1)2005年、旅行経路と日程

振り返って見るとこの10年余、かなりの数のヨーロッパスキー場を訪れ、少なくとも日本で名の知られた所はフランスを除いて少なくなり、今度何処に出掛けるか苦慮する状態だった。次回冬季オリンピック/トリノ大会の情報を得、そのアルペン種目の殆どが行われるセストリエール(Sestriere)を訪れたいと考える様になったのはやっと昨年秋口になってからだった。イタリアのスキー場については知識が乏しいので旅行会社のツアーに加わり、その後単独旅行を加える事にした。二番目は日本のエコーバレースキー場と関係のあるアンデルマット、最後はダヴォス(Davosスイス)に決めた。アンデルマットは規模が小さいことは判っていたので短縮。その分2日間ミラノに滞在、観光した。最後のダヴォスでは昨年と同様、学校時代の同期2人と落ち合い一週間共に滑った。

成田空港=ミラノ・マルペンサ空港−(バス)−セストリエール:7泊−(バス)−ミラノ空港−ミラノ:2泊(以上イタリア)−アンデルマット:5泊−(鉄道)−ダボス:7泊−(鉄道)−チューリッヒ:1泊(以上スイス)−同空港=ミラノ空港=成田、(+機中1泊)、2月5日出発、2月28日帰国/全24日間
 注)1.セストリエール滞在6日目、トリノ観光
 注)2.ダヴォス滞在4日目、サン・モリッツ遠征/時間調整のためチューリッヒ1泊


2)セストリエール(ピエモンテ州/イタリア)

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a)スキー場案内

図に示すように、セストリエール(Sestriere)と周辺に4つのスキー場が点在する。サウゼ・ドゥルクス、サン・シカリオ、クラヴィエール、モン・ジェネーブル(フランス)を合わせて一大スキーエリアを形成し、"VIALATTEA" (Milky Way)と呼ばれている。一週間の滞在に充分耐える多様性を持っていた。
もともと雪量はそれ程多くない様子で、人工降雪機が各所で活躍していた。特にトリノオリンピックのアルペン会場となるセストリエールのスラロームコースはこれ等が両側、等間隔に列を成し、固いバーンに仕上げられていた。

後で触れるが、怪我の影響で一日休んだクラヴィエールを除いて、ほとんどのコースを滑った。気温は−15℃以下と低かったが、後半天候は回復し快適だった。山の上、雲海が見渡せる所から少し滑り降りると、雲の中では雪がちらつくという現象を経験した。

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オリンピック/滑降コース 同/回転、大回転コース 薄れ行く雲海

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サウゼ・ドゥルクス頂上付近 地元スキー教師によるデモ フランス国境付近

b)セストリエールの街

セストリエールはトリノの西80Kmほど、フランスとの国境、アルプスの麓にあり、来年の冬季オリンピック・トリノ大会のアルペン会場となる所で、街自体が標高2035mという高い所にあるが、滞在少し前、ヨーロッパ各所で降った大雪の時も空振りで、今年は異常に雪が少なく、所々に石が顔を出す状態で、我がスキーも一週間でオーバーホールを余儀なくされた。

街の中心はスキー場に接しており、リフトへのアクセスは良く、サウゼ・ドゥルクスへもロープウェイで繋がれている。街の中心、丁字路の一隅では選手村?と思われる建物の建設が始まっていた。さらにサン・シカリオの頂上へも連絡があるが、今回はそのリフトが雪不足で休止のため、バスでチェサーナまで下り、上り直す必要があった。そのロープウェイからは距離競技のスタート、ゴール地点、ボブスレー、リュージュなどオリンピックのための設備建設の様子が見られた。
(トリノ・オリンピックの詳細については終章で触れる。)

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セストリエールの街 建設中の選手村
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建設中の距離競技会場 ボブスレー、リュージュ施設

c)トリノ観光

セストリエール滞在6日目(最終日)、トリノ観光に出掛けた。途中スーザ付近、山の上にあるサクラ・ディ・サンミケーレ修道院に立ち寄った。スーザを通る道は昔からフランス−イタリア間のアルプス越えの街道として有名で、ハンニバル、アレキサンダー大王、ナポレオンの行軍にも使われたとされている。この修道院は1000年程前に創建されたもので、聖職者の宿坊のような役目をしていたとのこと。それにしても何故こんな不便な山の上に建てられ、存続したのか不思議である。内部は装飾など多くはなく簡素なものであるが、静かで荘厳な雰囲気を持っていた。スーザの街を眼下に見下ろし、アルプスの眺望が素晴らしかった。写真でこんな広角度の光景は撮りきれないが・・・。

