まえがき−旅行経路と日程

成田空港−チューリッヒ−(バス)−ツェルマット:7泊(スイス)−(鉄道、バス)−サース・フェー:5泊(スイス)−(バス、鉄道)−セルデン:7泊(チロル/オーストリア)−(バス、鉄道)インスブルック:1泊−同空港−成田

計20泊機中1泊、 2月8日出発、3月1日帰国/全22日間。 

1)ツェルマット

今年の「ヨーロッパスキー紀行」はツェルマットから始まった。ここは8年前、初めての海外スキー旅行として訪れた思い出の地である。従って今回は2度目となる。実は2年前リタイアした学生時代の友人K氏がこの処すっかりスキーに凝って、レッスンに励んでおり、一緒に行きたいというので同行することになったのだが、スキー旅行としては初めてで、いきなりマイナーな所ではと思い、懐かしさも手伝ってヨーロッパのスキーとしては知名度最右翼のここに決めたのである。

ツェルマット、サースフェー付近地図 ツェルマット市街図
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ツェルマットは大気汚染対策として街なかで走れるのは電気自動車、馬車のみで、特別の許可がない限りガソリン車は入れないことは良く知られている。大駐車場のある一つ手前のテッシュから先は、BVZ(ブリーク・フィスプ・ツェルマット鉄道)に乗らねばならない。ツェルマットのメインストリートはBVZ駅から教会のあるドルフ広場までの5〜600mで、ぶらぶら歩いても20分程度の距離である。夏冬を通じて観光客の絶えない人気リゾートらしく、両側にはホテル、商店が並んでいる。中程に郵便局、アルペンセンター(スキースクール、山岳ガイド協会)、右へ少し入った所に山岳博物館がある。

場所によって見え方も異なるマッターホルン
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ゴルナーグラードより ウンターロートホルンより

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スネガ方面より 1 スネガ方面より 2

ツェルマットスキー場の景観といえば何といっても、お馴染みのマッターホルン(4478m)で、街、スキー場の様々な所から見える。急峻な独立峰で見る場所によって見え方も異なり、周囲にはもっと高い山が数々あるにもかかわらずその存在感は強烈である。


【スキー場案内】 ツェルマット

ツェルマットのスキー場は大きく3つに分けられる。氷河など地形の関係で一カ所の例外を除いて相互の連絡はなく、ツェルマットの街(海抜1620m)まで下りないと隣のスキー場には移れない。

ツェルマット リフト地図

a)スネガ、ウンターロートホルン

ツェルマットから山に向かって左、東に延びるコースである。BVZ駅前を真っ直ぐ下り、川を渡ったスネガ行き駅から地下ケーブルカーで上った所がスネガ(2288m)。さらに2本のロープウェイを乗り継いで登った最高点がウンターロートホルン(3103m)。フィンデル氷河が眼下に、氷河を隔てて、ゴルナーグラード、シュトックホルンの稜線が目前に眺められる。人によって見方に差はあると思うが、マッターホルンの眺めは北壁が少し覗けるこの辺が最高と考える。

b)ゴルナーグラード、シュトックホルン

真ん中のコース。BVZ駅のすぐ前の駅から登山電車(アブト式)で登った終点がゴルナーグラード(3089m)。目の前に2つのドームのある建物が見える。天文台として建てられたが、下は現在ホテルとなっているのだそうだ。さらにロープウェイを2本乗り継いでの最高点がシュトックホルン(3405m)である。眼下にはゴルナー氷河、さらに眼前にはスイスの最高峰、モンテローザ(4634m)、リスカム(4527m)、ブライトホルン(4164m)などイタリア国境の高峰が連なる。谷底、ガントの部落(2223m)を経由しスネガ方面と相互に繋がっており、前に述べた街まで下らずに他のスキー場に移れる唯一の例外ルートである。シュトックホルンからガントへの下りはいずれも急斜面、コブ斜面のタフなコース。

ゴルナーグラード駅前ホテル、天文台 モンテローザ、ゴルナー氷河 リスカム、ゴルナー氷河 ブライトホルン、クラインマッターホルン
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c)フーリ、トロッケンシュテーク、クラインマッターホルン

