1)2002年、旅行経路と日程

成田空港−チューリッヒ−(バス)−サン・モリッツ:7泊(内1日ダボス日帰り)
【以降単独行】−ツェルネッツ−ミュスタイア往復(バス)−スクオル・ブルペラ:5泊(内1日グアルダ小旅行)−(バス)−ザンクト・クリストフ:2泊(内1日チュルス、レッヒ)−ツェル・アム・ゼー、カプルン:4泊ザルツブルク:1泊−同空港−成田 計19泊+機中1泊、2月9日出発、3月1日帰国/全21日間。
(交通機関の表示ない所は航空機又は鉄道) 


2)サン・モリッツ、ダボス

今年の「ヨーロッパ スキー紀行」はサン・モリッツ(St.Moritz)から始まった。
始めの一週間はいつものようにツアーに加わってスキーに専念できるように計画した。ここを選んだ理由は2年前のツアーで一緒になったM氏夫妻が以前ここに行きたいと漏らしていたのを思い出して、連絡をとったのがきっかけで同行することになったのだ。

サン・モリッツ駅 中心街にある市庁舎
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サン・モリッツはスイス南東部、イタリア、オーストリアに接するグラウビュンデン州にあり、夏冬通じて観光客の絶えない高級リゾートとして有名で、昔から王侯、貴族の保養地として発展してきた。そのせいか町の中心部は高級ブランドショップが建ち並び、スキー場の町としては格が高い。しかしさすがにスキーに来る日本人は少なく、ツェルマット、ユングフラウ方面などと比べ一桁少ないそうである。もちろんアルプスに囲まれた豊かな自然を有する州で、最高峰はピッツ・ベルニナ(Piz Bernina)4049mである。サン・モリッツは日本でも観光ルートとして人気のある「ベルニナ特急」の起点でもある。ちなみにこの辺の地名、エンガディン(Engadin)はロマンス語で「イン川の谷」と云う意味で、チロルの州都インスブルックを流れるイン川の上流になる。サン・モリッツはオーバー・エンガディン。少し下流、次に訪れたスクオルはウンター・エンガディンである。

この州はスイスの中でも特に使用言語が複雑な地域で、イタリア語圏もあり、人口の1%に満たないロマンス語が話される地域でもある。(第4の公用語として認められ、国からも保護されている。古代ローマ語の方言?)。ただドイツ語は大抵通じるようである。テレビを見ていても確かにドイツ語が多いが、英語、フランス語、イタリア語が入り乱れている。たまたまロープウェイで話しかけた、地元スキー学校のインストラクターのユニホームを着た女の子は18歳の高校生だった。ドイツ語、フランス語、英語、ロマンス語の4カ国語を話すが、混乱することがあると云っていた。「日本に行ったことはある?」と聞いたら「クッチャン」の地名が出てきたので何故「倶知安」なのかと思ったが、後でサン・モリッツと倶知安(北海道)は姉妹都市の提携関係があることを知った。おそらく交換交流のため招かれたことがあるのだろう。この地区は地理的関係かイタリア語を話す人も多く、特にサービス業には多いようだ。