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サクラ・ディ・サンミケーレ
修道院
同/内部
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古い塔とスーザの街 アルプス遠景

トリノは古くローマ時代から開けた古都で、短いながらイタリア統一当時(1861年)の首都、近年はフィアット本社工場のある工業都市でもある。ガイドの案内でカステッロ広場、王宮見物のほか旧市街を散策した。サヴォイア家代々の居城である王宮は豪華絢爛、当時のヨーロッパの多くの宮殿に劣らないもので一見の価値があった。旧市街全体も想像以上に雰囲気のある古都という印象を受けた。全員が買物で抜けて行く中、ガイドのミレーナさんに一対一で旧市街を案内してもらい、たっぷり1時間あまり、イタリア語の個人レッスンを受けた。そう言えば昼食をとったカステッロ広場近くのレストラン「BARATTI&MILANO」は1858年創業の名のあるレストランのようである。その日は金曜日でキリスト教の戒律が守られてか魚料理だった。

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サヴォイア家王宮 パラティーナ門(ローマ時代)
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ローマ時代の遺跡 老舗レストランの昼食


3)ミラノ観光

帰途につくツアー一行に同行、ミラノ空港(マルペンサ)まで戻り、見送ったのが12日昼。マルペンサ・シャトル(直行バス)で約1時間、ミラノ中央駅に着いた。イタリアの都市観光としてはコルチナ・ダンペッツオ旅行時のベネツィア以来2回目である。次の滞在地に直行するには時間的に厳しく、アンデルマットの規模から一週間は少々長過ぎるのでは?と考え短縮した分、ミラノに2泊の予約をしていた。

短期間、しかも初めてのミラノ観光で、まず浮かぶのはドゥオモ(大聖堂)とレオナルド・ダ・ヴィンチの絵「最後の晩餐」。まずドゥオモだが、行ってみると正面が修復のため足場が組まれ、シートが被せられ、側面から覗けるだけだった。この光景にがっかりし、内部を見る意欲をなくしてしまった。屋上からのミラノの街を見られず少々残念。たまたまその日、12日夜はファッシング(カーニバル)。着飾った仮装の親子と大勢の観衆がドゥオモ広場にあふれ、紙吹雪と白い泡の出るスプレー缶の攻撃から逃れるのに苦労した。ドゥオモ広場周辺は接するエマヌエーレU世のガレリア、スカラ座など散策した。翌日曜日「最後の晩餐」を見に出掛けた。この絵は1999年修復が完了したミラノ観光の要である。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会付属の建物(昔の食堂?)内にあり、この部分のみ有料(6.5 Euro)で、12時入場の予約を取り、その間「レオナルド・ダ・ヴィンチ博物館」を見物した。夜出掛けた「オペラ鑑賞」は予め日本からチケットを予約したものだが、詳細は終章で触れる。市内すべての交通機関に通用する48Hパス(5.5 Euro)は便利だった。

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ミラノ中央駅 ドゥオモ ファッシング

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スカラ座 マリア・デッレ・グラッツェ教会 「最後の晩餐」/ダ・ヴィンチ
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ガレリア 同/内部


4)アンデルマット(スイス)

アンデルマット(Andermatt)は初めに触れたが、日本のエコーバレースキー場と提携関係にあり、毎年人的交流をしてきたが、この所途切れていると聞いた。ここを選んだのはセストリエールとダヴォスを候補に選んだ時点で、未知のスキー場であり、中間地点として都合良いことに気付いたからである。

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a)スキー場案内

図のように小規模のスキー場であるが三つに分かれている。中央のゲムスシュトックが最大で、頂上(約3000m)から麓まで標高差1500mに達する長いコースがある。この中の一部は、札幌オリンピックの時(1972年,昭和47年)2冠に輝いた地元出身のBernhalt Russiの名を冠して、ルッシ・ラン(Russi-Run)と名付けられており、斜度35度を超えるタフなコースである。この季節では雪も多く整備も困難であるが、春先にはよく競技大会に使われるとのことだった。この時は新雪と強風で、隣のコースを滑ったが、それでもスノーマシンによるコース整備もままならぬ状態で、ルッシ・ランの方は手付かずだった。
もう一つギュッチ(Guetsch)スキー場は大変景色が良く、すぐ脇のネッチェン(Naetschen)駅(アンデルマットの東隣)をたまに通る真っ赤な列車は純白の雪に映え、見おぼえのあるスイスの観光ポスターのようだった。頂上には風力発電施設があった。