一番右のコース。バスで行く、街から少し離れたクラインマッターホルン行き駅からフーリ(1864m)、トロッケンシュテーク(2939m)、を経てクラインマッターホルン(3820m)まで3本のロープウェイで行ける。シュバルツゼー(2583m)を迂回するロープウェイもある。クラインマッターホルン山頂駅は山腹をくり抜いた中にあり、イタリア方面に抜けるトンネルがある。トンネルの途中にエレベーターがあり、山頂(3883m)に行ける。山頂は十字架のある展望台で、360°の展望が楽しめる。ブライトホルンはすぐ目の前、マッターホルンもすぐそこにある。

クラインマッターホルン山頂より
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ガーベルホルン(北) ブライトホルン(東)

d)チェルビニア、バルトールナンシュ(イタリア)

チェルビニア、バルトールナンシュ リフト地図(イタリア側)

クラインマッターホルンの右側はマッターホルンまで、しばらくなだらかな稜線が続く。この国境、テスタグリージア(3479m)、テオドル峠(3290m)を越えるとイタリアである。ロープウェイ、チェアーリフトと氷河地帯であるがための数多くのJバー、Tバーリフト、総数二十数基を有する設備の完備した一大スキー場で、麓のチェルビニア(ブルイユ)(2050m)の街に達する。南斜面で雰囲気も明るく、いかにも“イタリア”という感じがし、滑りごろの中斜面が続く快適なコースである。今回それ程スピードを出した訳ではないが、麓までノンストップで滑る機会があった。(ベンティーナ、約13km)あいにく時間を計るのを忘れ残念だったが、快適この上ない充実した気分を味わった。ちなみにイタリアではマッターホルンを「モンテチェルビーノ」と呼ぶそうだが、その通りこれが同じ山かと思う程イタリア側からは形が変わって見える。

モンテ・チェルビーノ チェルビニアの街から
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テスタグリージアを越え、初めての分岐を左に折れると、チェルビニアの東隣、トールナンシュの谷に入る。規模は大きくはないが前者と同様中斜面が続く快適なコースで、麓のバルトールナンシュ(1524m)に達する。前者と比べて高度差が大きいので、距離もさらに長く、雪質も良く予想以上に楽しめた。ここは今回初めて滑ったコースである。一番下はかなり長いロープウェイだがその上は氷河地帯のためか、ほとんどTバーリフトを乗り継いで峠に達する(総数8基)。ロープウェイの山麓駅は街とは少し離れているらしく、周辺にレストラン、商店の類はなく、タクシーでチェルビニアに戻ろうかとも思ったがこれも果たせず、“bar”(バール:イタリア語で喫茶店のこと、簡単な食事も可)で食事を済ませ、来たコースを戻った。


2)サース・フェー

シオンの街、教会 サース・フェー市街図
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出国8日目、2月15日パッケージ・ツアーの一行は帰国の途に着いた。我々K氏と2人はあと5泊、サース・フェーに滞在することになっており、早朝一行と別れた。直行するには早すぎるのでヴァリス州の州都シオンを訪れた。シオンはBVZで下ったフィスプから列車で40分程西にある。駅前から正面に延びるだらだら坂を登り10分程の所にある旧市街を中心に2時間程散策した。天気が良かったせいか、落ち着いた中にも開放的な雰囲気が漂う明るい街という印象だった。

ミシャベル連峰 ドルフ広場 メインストリート
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サース・フェー(1800m)はツェルマットの東隣の谷にある。フィスプから、ツェルマットの途中、シュタルデンを経て、昨年版で紹介した“ポストバス”で、左のサース谷に入り1時間弱、谷の奥にある。街なかはツェルマット同様電気自動車のみ走行が許されている。街はバス停(郵便局)から400m程下るとドルフプラッツ(広場)に出る。右角がスキースクール、正面に教会がある。道なりに、さらに倍ほど行けば、フェー・フィスパ川に架かるグレッチャー橋に出る。夏なら目の前に氷河が迫るビュースポットだそうだが、一面銀世界の中ではそれ程のインパクトはない。しかしこの辺は開けていて、多くのロープウェイ、リフトの起点が集中する広場となっている。正面(南)にはアラリンホルン(4027m)、右側にはテッシュホルン(4491m)およびドーム(4545m−スイス国内では最高峰)などミシャベル連峰が並び、谷は大きなフェー氷河に覆われている。


