがにこにこして話し掛けたそうにしているので、これまでの旅行の話をした。歳を聞いたら87歳と言っていた。手持ちの和紙の葉書をあげたら喜んで、握手をして途中の駅で降りて行った。ムルナウで乗り換え16:53この旅の最終滞在地ミュンヘンに着いた。


8)ミュンヘン市内観光

 ミュンヘンで一寸トラブルがあった。E−mailで予約していたつもりのホテルに行ってみたところ、予約が入っていなかった。ホテルからの条件提示に対し同意の意志表示を送っていないため取り消されていたのだ。確かにその文書を見直すと"Angebot(提案)"と云う字句があった。たまたまその日は部屋が空いていたので一泊することにし、早速駅構内のインフォメーションに飛び込んで、あと2泊のホテルを探してもらった。幸い同じ中央駅近くのホテルが見つかり事なきを得た。他のホテルで予約の際クレジットカード番号を知らせ、それを担保にすぐ確認書が送られてきたのに慣れ、良く読まずに勘違いをしたのだ。これからも"Angebot"には気を付けねば・・・。

ミュンヘン新市庁舎
1日目 マリエンプラッツ(広場)−新市庁舎−フラウエンキルヒェ(聖母教会)−バイエルン国立歌劇場−レジデンツ宮殿−ティアティーナ教会−オリンピック公園−BMW博物館−メンザ(学生食堂)−イザール門−ドイツ博物館。
2日目 カールス広場−ニンフェンブルク城−アルテ・ピナコテーク(美術館)−ペーター教会−ヴィクトゥアリエン・マルクト(市場)。
3日目 ノイエ・ピナコテーク(美術館)−新市庁舎。(午後帰国)

オリンピック公園  通っているドイツ語教室でミュンヘン観光のビデオが教材としてとりあげられ、勉強したことがあるので興味深く臨んだ。第1日目は月曜で博物館など休館のところがあり多少影響を受けた。詳細な解説は他に任せるとして、印象に残ったものだけ順に触れてみる。マリエン広場に面した新市庁舎は新と云っても18世紀後半から19世紀始めにかけて建築されたネオ・ゴシック様式の古びた建物である。塔半ばにある仕掛け時計が有名で、仕掛けが動く時間には何処からともなく観光客が集まって来て急ににぎやかになる。 最終日もその時間をねらってわざわざ行ってみたが、たいして複雑な動きをする訳でもなく、こういう類にはあまり期待を掛けない方がよい。教会はここだけではないがミサが行われる日曜以外も日中は原則として解放されていて中に入れる。片田舎のそれ程と思えない教会が中に入ったら素晴らしく立派だったなんてことはよくあることだ。教会は読み書きの出来ない多くの人々を洗脳し改宗させるために考え抜かれ、長い期間をかけて集約されたキリスト教布教の大切な道具だから異教徒の我々でも何か敬虔な気分になるように出来ているのだ。聖母教会も立派だった。

ニンフェンブルグ城

 オリンピック公園は1972年のミュンヘンオリンピックのために建てられたもの、2日目のニンフェンブルグ城はバイエルン国王代々の夏の離宮として17,18世紀に建てられたもので第二次世界大戦の戦禍をかろうじてまぬがれたのだそうだ。他にルードイッヒU世が愛用した豪華な馬車の展示館、陶器コレクションの展示館が付属している。広大な庭園が廻りを囲んでいるが、冬なので草も枯れ、彫像などは雪囲いをされていて本来の姿は見られなかった。 ノイエ ピナコテーク入口  近くのBMW博物館は4つのシリンダーをイメージした建物、自動車メーカーBMW本社に付属した自動車、航空機の展示館である。ミュンヘンは大学の街でもあり"Menza"は一般の人でも利用出来る学生食堂である。既に食事は済ませたあとだったので2階の食堂には入らなかったが、廉価だそうで、長い列が階段下まで続いていた。面白かったのは下の掲示板で、誰でも自由に貼り紙が出来るらしく、部屋の貸し借りからアルバイト探し、斡旋、物品の売り買いまで色々な貼り紙であふれていた。ドイツ博物館は機械、電気、原子力、宇宙から楽器までありとあらゆる科学、技術の発達を展示した科学博物館で今まで見た中でも抜きんでて大きい規模だった。