ピッツ・ナイア山頂の野生ヤギの像 コルバッチ山頂駅
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山頂からの眺望 箱根登山鉄道寄贈の額
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サン・モリッツでは周辺のコルビグリア(Corviglia)、コルバッチ(Corvatsch)、ディアボレッツァ(Diavolezza)の三カ所のスキー場の大半を5日にわたって滑った。今年はヨーロッパ全体に雪が少なく、後のスキー場でもそうであったが滑れないコースも幾つかあった。コルビグリアは南斜面のせいか特に西側の部分に閉鎖が多かった。しかし2500mを越える上の方はいずれも雪質は良く、天気さえ良ければ快適な滑りが楽しめた。頂上のピッツ・ナイア(Piz Nair)3057mにはシュタイン・ボック(野生ヤギ)の大きな像がある。山頂からのコースは早朝で、雪の状態も良く快適だった。コルバッチはサン・モリッツ駅前よりバスで30分ほどのスーレイ(Surlej)から2本のケーブルを乗り継いで行ける。コルバッチ山頂駅3303mからは主峰ピッツ・ベルニナを始めとし、ピッツ・ロゼック(Piz Roseg)3937mなど4000m近い山々が開け、すばらしい展望だった。特に朝方下界は雪だったのが、急速に回復し日が差してきたので、特に印象に残ったのかもしれない。山頂から麓まで降りられるコースがあるのだが前述の理由で?閉鎖。滑れなかったのは残念。ディアボレッツァはサン・モリッツ駅からベルニナ線を小一時間南下した駅。この線は箱根登山鉄道と姉妹鉄道の関係がありホームには箱根登山鉄道が贈った木彫りの額が飾ってあった。山頂2978mへは駅前からケーブルで一気に登れる。山頂からの景色はまたすばらしかった。ピッツ・パリュ(Piz Palu)3905m、ベッラビスタ(Bellavista)3922m、ピッツ・ベルニナも更に近くになり、4000m近い岩山が眼前にせまる迫力はコルバッチ以上に素晴らしいものであった。その後一旦駅まで滑り降り、隣のピッツ・ラガルプ(Piz Lagalb)3959mからも滑った。

ディアボレッツァ山頂より ダボススキー場と町 セガンティーニ美術館
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滞在4日目は列車で一時間半余り離れたダボス(Davos)に遠征した。谷の両側に三つずつのスキー場が連なる一大スキー場で、滑りごろの斜面が麓の標高1500mから2600mまでのびている。その日はアイスバーン気味であったが、新雪でも降れば練習バーンとして絶好な斜面と思われた。一回のツアーとして来る程ではないが「数日の滞在としては最高だ。」と云うのが同行者の評価だった。

最後の日スキーは午前中で切り上げて、旅行案内書にあったセガンティーニ美術館とエンガディン博物館を訪れた。前者はアルプスの画家として有名なジョバンニ・セガンティーニの作品を展示している。素朴な印象は認めるものの、それほどの美術的価値は感じなかった。上の階に飾られた「生成」、「存在」、「消滅」の3枚の大作がメインである。後者はエンガディン地方の日常生活用具、農具、民芸品、武具などが展示されていた。建物はビスコンティー家のもので柱、天井、梁などに彫刻がびっしり彫られていた。展示品に少々興味があったので「写真を撮って良いか?」と尋ねたら「だめだ。」と云われたが、それほど貴重なものとも思えず人もまばらで、陰でこっそり撮ってしまった。「管理人のおばさんごめんなさい。」でも結果はうまく撮れてなくて"ボツ"。

泊まったホテルはサン・モリッツ駅のすぐそばにある「ラ・マーニャ」、ホームからも見える。町の中心は歩いて更に15分程登った"ドルフ"と呼ばれる地区にあり、先に話したように高級リゾートらしく、有名なブランドショップが軒を並べている。駅の反対側はサン・モリッツ湖が大きく広がっている。どこでもそうであるが、冬の湖は一面雪に覆われていて周りとの区別がなく存在感が誠に希薄である。湖は夏のものである。ちなみにサン・モリッツの標高は1800mと高く、夏の避暑地として有名なのもうなずける。


3)スクオル、ミュスタイア、グアルダ

出発後第8日目、2月16日早朝、ツアーの仲間はバスでチューリッヒに向け旅立って行った。いよいよ一人旅の出発だ。次の宿泊地スクオル−タラスプ(Scuol-Tarasp)へは列車で直行すれば2時間弱。あまりに早く着きすぎるのでツェルネッツ(Zernetz)で降り、案内書にあったミュスタイア(Muestair)へ行くことにした。