【スキー場案内】 サース・フェー

サース・フェー リフト地図

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a)ミッテルアラリン、レングフルー、プラッティエン

町はずれから2つのロープウェイがほぼ並行して、フェルスキン(3000m)に達している。(アルピン・エックスプレスは2本乗り継ぎ)そこから地下ケーブルで上るとアラリンホルンの中腹ミッテルアラリン(3454m)の台地に達する。その名が示すようにアラリンホルンの中腹で、回転展望レストランがある。山頂(4027m)はさらに数キロ先である。この近辺のリフトはすべて氷河地帯特有のTバーリフトである。

ミッテルアラリン レングフルー レングフルー付近の氷河
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もう一つはシュピールボーデン(2450m)経由、レングフルー(2870m)まで2本のロープウェイで上るルートである。この2つは氷河の間にある小さな 尾根筋にあり、岩盤に添ってロープウェイが掛けられている。さらに上へ、何本かのTバーリフトでミッテルアラリンへも行けるが、むしろ下りのコースとして使いたい。特にシュピールボーデン近辺は斜度もかなりのもので、通常のバーンの脇にコブ斜面もあり楽しめる。またこの付近の氷河は氷の割れ目が縦横にはしる荒々しい“セラック”地帯で、見るからに迫力がある。

氷河とはやや離れるが、アラリンホルンから出た尾根筋の肩(東方向)へ、ロープウェイ1本で上るプラティエン(2567m)からのコースが面白い。距離も長く、特に下3分の1は斜度も十分で、滑りごたえがあった。脇にコブ斜面もある。

シュピールボーデン プラティエン頂上
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b)クロイツボーデン、ホー・サース

このスキー場は谷をはさんで、サース・フェーの対岸にある。ポストバスでサース・グルント(1559m)まで下り、谷駅からクロイツボーデン(2400m)経由ホー・サース(3200m)まで2本のロープウェイで登れる。まずここの特徴は景色の素晴らしさである。谷を隔てて対岸のサース・フェーの谷全体が一望でき、近くで見るよりかえって迫力があった。特にテッシュホルン、ドームの高さがさらに際だって見えた。雪も良く、コースも予想以上に面白かった。スキーパスにはそのスキー場内だけのものと、周辺スキー場およびスキーバス代を含んだものがあり、それ程の差はないので、このように一日でも他のスキー場に行くならこの方が得である。このように点在するスキー場がスキーバスで結ばれている例は海外では結構多い。


3)セルデン(チロル/オーストリア)

サース・フェー5泊後、2月20日早朝、次の予定地セルデンに向け出発した。ポストバスでブリーク、ブリークから列車で−ベルン−チューリッヒ。ここでK氏と別れ一人になった。ここからは1:33発、オーストリア国鉄乗り入れの国際列車EC(オイロシティー)に乗った。オーストリアに入り、ザンクト・アントンを過ぎ、エッツタールに着いたのは16:53、ここからポストバスで1時間余り、エッツタール(谷)の奥セルデンに着いたのは7時近かった。サース・フェー出発が8時頃だったから、丁度良い列車がなければ、1日の行程では無理だったことになる。予めCOOKの時間表で調べ、計画した通りことが運んで助かった。

セルデン市街図 セルデン・塩沢姉妹都市盟約記念碑 郵便局、教会 メインストリート
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泊まったホテル「ローゼンガルテン」のすぐそばに石碑があるので覗いてみたら、「姉妹都市盟約20周年 白銀の友情は永遠に セルデン・塩沢」との銘が掘られていた。知らなかったがセルデンは塩沢市(新潟県)と姉妹都市の関係にあるらしい。

セルデン滞在3日目だったか暫くぶりに休養のつもりでスキー靴修理のため一日ザンクト・アントンに出掛け、4年前購入した店でバックルを直してもらった。丁度昼時なので、しばしば訪れているザンクト・クリストフのホテル「ガストホフバルーガ」に寄った。スキーの指導で出掛けているとのことで、主人のエディさんには会えなかったが、ヨハンナに会い一年ぶりの再会を果たした。確かエディさんは70才を越えているはずで、元気なことである。こちらも65才寸前でお互いに年をとったものだ。(2001年版、4)懐かしのザンクト・クリストフ参照。)