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ゲムスシュトック谷駅 ゲムスシュトック山頂駅 風力発電(ギュッチ)
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ルッシ・ラン ネッチェン駅

b)現地での出来事と街の様子

エコーバレースキースクールの校長、T氏から現地で働いている日本人が居ることを聞き、夜彼が暇になってからホテルを訪れ歓談した。もちろん初対面で詳しいことは分からないが、彼はここの "DREI KOENIGE & POST" というホテルでコックとして既に10年以上働いているとのこと。翌日、半日ゲムスシュトックで強風の中一緒に滑った。このホテルのオーナー、カール・ガンマさんにも会った。この地方のスキー連盟の幹部で、エコーバレーとの提携にも関与していたらしく、日本にも何度か行っている模様。アンデルマットの名入りのキャップをもらった。町は端から端まで歩いても十数分程度の小さな町であるが、氷河特急(ツェルマット−サン・モリッツ)の中間地点ということもあって、夏は観光客(日本人も多い)で賑わうとのこと。冬訪れる日本人は滅多にないそうだ。

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アンデルマットの街 ホテル"Drei Koenig & Post" 氷河特急?

c)セデゥルン日帰り

アンデルマット最終日はウィンターホルンをパスして、隣のスキー場セデゥルン(Sedrun)へ出掛けた。このスキー場は鉄道で2つ先のオーバーアルプパスと更に先のディエニで鉄道と繋がっている。この路線はツェルマットからブリーク、アンデルマットを経由し、サン・モリッツに至るあの氷河特急の走る路線である。急勾配の区間は線路中央の歯車と噛み合わせて登る(アブト式)狭軌鉄道である。ツェルマット、ブリーク間のBVZともう一つが合併し、つい最近ZERMATT-GOTTHART鉄道となったと聞いた。ディゼンティスから先、サン・モリッツ、ダヴォス、シュクオル方面は従来通りレーティシュ鉄道(RAETISCH BAHN)である。(旅行経路参照)

この日天候は急激に回復したが気温は多分−20℃以下と低く、朝もやが漂う日だった。オーバーアルプパス駅で下り、ふと気が付くと空気中にキラキラするものが浮かんでいた。これがダイアモンドダストと分かるまでに少々時間を要した。セデゥルン・スキー場はそれ程特徴はないが、コンディションも絶好で滑りごろの快適な中斜面と、何よりも廻りの景色の素晴らしさは如何にもスイスらしく、楽しさという点では今回の旅行中でも屈指のものだった。

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眼下にたなびく雲海 周囲の山々
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セデゥルンの町 ディエニ駅


5)ダヴォス(スイス)

19日最後のダヴォスに向け出発した。列車はアンデルマット出発時点から少々遅れ気味で、ディゼンティスに着いた時は接続列車は出た後だった。ここはレーティッシュ鉄道との接続駅で氷河特急を除いて直通列車はない。こちらでは鉄道ダイアは基本的に「毎時同時刻発着」が原則なので1時間弱待つことになったが、Tamins, Filisur乗り換えで午後4時前には仲間より一足早くダヴォス(Davos)に着いた。冒頭に触れたがここでは昨年に続き学校時代の仲間3人が落ち合い1週間同宿し行動を共にした。これまで一人旅の時は一皿ずつ時間を掛けて運ばれて来る料理に暇を持て余していたディナータイムも話がはずんで退屈せずに済んだ。もちろんスキーも一緒に楽しんだ。

a)スキー場案内

ダヴォス・スキー場はほぼ東西に延びる谷の両側に合わせて五つのある。東から順に

北側(南斜面) マドリーザ(クロスターズ・ドルフ)、パルゼン(ダヴォス・ドルフ)
南側(北斜面) ピッシャ(バス)、ヤコブスホルン(ダヴォス・プラッツ)、リンネルホルン(グラリス)
      注)クロスターズ・ドルフは普通列車のみ停車。クロスターズ駅からバスが便利。