サン・イァン修道院 修道院礼拝堂
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ミュスタイヤはツェルネッツからポストバス(後述)で、スイスで唯一の国立公園を通り、峠を越え片道一時間強かかるイタリア国境の町である。ガイドブックには「スイスでも一番の秘境と云っても良い所」と書いてあった。町はずれにあるベネディクト派修道院、サン・イァン(San Johann)が1983年世界遺産に登録され有名になった。この建物はスイスで一番古い建物の一つと云われている。この修道院を有名にしたのは内部に描かれたフレスコ画で、1100年前からのものが、その後描かれた新しいフレスコ画に覆われていたのを、1950年代に入り、ようやく元々の存在が確認され、復元されたためである。時期はずれからか観光客はもとより誰もいなかったが、内部にも入り写真を撮らせてもらった。博物館も付属している。昼食後同じくバスでツェルネッツに戻り、終点スクオルへ向かった。駅のインフォメーションで予約していたホテル「ヴィラ・ポストVilla Post」の場所を尋ねたらホテルへ連絡してくれ、ホテルの支配人が駅まで迎えに来てくれた。対岸のヴルペラ(Vulpera)のホテルまでは車で10分程だった。

スクオルのスキー場 ブラスバンド生演奏
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スクオルのスキー場は確かにそれ程大きくなく知名度も低い。今回ここを選んだのはサン・モリッツから例年通りのチロル(オーストリア)への旅の中継地として調べた結果浮かんだのである。ヴルペラ−スクオル間はスキーバスが朝夕頻繁に通っている。スキーの格好をしていれば無料で乗れる。スクオル駅のすぐそばからモッタ(Motta)2146mへのロープウェイがある。確かに駅から見るとどこにスキー場があるのかと思ったくらい雪は付いていなかった。この部分には麓まで滑るコースはあるのだが、南斜面である上、今年のように雪が少いと閉鎖もやむを得ない。モッタから上がスキー場である。もう一本長い、日本で云うTバーリフト(和製英語?)を経て、何本かのリフトがあるスキー場の中心に達する。一番奥には2783mまで登るTバーリフトがあり、ここは雪の状態がいつも良かった。ロープウェイで話しかけた地元のスキー学校のインストラクターが私のスキーに目を付け「どこのスキーか?」と云うので「OGASAKAと云う日本のメーカ製だ。」と答えたら、私の知らないどこか無名のメーカのものに良く似ていると云っていた。「今HEADとSALOMONを併用しているがそれらに較べても遜色ない。」と弁護して置いたが、確かに云われてみると小賀坂スキー(KS-TWINKEEL)はデザインが平凡で主張がなく、設計コンセプトが表に出ていないこと、表面の層が薄く少し削れるとすぐ模様が消え、地肌が露出し安物に見える(2シーズン目)など不満もあり、性能的には滑りやすく評価しているだけに残念だ。

スキー場は結構にぎわっており、私が話した人々は、スイスはもとより、ドイツ、オーストリアなど結構遠くからも来ているようであった。これまで交通が不便で辺鄙な所であったウンター・エンガディンのエリアは1999年秋に開通したフェライナトンネル(Vereina-tunnel)のお陰でアクセスが大幅に短縮されたのと関係があると思われる。そう云えばここへ来る途中トンネルの入口の駅スーシュ(Susch)付近で専用貨車に乗るために順番を待つ自動車の長い列を見た。自動車を貨車に乗せて運ぶと云うサービスはヨーロッパでは珍しくなく、乗用車のみならず大きなトラックも乗せているのを結構見かけた。

グアルダの部落
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スクオル滞在3日目は休養日と決め、グアルダ(Guarda)を訪問した。村は駅から歩くと40分程かかる山の上にあり、ポストバスの便もあるが本数は少ない。この村は「スイスの美しい村」に指定されており、家々はスグラフィート(Sgraffito)で装飾されている。(壁の表面を金属で引っ掻くようにして塗り込めた下地を見せて模様を描く、この地方の伝統技法。)端から端まで歩いても10分位で終わってしまうような小さな村であるが、周りの美しい山々に溶け込んで、俗世間を離れたすがすがしさを感じた。今自分が何でこんな所に居るのだろうとふと考えた。シーズンオフなので観光客は少なかったが、ニューヨーク在住のアメリカ人の老夫婦と出会った。つたない英語で無理したら「ドイツ語と英語とどちらが得意なの?」と云われてしまった。ドイツ系らしくドイツ語も堪能のようであった。他の季節にもう一度来たいと思った。