【スキー場案内】 セルデン

セルデン リフト地図

セルデン(1377m)はチロル/オーストリアの中でも大きなエッツタールの奥にある。スキー場は大きく2つに別れている。リフトで上り下りを繰り返す、奥深いスキー場(ギッギヨッホ−レッテンバッハ−ティーフェンバッハ)とガイスラッハコッグルの2つである。リフト地図には両者を重ねてあたかも一つのスキー場のように表されているので誤解され易いが、両者は急峻な深い谷で隔てられており、(リフト地図、赤線)2者の連絡は谷の低い所でつながるリフト1カ所だけである。(黒矢印)それぞれの山麓駅もバス停で4つ、歩いて15分程離れている。(もちろんスキーバスの便はある)

a)ギッギヨッホ、レッテンバッハ、ティーフェンバッハ

レッテンバッハ スキートンネル入口 ティーフェンバッハスキー場 コース脇の青氷の壁
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ギッギヨッホバーン谷駅からロープウェイでギッギヨッホ。ここから上り下り3本のチェアーリフトと1本のロープウェイ(連絡用、滑るコースはない)でレッテンバッハ(2684m)に達する。さらに2本のリフトを登り、スキートンネル(中に雪が敷かれ、スキーで滑れる)を越えると1本のロープスウェイ、4本のチェアー、Tバーリフトがある氷河地帯、ティーフェンバッハのスキー場(2796〜3300m)に入る。スキートンネルより少し低い所にある鞍部でも、レッテンバッハとつながっているが、この鞍部を越える両側のリフトとも氷河の末端、青氷の壁が見られる。特にレッテンバッハへ下る途中には、コースのすぐ脇に青氷の壁がしばらく続く珍しい光景が見られる。レッテンバッハ−ギッギヨッホの途中にはシュバルツコッグル(2885m)、ハインバッハヨッホ(2727m)へ登るリフトがあり、この下りはいずれも斜度のきついコースである。レッテンバッハからは谷沿いにガイスラッハコッグルバーン谷駅へ直接下る、地図には点線で示されたコースがある。入口に滑走の可、不可を示す看板があったので、天候?によって閉鎖されることもあるらしい。

b)ミッテルスタチオン、ガイスラッハコッグル

前者より少し奥のガイスラッハコッグルバーン谷駅から中間駅を経由し、2本のロープウェイでガイスラッハコッグル山頂(3058m、十字架がある)に達する。このロープウェイ沿いに中間駅経由、麓まで下るコースもあるが、その手前を左にとると、前に述べたギッギヨッホ−レッテンバッハのコースに唯一連絡するリフトに下れる。また中間駅からリフトを1本上るとガイスラッハコッグルバーン谷駅より少し奥のガイスラッハアルム(1982m)に下るコースに出られる。

ガイスラッハコッグル山頂 2つを結ぶ唯一の連絡リフト
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c)オーバーグルグル、ホーホグルグル

オーバーグルグル、ホーホグルグル リフト地図

セルデンからポストバスで25分程、エッツタールの最奥にある。手前がホーホグルグル、奥がオーバーグルグル。少し離れた別のスキー場であるが、両者の中心部が長い連絡用ロープウェイでつながれており、あたかも一つのスキー場のような感覚で滑れる。もちろんセルデンより小さいが、一日で滑るには十分過ぎる程の規模で、今回のスキー旅行の中でも最も印象に残るコースにめぐり会えた。一つはオーバーグルグルのホーエ・ムート(2670m)で、ここへ上るリフトは珍しくも一人乗りのチェアーリフト、山頂に山小屋があり景色が素晴らしかった。下りは地図では点線で表されているほどの心許ないコブ斜面のみ(写真で見る以上に厳しいコース)、帰り着くまで滑る人の姿は全く見なかった。もう一つはオーバーグルグルの最高地点ヴルムコッグル(3082m)の直下、山頂小屋からのコースで斜度、雪共に素晴らしく最高に楽しめた。

ホーエ・ムート山頂小屋 唯一の下りコース ヴルムコッグル山頂 山頂からの景色
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4)あとがき