()内は各スキー場の最寄鉄道駅であるが、この外にもスキーバスが頻繁に通い、リフトパス或いはホテルでもらえる宿泊者用のパスが使えいずれも無料である。鉄道も含めてこれらのパスが使えるのが如何にも観光に力をいれているスイスならではである。  規模の大きいのはパルゼン、ヤコブスホルンであるが、他もそれぞれ特徴をもっており、合わせて一大スキー場を形成している。ダヴォスの街は標高1550m程、最高地点はパルゼンのヴァイスフルー・ギプフェル(Weissfluh-gipfel)の2844mである。

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唯一の登山電車(パルゼン) ヴァイスフルー・ギプフェル リンネルホルン

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レストランのテラス/ピッシャ ピッシャのロープウェイ

b)ダヴォスの街と出来事

ダヴォスは有名な観光地で、ここで行われる国際会議がニュースに登場することはよくある。菅平の日本ダボスの名はこの地に由来し、事実真田町と姉妹都市の関係はあるらしい。ダボスではなく“ダヴォース”、ヴォーにアクセントを置いて、長めに発音する方が通じやすいようだ。ダヴォスの市街はダヴォス・ドルフとダヴォス・プラッツ駅間にほぼ途切れずに続いている。国際会議場はややドルフに近い方にある。

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ダヴォス プラッツ駅 ダヴォスの町 ダヴォスのリフトパス表裏

リフトパスについては今までも何回か触れたが、ダヴォスも非接触式ICカード−名刺サイズで厚さ0.8mm程のプラスティク製。6日券を購入したが写真が必要だった。チャージ料が5Euro(\700)である処を見るとカード原価は日本より低いように思われる。その上感度も良く、少し離れていても確実に作動する。

このリフトパスに関連して思いもよらない事があった。登山電車、ロープウェイなどの駅にあるテレビをふと見ると突然私の顔が写るではないか、どうやらゲストの顔を選んで順次紹介しているらしいのだが、結構長い時間(30秒)ほど写っており、しかも日を隔てて、別の駅でも何回か見た。考えてみるとこの画像はリフトパス購入時提示したパスポートの写真から取られたものである。東洋人の顔だから向こうの人には目立つ筈で、誰か気が付いた人がいるのではないかと思ったが自意識過剰?パスポートの写真は7年前のものなので自分で見ても多少若く見えた。この件もあってチャージ料を放棄して、記念に持ち帰った現物がこの写真である。

それにしてもダヴォスに限らず今回訪れたスキー場はTバーリフト(ドイツ語でシュレップリフトという-Schlepplift)が多かった。長さ、傾斜共、日本のチェアーリフトを優に超えるものは幾らでもある。氷河地帯など地盤強度の関係で通常のリフトが作れない場合もあるが、建設、ランニングコストは当然廉価で、利用者がそれ程多くない場所でも設置可能なことを考えると、スキー人口の減少が進んでいる日本でこそ、この方式見直してもよいのではないかと思った。慣れればそれ程スキーヤーに負担を強いるものではない。

c)サン・モリッツ遠征

ダヴォス滞在5日目、少々目先を変えようとサン・モリッツへ出掛けた。サン・モリッツは3年前に滞在したことがあり、その時は反対に一日ここに遠征した。(2002年版参照)
サン・モリッツの何処にしようか迷ったが、景色と所要時間を考慮し、コルバッチ(Corvatsch)に決めた。ダヴォスから列車で、フィリスア(Filisur)経由1時間、サン・モリッツ駅に着いたら丁度コルバッチ行きのバスが出る所だった。スーレイ(Surej)の谷駅(1870m)からロープウェイ2本でコルバッチ山頂(3303m)に達する。山頂の展望台からの眺めは素晴らしかった。この辺で一番標高の高いピッツ・ベルリナ(4049m)とピッツ・ロゼック(3937m)が薄い雲を透して確認出来た。さすがに標高4000m近い山々は何処か威厳を持って見えた。下るコースの途中からは眼下のシルバーナ湖の向こうにピッツネアのスキー場が望めた。(冬の湖は見ての通り存在感が希薄)

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コルバッチ山頂 ピッツ・ベルリナとロゼック シルバーナ湖とピッツネア


6)あとがき

ダヴォス滞在も6日目、ピッシャを最後にすべてのスキー場を滑り終え、翌朝、K氏はインスブルックへ、Tさんはチューリッヒ経由で帰国の途へ。私もミラノ(マルペンサ空港)に戻らねばならず、その日は時間的に無理でチューリッヒ一泊を予定していたので、空港まで付き合い見送った。