家畜の水飲み場? スクオル温泉センター
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午後はスクオルに戻った。ここは有名な温泉保養地で、駅から15分程下った所に温泉センターがある。色々な泉質、温度の風呂に決められたプログラムに従って入浴する色々なコースが準備されている。私も滞在中に一度経験してみたいと思ったが、少々風邪気味でパスした。

泊まったホテルは三つ星とは云うものの設備、食事、サービスなどかなりグレードが高かった。「ヴィラ・ポスト」の名の通り旧家なのか、ちょっとした博物館のように古くからの民具、武具、装飾品を集めた展示室があり特別に見せてくれた。


4)ザンクト・クリストフ、チュルス、レッヒ

次の宿泊地はザンクト・クリストフ(St.Christoph)。イン川沿いに下るとランデック(Landeck,チロル/オーストリア)に出るのだが、鉄道はスクオルまで。鉄道王国スイスが何故ここで止めたのか分からないがこの先はポストバスしかない。冬真っ只中、しかも辺境の地で観光客は皆無。ランデックまで通して乗ったのは確か私だけだった。途中オーストリアとの国境に税関があったが、係官は別にパスポートを調べる訳でもなく、バスの運転手と雑談しただけだった。運転手はここで時間調整か「写真を撮っては?」と3分ばかり待っていてくれた。スクオル−ランデックは2時間弱。ランデックからは再び鉄道でザンクト・アントン(St.Anton)まであっと云う間だった。ザンクト・アントンでは3シーズン前にブーツを買ったスポーツ店に立ち寄り、不具合箇所を話し調整してもらった(無料)。いよいよバスで10分ザンクト・クリストフに着き、昨年版でも紹介したエディ(Edi)さんをはじめとするハウワイス ファミリー(Familie Haueis)と一年ぶりの再会を果たした。ここは4回目で、今ではすっかり親しくなりクリスマスカードなどメールをやりとりしている。

国境の税関 レッヒのスキー場 レッヒの街
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久しぶりに夜降り続けた雪も翌朝には小降りになり日も差し始めた。この辺は昨年も紹介しているので、バスで30分程、隣のチュルス(Zuers)、レッヒ(Lech)に出掛けた。二つはリフトでつながり一つの大スキー場と云っても良く、1日ではごく一部になるが、リュフィコップフ(Ruefikopf)2362m、ムッゲングラート(Muggengrat)2450m、オーバーレッヒ(Ober Lech)周辺など滑った。レッヒはまたサン・モリッツと同様高級リゾートとして知られ、高級品を扱う店が並び、町を歩く人々もどこか違って見えた。チュルス・ゼー(湖)からモッゲングラートに登るリフトで会ったドイツ人は確かミュンヘン住まいであったが、これまでの旅行の様子、昨年訪れたミュンヘンの事などかなり長い間しゃべった。「どこでドイツ語を勉強したのか?」と云うので「日本で。」と答えたら、「ゲーテインスティテュートでか?」と聞かれた。その名はもちろん前から知っていたが、本国でも良く知られたドイツ語教育機関であることを知った。ドイツ語を話す日本人が珍しいのか褒めてくれたので、今回仕込んで行ったセリフ「お褒めいただいてありがとう。−Danke fuer das Kompliment. 」がやっと使えた。


5)カプルン、ツェル・アム・ゼー −ケーブルカー火災事故その後

今年の「ヨーロッパ スキー紀行」最後の舞台はキッツシュタインホルン(Kitzsteinhorn)である。覚えている方も多いと思うが、一昨年2000年11月11日起こったケーブルカーのトンネル内火災事故で10人の日本人が亡くなり、関心を集めたスキー場である。一年経ってその後どんな様子か興味もあって計画に加えたのだ。チロルからザルツブルク(Salzburg)、ウィーン(Wien)方面へ行く場合、ドイツ領内を通って行くのが時間も短く一般的であるが、オーストリア領内を通る場合は2000年版で紹介したキッツビューエル(Kitzbuehel)経由で行く。その少し先にあるツェル・アム・ゼー(Zell am See)が最寄り駅で、宿泊したカプルン(Kaprun)はその隣町、キッツシュタインホルンの麓にある。