ビクトゥアリエン市場  休館日の関係で見学が翌日と分かれてしまったがアルテ、ノイエ・ピナコテークは絵画だけの美術館で年代別の展示は美術史の流れが自然に理解できる内容で、保存状態の良い作品が揃っているように感じた。自然光を採り入れた照明もよく、今まで見た美術館の中でも屈指のものだった。アルテは14,15世紀からの宗教画を中心としたもの、ノイエは印象派19世紀以降の有名な画家の有名な作品が散見された。 2日目の夕方はマリエン広場に戻り、少し南のヴィクトゥアリエン市場に寄った。肉屋、ソーセージ、魚、野菜などの食料品店、土産屋、インビス(軽食スタンド)などが並んだ市場で見ているだけで楽しく、教材にも出てきた所で懐かしかった。

ミュンヘンの市電  市内の観光地を廻るには1日/3日券があり、それぞれ9DM/22DM(約¥510/¥1,250)。通常の観光施設のある範囲をカバーし、期間中種類を問わず乗り放題、いちいち切符を買う必要がなく便利である。 駅の切符自動販売機で買える。インフォメーションでもらえる地図、路線図(日本語版あり)を手に1日も歩けば、Uバーン、Sバーンはもとより市電くらいまでは自由に乗りこなせるようになるはずだ。地下鉄を利用し、地上に出た時は方向が分からなくなるので磁石があると助かる。考えてみると我ながらこまめによく歩き回った2日半だった。


9)帰国の途へ

 出国後19日目午前中にノイエ・ピナコテークと新市庁舎の仕掛時計の見物を終え、ホテルに預けていた荷物を受け取ると、いよいよ帰国の途についた。中央駅から"S8"で45分、ミュンヘン空港(フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港)には14時前に着いた。残ったマルクでお土産のチョコレートを買ったり軽い食事をとったり悠然としていたが、トラブルが始まったのはその後だった。本来16:25発予定のKLM1796便にまず30分遅れの表示がでた。そもそもこちらに向かっている便が遅れているらしいのだ。出発定刻になって、再度19:00出発の変更が表示された。便変更を決めたのか列を離れる乗客も出た。心配になってゲートカウンターに乗り継ぎの航空券を示し、間に合うかどうか必死で聞いたが要領を得ない。質問は考えればどうにかひねり出せても、ヒアリングには限度があるのだ。正常な時と比べるとこういうトラブル時はますます力が落ちる。この時ばかりはもっと勉強しておけば良かったと真剣に思った。もっとも後で冷静に考えて見ると係員だってどれ程説得できる様な確かな情報を持っていたか疑問で、語学力の問題だけではなかったかもしれないが・・・。出発はそれより更に遅れ、アムステルダム空港に着いた時は既に乗り継ぎ便JAL412の出発時刻20:15を過ぎていた。他人をかき分けるように大急ぎで降り、表示ボードで出発ゲート番号"E8"を探し出すと、広い空港内を走りに走った。結果的には15人の団体を乗せたマドリッドからの便待ちで出発はさらに遅れ、大事には至らなかった。ただ一つ良かったことがある。預けた荷物はアムステルダムで引継が間に合わず私の便には乗っていなかった。翌日成田に着いたらしいが事故扱い、航空会社の責任で自宅まで配達してくれた。使うはずだった宅配便代がたすかったのだ。

 ツークシュピッツェで会った新婚カップルとか、ニンフェンブルク城で会った父子とかさすがに有名観光地では日本人に会うこともあるが、これまで日本人に見えても中国系(台湾を含む)か韓国人が多く、失敗した経験から、先方が日本語を話すのを確認するまでこちらからは声を掛けないことにしている。ジュネーブ空港で仲間と別れて以来2週間、数えるほどしか日本語に触れていなかったせいか座席に着いて回りから聞こえるひそひそ話に実はほっとしたのだ。「和食にしますか、洋食にしますか?」と聞かれた時思わず「和食!」と叫んでいる自分を発見した。好き嫌いの無いことを自負している私も、この時ばかりは牛丼の米の飯がむしょうに旨かった。