後で聞いた処、この話には後日談がある。エコノミークラスがオーバーフローしていたらしく、搭乗直前にゲートカウンターで呼び出され、ビジネスクラスに替わってくれないかと言われ(喜んで)OKしたとの事。驚くなかれ来る時も同様な理由でビジネスクラスだったそうだ。私も10往復以上しているが、今までこんな美味しい話に出会ったことはない。今回マルペンサ空港でやはりゲートカウンターで呼び出され、やっとチャンスが到来したと思い、いそいそと出頭したら、赤ん坊のいる人に席を譲ってくれないかとのこと。替わりにあてがわれたのは隣が空席というだけのエコノミー席だった。残念!

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"みぞれ"のチューリッヒ空港

その日は空港の "インフォルマチオン”の紹介で近くのホテルにチェックインし、午後はクローテン駅周辺を散策。ショッピングなどゆっくり旅行の最後を楽しんだ。翌日は雨交じりの名残り雪。何かやり残したような満たされぬものと恒例の予定を無事終えほっとした気分が交錯した。来年も続ける決意を新たに今回の旅を終えた。
この様にして毎年が過ぎて行くのだろう。それにしても年ごとに一年が短く感じるのは何故だろうか?


7)その他諸々

a)海外での怪我

実は今度の旅行で海外で初めての事故を経験した。しかも救急車のお世話になるという少々派手なものだった。セストリエール滞在2日目スキーを終えホテルに戻り、共用のジャグジーに入った。風呂から上がる時、溜まった水で滑りやすくなっていた床に足を取られ真後ろに転倒し、風呂の廻りを囲う石段の角で後頭部を打った。打ったのは首との境目近辺。気を失う訳ではなかったので、内部に影響はないと自分では分かったが結構出血していた。ホテル側で連絡したらしく、救急車で町中の診療所に運ばれ4針縫った。打撲箇所が頭部だったため大事をとったのか、更に45Km程離れたピネローロの大きな病院に運ばれた。傷の位置が頭蓋から外れていたためか外傷のみと判断され放免された。結構夜遅くなっていてホテルに戻ったのは11時を過ぎていたと思う。救急車到着まで付き添っていただいたホテルの人、診療所まで一緒に救急車に乗って面倒を見てくれたツアーの仲間、ピネローロの病院まで同道してくれた旅行会社のツアーコンダクター、沢山の方々にお世話になった。感謝している。スキーも1日休んだだけで復帰できた。8日後、次の滞在地アンデルマットのスイス軍病院で抜糸をしてもらい、治療は終わった。

未だに一つ分からないことがある。スキー場かホテルの保険でも適用されたのか、救急車の搬送費用、病院の治療費は一切無料、請求されなかった。(スイスの軍病院も) 掛かった費用は帰りのタクシー代と翌日薬局で買った消毒薬、締めて百数十Euro。「海外の治療費は猛烈に高い」とさんざん脅かされて、骨折、入院、救援の費用まで考え、クレジットカードの保険以外に疾病700万円の海外旅行保険を掛けていたのだが、使ったのは\15,000程度、少々拍子抜けした。それでも保険料ははまたその数分の一と安いものである。

b)イタリア語会話

昨年9月イタリアへの旅行を決断した時、少しでも現地の言葉で話したいと思い立ち、正式にイタリア語会話を習うことにした。たまたま通っているカルチャーセンターで、後期(10月)から初歩のイタリア語クラスがスタートすることが分かって申し込んだ。それにしても出発までわずか4ヶ月、不安を抱えながら自分なりに頑張ったつもりである。平行して続けていたドイツ語会話の方は大分犠牲になっていたと思う。
わずか4ヶ月で当然難しい話は出来ないが、頭に怪我をした時そばに付き添ってくれていたセストリエールのホテルの人、トリノを案内してくれたガイドのミレーナさんとは何とかイタリア語で会話していたことを思い出す。