キッツシュタインホルンとスキー場 山頂への変わったケーブル
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この地区は三つのスキー場からなる。 キッツシュタインホルン3203m、マイスコーゲル(Maiskohgel)1675m、シュミッテンホェーヘ(Schmittenhoehe)1965mはそれぞれ独立しているが、無料のスキーバスでつながっている(リフトパスも共通)。キッツシュタインホルンは山頂部の氷河で削られたカール部分にあるスキー場で、麓のケーブルで1000m程登った2000mから、山頂のケーブルの頂上駅約3000mまでの間、標高差1000mがスキー場の領域である。麓のケーブルの部分は傾斜が急過ぎて滑り降りるコースはない。昨年行ったドイツ、オーストリア国境のツークシュピッツェ(Zugspitze)と良く似ているが、規模はこちらの方が断然大きく、下界とは気候、雪質共隔絶された感がある。傾斜も練習に適当で、広々としたバーンは快適であった。この辺からはオーストリアの最高峰グロースグロックナー(Grossglockner)3797mが見えるはずだが、スキー場は反対向きでキッツシュタインホルンが邪魔して見えない。ケーブルで行ける最高点「Gipfelbahn」の頂上駅に反対側の展望台に抜けるトンネルがあったが、戸が閉まっていた。ここへ来るケーブルの中でちらっとその姿を見ただけで紹介できないのは残念だ。マイスコーゲルは他の二つに較べると小規模。シュミッテンホーヘはツェル・アム・ ゼーのすぐ上にあるスキー場で山頂から三つのコースに別れ、こちらは結構規模が大きい。

新ロープウェイ駅 24人乗り循環式ロープウェイ
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火災事故を起こしたケーブルはこの麓からのケーブルの一つであり、元々平行してロープウェイが架かっていたので事故後しばらくしてスキー場は再開されたが、2001年(昨年)10月新しいロープウェイ「Gletscherjet 1」が開通した。1両24人乗りの最新式ケーブルで、(Siemens製)、私の知っている限り循環式では最大のものである。写真のように幅の広い2本のロープの間にぶら下がったカタツムリのような格好で安定感がある。事故を起こしたケーブルが180人乗り。2両が交互に上下するつるべ式であったのと較べると輸送力は飛躍的に増えたと考えられる。更に「jet 2」の建設の計画もあり、2002年10月には完成の予定と、町のショーウィンドウで公表されていた。

事故は鉄橋を過ぎトンネルを600m程入った所で起こった。全体で155名の犠牲者を出した大事故で、内10人の邦人が含まれていた。生還者は窓を破って下方に逃れたわずか8人のみであった。邦人犠牲者の中に直接の関係者は居ないが、出口沖彦氏はSAJのデモンストレーター、指導者としてスキー界に知られた人物で、身近にも彼を知っている人が複数存在する。将来を嘱望されていた猪苗代中スキー部5人、慶大生2名、他2名の計10名である。現在あの事故ケーブルはトンネルに入るまでの橋は残されているものの、トンネル入口は閉じられていた。今でも目に焼き付いているが、あのもうもうと黒煙をあげていた上の駅は取り壊されたのか聞いていた場所には見付からなかった。営業政策上やむを得ないことではあるが、すでにリフト地図にも載っていないし、その他事故の痕跡も薄れすっかり過去のものとなってしまっていることを感じた。

クリック拡大 一周忌にあたる昨年11月11日の翌日、何か関連記事が出ていないかと注目していたが、たまたま新聞休刊日であった。ただテレビで「昨11日カプルンで約1000人が集まって追悼ミサが行われ、155人の犠牲者を弔い155個の白い風船が放たれた。」とのナレーションと共に、そのシーンが放映されていた。もう一つはっきりしないのが事故原因である。結論は「設計にない運転席の電気ヒーターが漏れた緊急ブレーキ用オイルに燃え移り・・・。」となっているが、このようなつるべ式ケーブルの車両には動力はなく、電気はせいぜい照明、緊急ブレーキ制御系統などごく少容量で出火の原因となる確率は元々高くない。いくら煙突効果といっても骨組みだけになるほど高温にするブレーキオイル量は考え難く、軽量化を重視するあまり車体に燃えやすいプラスチックを多用したことは確かだと思うが、車体全体に燃え移るまでのプロセスに疑問が残る。