セルデン7泊後、2月27日いよいよセルデンとお別れ。飛行機に乗るため、エッツタール経由インスブルックに向かった。インスブルックの駅舎は今建築中で、取り壊しが終わり基礎工事の段階だった。昨年同時期に寄った時、工事は既に始まっていたからテンポが少し遅すぎない?仮駅舎のインフォメーションに飛び込んで、当日のホテルをとった。午後は暇なので昼食のついでに旧市街など一通り歩いたが、インスブルックは3年前に観光済み、早々に打ち切り土産の調達に割いた。翌日インスブルック空港を11:30の便で、スキポール空港/アムステルダム経由で帰国した。イラク戦争の影響がないかと心配しつつ出掛けたのだが、今年も何事なく予定通り3月1日午後3時過ぎに成田についた。やれやれ・・・。

今年の旅行も初めはパッケージ・ツアーに加わった、ここ数年行動を共にしているM夫妻が海外のスキーは初めての友人を連れていくので、ツェルマットはどうかと昨年から誘われていたのだが、こちらも同様な事情から話に乗ったのである。ツェルマットは2度目なので予備知識もあり余裕を持って行動出来たし、以前に行けなかったコースも2,3滑った。何より参加グループは腕前がそろっていたので、能率良く行動出来たのではないかと思う。ちなみに同室させてもらった内の一人、H氏は一昨年コルチナ・ダンペッツォの時一緒だった気心の知れた同年代の人である。2番目のサース・フェーは既に書いたように学生時代の友人と一緒。セルデンのみ単独行動だった。それぞれ7泊:5泊:7泊の比率は休養も考慮に入れると結果的に絶妙なバランスだったと思う。

氷河の青氷/サース・フェー 氷河の青氷/セルデン
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今回訪れた3カ所は、意図して計画した訳ではないが、すべて氷河のあるスキー場で、夏でも滑れる所である。ただし冬の氷河は湖と同様、一面銀世界の中では存在感が薄く、氷の割れ目(クレバス)でできる荒々しい起伏、或いは氷河末端にできる青氷の露出で、その存在が辛うじて判る程度である。むしろ判りやすいのは地盤強度の関係で、氷河地帯のリフトは必ずJバー、Tバーリフトであること。

今回の旅行で一番印象に残ったのは期間中(3週間)ほとんど毎日快晴だったことだ。新雪は経験できなかったが、もちろん雪質は最高だし、言うことなしの恵まれた旅だった。こんな経験は初めてである。日頃の行いが余程良かった?

最も印象深かった場所はセルデンの奥、オーバーグルグルのホーエ・ムート山頂の景色。誰もいない一人乗りのリフトで達した山頂での孤独感と斜度のきついコブ斜面を見下ろした時の緊張感は今でも鮮明に、脳裏に焼き付いている。

今回も会話の練習に努めた。ツェルマット、サース・フェーでは一応ドイツ語圏ということになっているがより国際的で、地理的にもフランス語、イタリア語、英語が飛び交い、ドイツ語以外の会話の訓練を受けていない私にとって不便だったが、イタリア語はほんの少しかじっていたので、バルトールナンシュのレストランで注文に役だった時は嬉しかった。(ここは観光客が少ないせいか、自国語以外解さない人が多い?)さすがにセルデン(チロル)では国際的な要素はやや薄れ、ドイツ語の比率が高かった。所属スキークラブのユニホームを着ていたので、地元のスキー学校の教師に声を掛けられ、日本のスキー事情を聞かれたりした。そういえば中年のおばさんに日本でスキーができるのを不思議がられ、スキー人口は結構多いことを話したら、富士山だけにスキー場があると考えたことが判って唖然としたりした。

ヨーロッパでのスキーパスのシニア割引は、65才(女性は60才)に達する年、(今年でいうと1938年生まれ、)からとなっている所が多い。私も誕生日寸前ではあるが、1938年生まれ、今年から割引が効くようになった。(割引率:10〜20%)嬉しいのか悲しいのか微妙だが、感慨無量な事は確かだ。いつまで続けられるか判らないが、スキーは個人スポーツだから体力に応じて続ける方法もあるはずだと開き直っている。日頃のトレーニングを欠かさず、来年も続けたいものだ。99才の○○さんに負けずに頑張らなくては・・・。