 そう云えばアムステルダムでこの様な状態だったので、土産を買った時の免税申告書類にスタンプをもらうことが出来なかったことを後で気がついた。「免税分39マルクどうしてくれるぅー!」。今その書類を見ながらワイン・グラス片手にあの時のことを懐かしく思い出している。


10)付録−その他諸々


a)ホテルの予約

 昨年12月今回一人で旅する3カ国の政府観光局を廻って宿泊希望都市のホテルリストを入手した。調べてみると一昨年は4つ星以上の大きなホテルがちらほらE−mail アドレスを載せている程度だったが、ここ1年で3つ星ホテルの半分は、ホームページとセットでアドレスを載せるようになっていた。凄いスピードでインターネットが普及していることを感じ、これを使わない手はないと考えた。今回の4カ所のホテルはすべてメールで予約したものである。日頃何気なしに使っているものだが、特に海外から返事が来たりすると頭では判っていたつもりでも改めて「メールは世界に繋がっているんだ。」と云う実感が得られ感動した。ただし"エンコード"を西ヨーロッパ系言語に設定変更し、全角文字、記号は使わないようにしないと先方で文字化けを起こし判読不能になるようだ。使ってみて良かった点は基本的に時差の問題がないこと。やり取りが記録に残ること。ホテルのホームページからリンクを通して当地の観光情報など予備知識が得られることで、今回の旅行の際、旅行案内書を補って大変役だった。これからも大いに利用しようと考えている。

b)ユーロパスのこと

 ヨーロッパの鉄道旅行用に日本で買えるこの類のパスは以前から幾つかあったが、規模の大きい旅行用で最小金額も高く使いにくかった。もっと小規模な旅行のために売り出されたものがユーレイルセレクトパスである。隣接する3カ国を指定でき、最短が5日間。ドル建てのため為替レートにより変動するが価格は月初めに決まる。私の購入したときは約4万円だった。購入後6ヶ月以内に、使い初めた日から2ヶ月以内の好きな日を5日選んでその日1日乗り放題というものである。今回の旅行で果たして金額的に元が取れたかどうかは疑問である。ただし使い心地はたいへん便利だった。1等車に乗れ、何処ででも乗り降り自由、登山電車など私鉄、船など対象でなくとも割引があったりする。日本のように特急券が別などということがないので、座席指定、寝台など使わない限り追加料金は不要である。使い始めは駅窓口でパスポートを提示、署名してバリデーションスタンプ(確認印)を押してもらう必要があるが、その後の使用日は自分で書き込む。(鉛筆不可、間違っても一日とカウントされるので慎重に。)

c)ヨーロッパ鉄道の旅、初歩の初歩

 何処から始めたらよいか迷うが、顕著なのは改札がないことである。ホームが平行した道に面していて、何処からでも直接歩道に出られるのさえ見たことがある。だからその代わりは車内の車掌による検札ということになる。車掌が来なければ切符を買わなくたってどうってことはない。ただし不正乗車が見つかったときは多額の罰金が待っている。これでバランスがとれているのだ。切符を買って持っていてもそれだけでは駄目で、同一切符で何回も使う意図を持った不正乗車と見なされ罰金の対象になる。従って切符を買ってから大抵ホームの付け根、階段からホームに出る所にある"刻印器"(Entwerter)に差し込んで日付、時刻を刻印する。これで初めて乗車可能な切符となる。

刻印器  先程ホームの付け根という表現を使ったが、何とか中央駅と呼ばれる大きな駅は大抵櫛形のホームで如何にも終着駅という感じがする。全体を覆った大屋根が特徴である。上野駅の列車のホームを想像すればよい。時々ホームで自転車に乗っているのを見る。何故かというと時間によっては制限されることはあるらしいが、自転車を車内に持ち込むことが許されているからだ。日本でも実施しようという話は聞いたことがあるがその後どうなったか。旅の形が増えて楽しいのではないだろうか。そういえばデッキのスペースは日本の鉄道よりかなり広く。荷物を置くには都合良かった。