6)ザルツブルク、帰国

ザルツブルク(Salzburg)には帰国時の空港利用のために一泊した。以前に観光ツアーで来たことがあり今回2回目である。オフシーズンでホテルには不自由しないだろうと思い、東京からはただ一つ予約を取らなかった場所である。ザルツブルクに着くとすぐ、駅構内の「インフォメーション」に寄って、近くの三つ星ホテルを紹介してもらい。ついでに観光施設入場券、市内交通料金がセットされたインスブルックカードを購入した。昼前であったが荷物だけでも預けようとホテルに行くと確かに空いているらしく、すぐにチェックインさせてもらえた。ザルツブルクは観光地として有名で改めて紹介する必要もないが、モーツァルト広場−大聖堂−レジデンツ−ホーエンザルツブルク城−聖ペーター寺院墓地−祝祭劇場−モーツァルト生家−ゲトライドガッセなど一通り市内観光を済ませた。

ホーエンザルツブルク城 旧市街
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ホーエンザルツブルク城のケーブルカーおよび城自体盛んに補修工事がされていた。小さい町なので市内観光は半日でも可能だ。オフシーズンとは云えさすがに観光地、2週間ぶりに日本人に出会った。ザルツブルク空港からは小型ターボプロップ機。チューリッヒ経由で帰国した。今回飛行機に関しては昨年のようなトラブルは一切なく、ほぼ定刻に成田に着いた。来年も体力を維持して「ヨーロッパ スキー旅行」は続けたいものだ。


7)その他諸々


a)通貨(ユーロ)のこと

ユーロ紙幣
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ユーロ硬貨
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2002年の1月1日から欧州12カ国で統一通貨、ユーロ(Euro)がいよいよ流通することになったのはご存じのことと思う。なにしろ同じ商品が国境を隔てて、同じ通貨で売られるのだから比較は一目瞭然、国によって異なる経済条件(福祉、税金など)を引き継いだままでのスタートで問題は色々あるが、切換作業そのものは案ずることもなく順調に進んだようである。ほとんどの国で2月末に旧通貨の使用は終わっているが、私の出掛けた2月半ばのオーストリアでも既に旧通貨(シリング)の姿は全く見なかった。持っていたシリングをあわてて買い物で使い切った。突然日本の約2倍(人口、GDP、貿易高など)の経済圏が出現したわけであるから、全世界に与える影響は大きく、今後この通貨統合がどの様な効果を生むのか興味がある。(スイスは現在未加盟だが、東欧、北欧諸国を含め、近い将来加盟国が増えるのは間違いない。)

我々旅行者にとって不利益はなく、利点だけが目立つ。今まで国境を越えれば必ず必要だった通貨の交換が不要になった。国が小さいだけにその頻度も高く手間を要し、しかもその度にコインなどが必ず残ったものである。ユーロは7種の紙幣 (5,10,20,50,100,200 ,500ユーロ)と8種の硬貨(1,2,5,10,20,50セントと1,2ユーロ)から成る。(1セント=1/100ユーロ)新しくまとめて企画されたので、特に硬貨の場合は厚み、重さ、色、ギザ、などに統一感があり、価格と対応していて、慣れない我々でも識別し易い。

b)リフトとリフトパス

既にキッツシュタインホルンの新しいロープウェイを紹介したが、2本のロープは比較的細く、支柱の強度も小さくて済むこの循環式は建設費が少ない割に輸送力のあるコストパフォーマンスの高い方式だと思った。最近日本のスキー場でも外国製ロープウェイが増えているが、この方式も検討の価値があるのではないかと思う。