−以上−

03年3月30日  田中 あきひろ


【付録】「アルプス登はん記」の思い出

マッターホルンというと若い頃夢中になって読んだ「アルプス登はん記」(原題:Scrambles Amongst the Alps in the Years 1860-1869)を思い出す。(現在絶版?)マッターホルンの初登頂に成功した英国人エドワード・ウインパーが著した本で、1860〜69年のこの辺一帯が舞台である。ヨーロッパアルプス未踏峰のアタックが盛んに競われていた当時、ウインパー隊は1865年7月14日、最後の難関と思われていたマッターホルンの初登頂に成功した。ところが下山途中1人が足を滑らせザイルで結ばれていたパーティーが引きずられ、ザイルが途中で切れたため7人中4人が転落死するという事故が発生し、マッターホルン初登頂という快挙と共に、二重に世界の注目を集めた。

この本を、地理、風景、雰囲気など判らぬまま夢中になって読み、いつか訪ねてみたいと思った記憶がある。私の中ではある意味で現在の山、ひいてはスキーに対する興味を喚起するきっかけとなったのではないかと思う。ツェルマット山岳博物館にはこの初登頂に関する資料、切れたザイル(150年前の本物?)など展示されており、2回にわたって訪れ資料など興味深く閲覧した。展示されていたマッターホルン初登頂前後、数日間の記録を付記する。

マッターホルン初登頂の記録(ツェルマット山岳博物館資料)

勝利への闘争
 1865年7月7日エドワード・ウインパーがバァルトウルナンシュに滞在中のジャン・アントワン・カレルを訪ね、マッターホルン登頂を再び試みるように説得した。しかし、悪天候を理由にカレルはウインパーとの取り決めを3日後にキャンセルする。
 7月11日の夜明けに、ウインパーは自分がまだ眠っている間に、カレルがプレウィルから数名の男たちとマッターホルンに向かって出発したことを知り憤慨する。彼もツェルマットへ出発しようとするが、ガイドもポーターも見つからない。フランシス・ダグラス卿がピーター・タウクヴァルダーの息子ジョセフ・タウクヴァルダーと共にプレウィルの小さなイタリアの村に着いたのはようやく昼近くになってからであった。ダグラスと短い会話を交わすうち、ウインパーは彼のマッターホルン登山計画について知ることになる。天候がさらに悪化する中、彼らは協力してテオドール峠を越える。
 一行はツェルマットに着くとすぐに、ピーター・タウクヴァルダー・シニアを探し、マッターホルン登山を説得。モンテローザホテルへ向かう途中、偶然にもウインパーは登山経験の豊富な山岳ガイドのミッチェル・クロズに出会う。当時クロズは2人のイギリス人、聖職者チャールズ・ハドソンと若いロバート・ダグラス・ハドウに雇われていたが、マッターホルン征服を心に描いていたクロズは、彼らに参加する決心をする。

 翌朝5時半−7月13日木曜日−パーティーは出発する。雲一つない快晴。ピーター・タウクヴァルダー・シニアと、彼の2人の息子たち、クロズ、ウインパー、ダグラスハドソンとハドウら8人の男たちはマッターホルンのふもとを目指し、シュワルツゼー経由で登っていった。
 現在、そのすぐ下方にヘルンリ小屋が設置されている、山のふもとに突き出した台地(3300メートル地点)に一行は野営テントを張った。その日の午後、クロズとピーター・タウクヴァルダーの息子は山の低い部分を偵察に出掛けている。
 その間、イタリア人のパーティーは、リオン尾根(南東尾根)の3960メートル地点にカレルの先導により、到着し、そこに野営テントを設置する。

夜明け前に、ウインパーはじめ7人は、荷造りをすませ、暖かな陽光を浴びながら、ヘルンリ尾根(北東尾根)を登り始めた。その間に、ジョセフ・タウクヴァルダーはツェルマットへ戻っていた。山の東側を、男たちは順調に進み、尾根に向かって、進路を変更しつつ、より高く登って行く。ウインパーとハドソンが先導を交代しながら、雪に覆われた「山の肩」を越え、2回目の休憩の後、先頭を歩くのはクロズに変わった。進路は少し右にそれて、登頂は技術的には困難となった。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。穏やかな天候の中、一人、また一人と男たちがツェルマットの最高地点に立ってゆく。むなしく思われた数々の努力も今、ようやく報われた。マッターホルンはついに征服された!これで初登頂を競った8年間の勝利者がようやく決まったのだ。クロズとウインパーは頂上から220メートル下の地点でゆっくりと前進を続けるイタリア人のパーティーを発見した。ウインパーに敗北したことを知ったカレルはその場で下山を開始する。