ドア開閉ノブとステップ  ホームは日本に比べ低くステップが列車の方に付いている。重い荷物を持って乗り降りするのは大変だった。それから市電、地下鉄も含めてドアは自動的に開かない。自分でハンドルを回すか、ボタンを押さねばならない。待っていたら永久に開かずそのまま発車してしまう。発車の時日本と違ってアナウンスもなければ、ベルも鳴らない。いつの間にか"スー"と出発してしまうのだ。それから今回経験したわけではないが、ホームでホーム番号の後にA,Bが付いているのを見ることがある。これは前後で行き先の異なる2つの列車を連結した時など区別するために使うのだそうだ。乗り間違えないように注意する必要がある。

座席指定カード  客室は1等車は通路を鋏んで2列と1列シートで向き合っている。広軌なのですごくゆったりした感じがする。コンパートメント式の車両もあるが3人掛けの対向シートが1ボックスになる。最近コンパートメント式は多少減っているようである。2等車は2列+2列シートが普通。日本の様に車両によって座席指定車と自由車が分かれている訳ではなく、各座席の上にカード入れがあって、予約がある場合はそこに予約区間が書かれたカードが入っている。予約区間以外は座っても良いが、予約区間では当然のことながら立たねばならない。オフシーズンだし1等車はがらがらだったから、今度の旅行で席の確保で苦労したことは一度もなかった。いずれにせよ"Cook"の時刻表はヨーロッパの鉄道で旅行する者にとっては欠かせない。

d)個人スキー旅行の持ち物

 広範囲の移動を伴う個人旅行に於いて荷物の量は旅の快適さに反比例する。スキーは借りるというのも一つの解決法であるが、慣れた道具は望ましいし、特に今回のように4カ所でスキーを計画するとなると借りるのも大変である。一度経験してみると分かるが、大きな重いトランクを引きずるのは意外に大変、むしろ背負ってしまった方が楽なのだ。かなりの試行錯誤の結果この数年、このスタイルに落ち着ている。1)スキー、2)ブーツ+スキー関係衣類の入ったリュックサック、3)機内持ち込み可能で最大の(縦+横+高さ=115cm)手回り品(キャスター付き)小型トランクの3点セットである。このリュックの中味は全てスキー関係のもので、万一預けた荷物が一時行方不明になってもしばらくの間手荷物のトランクだけで生活出来るように考えている。いずれにせよ絶対量を減らすことが肝心だ。下着の替えは2組まで、そのかわり洗濯の用意をする。スキーの時の、普段のなどと分けない。持ち物は厳選し使用頻度の少ない物を極力排除する。

 今年から重量制限が厳しくなったそうだが、個人旅行の場合に欠かせない旅行案内書、地図、辞書などの資料を入れても、スキー込みで20Kgの制限を越えたことはない。まだ減らせる余地はあると思っている。従って総合するとリックを背負い、肩にスキーを掛け、反対の手でトランクを引きずるというスタイルが出現する。自分で見てもおかしな姿だろうと思う。そう云えばこの出で立ちの写真は残っていない。誰かに撮ってもらわない限り一寸難しいからだ。最近スキーが短くなって肩に掛けても引きずらなくなり、大変助かっている。

e)普段のトレーニングのこと

 7年前一身上の転機があって多少時間的余裕ができ、近くの市営スポーツセンターに通い始めた。そこに"健康体操"と云うグループがあって半分は60歳以上である。準備運動の後30分のウォーキングあるいはジョギング、1時間のストレッチを組み合わせたプログラムで週3回ある。何かない限りその内2回は参加し、30分で5Kmを走っている。これが年間を通じての基礎的なトレーニングで現在も続いている。その後ジョギングは徐々に距離を伸ばし市民マラソンにも参加するようになり、始めて4年後、59歳の時に初めてホノルルでフルマラソンを経験した。記録は大したことはないが、歩かなければ達成できると云われる5時間を切り、完走することができた。