海外のスキー場では今でも日本で云うTバーリフトがかなり多い、別に設備的に遅れている訳ではなく、スキー場が氷河地帯にあり地盤が悪く、重い支柱を建てることができないためである。こうしたリフトを使わざるを得ない場合もあるので、慣れて置くと良い。 コツをつかめばそれ程疲れるものではない。日本でも皆無ではないので見付けたら経験しておくべきだ。 

リフトパスのことは昨年も触れたが、ほぼ2方式に集約されつつあるようである。いずれも名刺サイズのカードであるが一つは非接触ICカード、他方はバーコードである。前者は昨年も紹介したが、使い捨てが多く、返却しても5スイス・フラン(約400円)で日本のICカードデポジット料1000円の半分以下である。カードの製作コストはずっと安いのではないかと思う。しかも日本のICカードより感度が高く、センサーから30cmまでは反応する。厚みは0.5mm位。後者はセンサーに差し込んでバーコードを読み取らせる必要があるが、いずれにしてもそのようなゲートは一番下のリフトだけで、上はほとんどフリーなので不便は感じない。規模の大きいスキー場では前者の採用が進んでいるように見えた。

c)ポストバス

ポストバス
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ポストバスはその言葉の通り郵便馬車を起源としている。どちらかと云うと幹線ではなく地方の交通を担っている。今回の旅ではミュスタイヤ往復、グアルダ駅−村、スクオル−ランデックとスキーバスなど大分お世話になった。路線によって車体の大きさはまちまちだが、塗装は少し赤みがかった黄色に窓枠付近は赤と黒の縁どりで、ラッパをあしらったマークを付けている。バスは村に近づくと本道をはずれ狭い村道に入って行く、大抵村の中心部にある郵便局前には必ず停留所があって止まる。客を待たせて郵便物の積み卸しをし、終えると出発する。組織が民間か、公共団体かは知らないが郵便物の輸送業務をしていることは確かである。この様子を見ていて今、日本で問題になっている郵政事業の民営化のことに思い当たった。過疎化によって益々経営が難しくなりつつある地方バスと郵便局と合併してコンビニをも経営してはどうかとひらめいた。村の中心にある郵便局が村の交通、経済、商業の中心になるのである。それぞれの旧態然たる組織はすべて解体することが前提であるが・・・。これぞ郵政民営化の一つのモデルではないかと思い至った。統合により効率をあげた上で、更に補助せねばならないのならそれは仕方がないと思う。

d)再びドイツ語のこと

ドイツ語圏での一人旅を始めて今回で4回目になる。相変わらずヒアリングは全く不十分と感じるものの、旅慣れたとでも云うのか回を重ねるにつれて食べる、泊まる、交通機関を利用するなど、自分でも肩肘張らずに楽に旅が出来るようになったと思う。ドイツ語といっても地域で差もあり、「ネイティブ」が普通の早さで喋るのを完全に理解するなんて所詮は無理な話だと考えると、気も楽になろうというものである。こちらから話し掛ければ外国人ということは判るのだし、少々間違っていたって理解しようと努め、スピードを落とし、標準語で合わせてくれる。相手は話し掛けたいと思っても、何語でどんな話をすれば良いか判らないだけで、タイミングを外さず一言でも声を掛ければ、喜んで応じてくれるのは間違いない。相手の知りたいのは日本のことだから、話を長引かせるにはドイツ語もさることながら、まず日本のことを知っておくことが必要である。「ネタ」選びは難しいが普段からドイツ語でできる日本の話をなるべく多く仕込んでおくと良い。

今回初めてスクオルで経験した話であるが、2日目だったか部屋に帰るとホテル支配人からのパーティーの招待状が机に乗っていた。パーティーに出ても私のドイツ語では大した会話もできないと思い、どうしようか迷ったが、駄目で元々と出席してみた。招かれたのは2組の夫婦と私、支配人がこの地方の自然と風俗について講演をしてくれたらしいのだ。・・・と云う位内容は殆ど分からなかったが、"国立公園"と云う単語を耳にしたので、「国立公園はスイスに幾つある?」と質問したのをきっかけにドイツ人?からも「日本には国立公園は幾つある?」「どんな所?」などしばらく会話が続いた。我ながら僅かしか聞き取れなかった割にはうまく会話に加われたなと思った。当たり前のことではあるが、このような席ではドイツ語も大切だが日本のことも知らないとうまく話に加われないことに気付いた。 