遭難事故
 頂上で十分な休息を取り、一行の氏名を記した紙を瓶に入れ、それを山頂に残した後で、彼らは下山の順序について話し合った。
 クロズが下山の際のリーダーになり、その後にはハドウ、ハドソンとダグラス、さらにピーター・タウクヴァルダー・シニア、ウインパーとピーター・タウクヴァルダーの息子と続いた。間もなく彼らは難所とされる山頂のくぼんだ部分にさしかかる。一度に動くと危険なため、一人ずつしか前に進めない。クロズがハドウを支えるために砕氷おのをわきに置いた時、ハドウが足を滑らせ、クロズ、ハドソンとダグラスは雪の中へと引きずり込まれてしまった。ダグラスとピーター・シニアの間をつないでいた綱はちぎれ、タウクヴァルダー父子とウインパーは、かなりの衝撃を受けつつ踏みとどまる。
 かなりの時間が経過した後、残された3人は大きな恐怖と闘いながらゆっくりと下山を開始するが、すぐに日は傾き、彼らは高度4100メートルのところで夜を過ごさなければならなくなった。

生き残った3人と切れたザイル 遭難地点とザイル切断箇所
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 長い長い夜が明け、何とか下山した3人が硬直した顔で悲しい知らせを村に伝えると深い悲嘆の空気がツェルマットに広がっていった。翌朝2時に、−7月16日土曜日−イギリス人の山仲間3人と、2人のフランス人、3人の山岳ガイドがウインパーと共に村から犠牲者を探しに出発した。ツェルマットの山岳ガイドたちはすでにホウリッヒト台地から、遺体の場所を確定するという仕事をしていたので、この捜索には参加せず、教会でのミサに出席した。
 捜査隊はマッターホルン氷河でクロズ、ハドソンとハドウの3人の遺体を発見したがダグラスに関しては、持ち物のいくつかが見つかっただけであった。3日後、21人の山岳ガイドが遺体を収容、ツェルマットに搬送した。ハドウとハドソンは、カトリック墓地の北側にクロズは中央に埋葬された。結局ダグラス卿は行方不明のままになっている。

46年間後、ハドソンの亡骸はツェルマットの古い墓地から、ツェルマット村内にあるイギリス教会に移された。現在、2人のイギリス人、ハドソンとハドウを追悼する2つの墓(階段を上がった上部がテラスになっている)とクロズの記念碑が村内のカトリック墓地に設置されている。
 衣服数点と切れたロープ、その他の犠牲者の遺品などがツェルマットの山岳博物館に展示されている。

結果
1.審問
 マッターホルン登頂後の下山の際、男たちは3本のロープで互いに結ばれていた。クロズとダグラス、ダグラスとタウクヴァルダー・シニア(父親)、そしてタウクヴァルダー・シニアとタウクヴァルダー・サン(息子)の間に一本ずつのロープがあった。真中のロープが他のロープよりも弱かったことが証明され、滑落事故が起きた時に、ウインパーまたはタウクヴァルダー・シニアのどちらかがロープを切ったのではないかという疑いが持たれた。
 この初登頂の悲劇の後、ヴァレー州政府はフィスプ送られた調査官のジョセフ・アントン・クレメンズ、同じくフィスプ秘書官のドナード・アンデンマッテン、代理審判員のセザール・クレメンズ、ツェルマット出身の法廷案内人ジャン・ジュレンからなる調査委員会を設立した。
 ウインパー、タウクヴァルダー・シニアと2人の山岳ガイドは、3日間連続で犠牲者の捜索に参加したにも関わらず疑惑をかけられ、タウクヴァルダー・シニアには2度にわたる事情聴取が行われた。
 事実を検討した結果、裁判所は結論を出し、犯罪的行為はなかったと証明された。事故の責任はハドウにあるとされ、事件性は消滅した。
 ピーター・タウクヴァルダー・シニアにかけられた疑いは晴れたものの、彼に対する非難は決して消える事はなかった。彼は全人生を通じて、そのことに悩み、他の人々から排斥されているという感じは消えることはなかった。