 4年前から自転車を始めた。私の住まいは東京の西部奥多摩の入口、羽村市にあり、トレーニングの場には恵まれている。秋川、多摩川、名栗川沿い、秩父と豊富である。このところスキーに重点を移しているため、シーズンが同じマラソンの方は回数は減っているが、自転車の方は年4,5回、市民レースに参加している。自転車は細かくクラスが分かれていて60歳以上のマスター・クラスがある。人数は少ないので何処へ行っても似た顔ぶれであるが、上位は若い人と対等に戦える歴戦の強者もいて、2周目には千切られトップグループにはどうしても残れないが、スキーのトレーニングだと割り切って自分を慰めている。自転車はシーズンが丁度反対で使う筋肉、感覚が似ているのと、筋力と呼吸器系トレーニング両方の要素があり、スキーのためには最適だと思っている。

f)スキーのこと、ドイツ語のこと

 再開して7年、スキーは私の中ではまだ新鮮である。若い時かなり熱中していたのだが、時間と共に遠ざかり長い間中断していたのだ。その間にスキー技術もだいぶ変化しほとんどゼロからのスタートだった。再開のすぐあと初めてヨーロッパへ海外旅行に行ったとき現地の言葉の必要性を感じ会話教室に通い始めた。大昔第二外国語としてかじったことが、それまで何の役にも立たなかったが、多少垣根を低く感じさせる位の効用はあったかもしれない。それから6年、右から左に抜けることが多いが今も何とか続いている。ヨーロッパのスキー場はフランス、イタリア北部を除いてほとんどドイツ語圏で、ドイツ語は私にとってスキーのための言葉、"スキー語"なのである。

 一人の旅では喋らないことには何もできないが、絶好の場はリフトの上で、積極的に話しかけるように努めた。相手もひまだし注目して聞いてくれるので結構会話のやり取りが上手く成立するのである。数十人とは話していたかと思う。始めのフランスではまずドイツ語を話す人を見つけることから始めなければならなかったのだがこれが結構難しい。仲間内で喋っているのでスピードは早いし、ドイツ語だと判るのにも結構時間が掛かる。シュトゥットガルトから来ているおばさんと話したことを記憶している。話す内容はたいしたことはなく時間も直ぐ経ってしまう。スイス以後はそんなこともなかったが、反対にオーストラリア人と分かり途中で英語に切り換えたこともある。恰幅の良い人はロシヤ人だったが、連邦内の何とか共和国?の標高5,000mのスキー場の話をしていた。確かに帰って調べてみるとヨーロッパの最高峰はモンブラン(4,807m)ではなくてカフカス山脈のエルブルース山(5,642m)でグルジア共和国との国境に?にあった。ドイツ語の実力は私と同程度?格好はスキー連盟の役員風のワンピースを着ていたのだがスキーの腕前はたいしたことはなかった。ツークシュピッツェで地元の若い女の子と話したり、結構楽しかった。別れ際に「良い一日を」とか「よい週末を」をはじめとして何種類もの挨拶を早口でするのだがとてもついて行けるスピードではないのでただ「Auf Wiedersehen!(さようなら)」としか言いようがなかった。来年までに受け答えを勉強して置かねば・・・。

 ついでにドイツだけではないが、建物の階数の数え方が日本と異なる。日本の1階は "Erdgeschoss"(地階)と云う。日本の2階が1階(1Stock)になる。 エレベータなどの表示は頭文字を取って、E、1,2,3,・・・となる。ホテルの場合、E階はフロント、食堂、厨房などで占められているので、11号室は心配しなくとも1階(日本で云う2階)にあるのが普通である。
 日本人が外国人を見ると英語を話すものだと決めてかかる傾向があるのと同様に東洋人を見ると英語で話しかけてくる。こちらがドイツ語で答えると「おや」という顔をする。ちょっと得意な瞬間である。更にこちらがドイツ語で答えているのに母国語である彼らには心許ないのか英語で確認する人もいる。「その程度ならこっちもドイツ語で判る。」 と言いたいのに・・・。また「英語か、ドイツ語か。」とよく聞かれることがあるが、私の場合確かに英語のほうが語彙は多いし、特に読む時は好都合なのだが、しゃべる訓練をしていないので会話が成立しない。だからドイツ語と答えるのだがそうすると単語で苦労するのだ。
 前に書いたがドイツ語で初めて電話を掛けたこと。銀行振込をしたこと。・・・は振り返ってみると大したことではないが、出来て嬉しかったし、永く記憶に残るだろうと思う。今年もトラブルは幾つかあったが終わって12日。すでに良い思い出になってしまっている。来シーズンも健康で、再度挑戦したいとひそかに思っている。

2001年4月3日  田 中 あきひろ