私にとってドイツ語はスキーのための言葉、「スキー語」だと前に書いた通り、他に役立ったことはほとんど記憶にないが、スキー旅行には大いに役立っている。ヨーロッパの主だったスキー場はフランスを除くと、ツェルマット、グリンデルワルト以東のスイスのほとんど、オーストリア、ドイツ南部と大部分がドイツ語圏である。確かに英語で旅行が出来ない訳ではないが、スキー場は所詮、辺鄙な所にあるのが普通だから、一歩ホテルを出ると英語では心許ないことも間々ある。やはり東洋人と見ると英語を話すと思う傾向はあるようで、ドイツ語で話し掛けると「おや」と思うのか、反応が違うような気がする。先方だって外国語を介して話すよりは親しみを感ずるのだろうと思う。昨年オーバーアマガウから汽車に乗り込んできたあの87歳のお婆さんとだって、例え彼女が英語を話せたとしても、英語で同じように親しく話し合うことが出来たかどうか疑問である。やはり現地の言葉の効用は大きいと思う。ドイツ語は幾つかの特殊な文字と組み合わせ固有の発音があるが、例外は少なく、発音に関してはイタリア語と同様に日本人にとってはとりつきやすい言語だと思う。最近日本では実用性が少ないためか、ドイツ語の人気がないのは残念である。

e)ケーブルカー火災事故の報道

邦人スキーツアー客10人の安否不明 −2000年11月12日 読売新聞記事
オーストリアのスキーリゾート、カプルン近郊で、十一日午前九時半(日本時間同日午後五時半)ごろ発生した登山鉄道トンネル火災事故に日本人スキーツアー客が巻き込まれた可能性が出てきた。
外務省邦人保護課によると、カプルン市内のホテルに宿泊していた、全部で十人からなるこのスキーツアー団体客が、同日深夜(同十二日朝)になってもこのホテルに戻っていないことが分かった。日本人団体客が、事故を起こした登山鉄道に乗ったことは確認されていないが、この事故では、自力脱出した八人のほか約百七十人の生存が絶望視されている。

オーストリアのスキーリゾート、カプルン近郊のキッツシュタインホルン山で発生した登山鉄道のトンネル内火災で、連絡が取れていない日本人十人は、長野県のスキーメーカー「小賀坂製作所」が主催したツアーの参加者であることが分かった。このツアーを手配した「ユニティ・スポーツワールド」(東京都港区)によると、キッツシュタインホルンスキー場は、オールシーズンの氷河スキー場で、このツアーの参加者は六日から十四日までの九日間と、十七日までの十二日間の日程でスキーキャンプに参加していた。同社の現地スタッフが現地の対策本部などで情報収集に当たっているが、現地時間の午前一時(日本時間の午前九時)までに頂上から下山してきた約二千百人の名簿の中には日本人の名前は見当たらないという。 同社では、参加者の家族と連絡を取っており、準備が整い次第、希望者を連れて現地に向かう。

同製作所によると、ツアーに参加した日本人十人は以下の通り。(敬称略) 
▽ペンション経営・出口沖彦(42)(福島県猪苗代町)▽猪苗代中二年・出口奈央(13)(同)▽同中二年・小野寺雅信(14)(同)▽同中三年・佐瀬智寿(14)(同)▽同中二年・涌井智子(14)(同)▽同中二年・上遠野紋佳(14)(同)▽会社員・大山博和(24)(群馬県高崎市)▽無職・榊原麻紀(25)(山梨県御坂町)▽慶応大四年・光本沙織(22)(東京都世田谷区)▽同大三年・楢原涼子(22)(神奈川県鎌倉市)

−以上−    

02年3月25日  田 中 あきひろ