ツェルマット山岳博物館に裁判の議事録のコピーが保管されている。

2.報道
 スイス国内はもちろん、世界中の新聞が、この劇的なマッターホルン初登頂に関するニュースを熱狂的に伝えたが、イギリスの新聞はそのニュースを悲しみ、そして憤慨を持って報道した。その紙面では、全ての記事が登山の意義の有無を問うような扱いになり、世界中の新聞もまた、マッターホルンの悲劇を報道した。山岳事故史上、この悲劇はもっとも大きく取り扱われたものである。
 イギリスのビクトリア王女はその衝撃的な事故に大きな関心を示し、登山禁止の法令を整備する動きを見せたが、宮内式部長官との協議との結果、登山を法律で禁止することは見送られた。
 マッターホルンと共にツェルマットは、すぐに世界的に有名になった。その名は多くの人の知るところとなり、この一連の出来事によってツェルマットは世界的に有名なリゾートとなるべく、その第一歩を踏み出したといえる。

−山岳博物館資料・おわり−

【解説】マッターホルン初登頂をめぐって

この文章の著者、訳者は不明であるが、エドワード・ウインパー著「アルプス登はん記」を下敷きにしていることは間違いない。文章冒頭に競争相手のイタリア人ガイド、J.A.カレルが登場するが、別の資料によると彼は強烈な愛国者で、自らイタリア側からのマッターホルンの初登頂をしようと決心していたらしく、同じく初登頂を志していたウインパーの一行には言を左右にして敢えて加わらなかったようである。

また1863年イタリア山岳会がトリノで設立され、国境のモンテローザがイギリス人によって征服されたのを残念に思い、残る最後の難関、モンテチェルビーノ(マッターホルンのイタリア名)初登頂の名誉こそイタリア人の手に、と燃えていたようである。このように国家的支援も背景に、体力的、技術的にもひけ劣らないと思われるカレルのパーティーが破れたのは、マッターホルンの地形によるものと考えられる。

前に載せたイタリア側からとツェルマット側からのマッターホルンの写真を見ても、一見イタリア側からの方が易しそうに見える。ウインパーも当初イタリア側からの登頂を試みいずれも敗退している。結果的に難しく見えるツェルマット側(ヘルンリ稜)の方が易しかったのである。現在ではこの最大の要因が地層の傾きにあったと考えられている。

マッターホルンの地層はツェルマット側からイタリア側に向かってかなりの角度で傾斜している。右図上段はイタリア側、下段はツェルマット側の様子を模したものであるが、ツェルマット側は岩角が突き出ているため足場と成りやすいのに対しイタリア側は逆傾斜で足場が確保されにくく、部分的に垂直な壁ができやすい。当然ツェルマット側の方が登りやすいことは想像いただけると思う。当時の装備で足場の悪い、急傾斜の岩壁を登るのは困難だったことは想像に難くない。ツェルマット側から見たヘルンリ稜はひどく急峻に見えるが、これは目の錯覚もあり、横から見ると平均斜度は40°を越えないそうである。ウインパー自身も数度にわたる周辺の登行による観察から、ヘルンリ稜を登路に選んだことが勝利につながったことになる。カレルがイタリア人であったが故にイタリア側からの登頂にこだわり、勝機を逸したことを思うと、登山開始前の運命的な要素を感じざるを得ない。

またこの資料からウインパー隊は訓練を積み重ね、チームワークの出来上がったパーティーではなく、むしろイタリア隊との競争をあせった末の即席編成パーティーであったことがはっきり判る。下山時の遭難の遠因はここにあったことは疑いのない事実である。ウインパー隊メンバーの中心ガイドが技術、体力共に秀でたミッシェル・クロで、それまでもウインパーと組んで数々の経験を重ねてきただけに、メンバーの編成と準備期間がもう少しあればこの悲劇は回避されたのではないかと思われる。もっともカレル隊が撤退を決めたのはウインパー隊の登頂成功を目の当たりにしたからだそうで、ウインパー隊がもう少し遅れていれば、さらに頑張って、あるいは成功していたかもしれないことを考えると、「塞翁が馬」の感がしないでもないが、すべては歴史の彼方である。

−おわり−