初心者の場合問題はヒアリング。大半分からないことも多いが、慣れで想像を働かせある程度カバーできることもあり、分からないことを気にして萎縮してしまう方が問題だ。ミラノのホテルではほとんどイタリア語で済ませたが、フロントに「この旅行のために4ヶ月勉強した。」と話したら大変褒めてくれ内心嬉しかった。我々がイタリア語で話しかけると多分おかしな処もあるのだろうが、だからこそニッコリしてくれるのだろうし、自分自身も旅の楽しさが倍増することを今度も改めて感じた。イタリア語は以前独学で少し勉強したことがあるが、日本人にとっては発音の点で取り付き易い方だと思う。それにしてもTVなどから耳に入ってくるあのマシンガンのようなけたたましいしゃべりには、同じ言葉と思えない位の早さでびっくりする。

c)オペラ鑑賞

ミラノに泊まることを決めた時、何か目玉となることは出来ないかと考えた。思いついたのはオペラ鑑賞。クラシック音楽は昔から関心があり聞いていたのだが、恥ずかしい話レコードで聞いたことはあっても実際に見たことはなかった。ミラノと言えばスカラ座。最近長期間の大改修工事が終わって公演が再開されたことはニュースで知っていた。旅行日程から13日(日)以外ないのでスカラ座のホームページで調べると、その日、スカラ座での公演はないものの、アルティンボルディ劇場でワーグナーの「タンホイザー」を上演していることが分かった。当日現地でチケットを買える確率は少ないので、やむを得ず前もって日本で業者に依頼した。しかしインターネットで調べ、私の場合当然シニア料金で買えると思っていた処、日本からではその適用がないためかなりの料金差があったことだ。手数料を含め、現地で買えば平戸間の最高の席が買える料金を取られた。しかしミラノの駐在員が指定日に宿泊ホテルまで届けてくれるサービスは便利だった。
アルティンボルディ劇場はデゥオモ広場から北東6Km程の所にあり、公演のある日は広場から二両連結の大型シャトルバスが頻繁に出る。所要時間は30分程。オペラ、バレーのできる劇場であるが、スカラ座とは違って、客席は演奏会用様式で、桟敷席はない。

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プログラムと入場券

劇場は一種の社交場で、開演前三々五々集まってくる人々は正装、季節柄毛皮のコートを着こんだ御婦人も多く、豪華な雰囲気だった。演目は長いことで有名なワーグナーの「タンホイザー」。30分の休憩2回を挟んで延々4時間半、7時開演で終わったのは11時半を過ぎていた。あらすじを紹介するつもりはないが、ほとんどのオペラがそうであるようにこれも「愛」をテーマにしたものである。初めての体験なので比較のしようがないが、演出は想像していたよりは現代的で舞台装置も簡素だった。各席にイタリア語、英語、ドイツ語歌詞が選択、表示できる10×25cm程のディスプレーが付いていたが、あらすじをある程度識っていればこの助けを借りなくともそれ程の支障はなく、舞台に集中した方が良いと思った。確かに難解な処もあるがいつの間にか引き込まれている自分を感じた。公演が終わってドゥオモ広場に戻ったのは零時過ぎ、地下鉄の終電は過ぎていてホテルへはタクシーで帰った。初めは公演後名のあるレストランで食事でもと考え、予約しようと思ったが問い合わせの結果不可能なことが分かって諦めた。

d)次期冬季オリンピックのこと

冬季オリンピック第20回トリノ大会は2006年2月10日から26日の17日間行われる。トリノ大会といってもトリノで行われるのは開・閉会式、スケート競技位で、その他アルペン、ノルディック、ボード等多くはトリノから80キロ程離れたフランス国境に近い、セストリエールおよび周辺のスキー場で行われる。

オリンピック時の種目別、競技会場は次の通り。

1)トリノ         −スピードスケート、フィギュア、アイスホッケー、開・閉会式、選手村
2)セストリエール   −アルペン、選手村
3)サウゼ・ドゥルクス −フリースタイル
4)サン・シカリオ    −距離競技、バイアスロン、ボブスレー、リュージュ
5)プラジェラート   −ジャンプ、ノルディック複合
6)ピネローロ     −カーリング
  (カーリングの行われるピネローロは図らずも怪我をして運ばれた病院のある街)

残念ながら入賞の期待のかかる種目は一年先を見越してもスケート、フリースタイル、ボード位で、アルペン種目では到底望めないが、ヘルメットを被った小さな子が急斜面を猛烈なスピードで飛ばしている姿を見るとスキー環境の違いと指導体制の差が歴然と感じられ、むべなるかなとつい納得してしまう。

話は違うが、ヘルメットは子供とボードはほとんど、明らかに選手でない大人でも2,3割は装着していた。衝突事故の話は日本でも時々聞くが、特にスキーヤーの高年齢化が進んでいる現状を考え、もっとヘルメット普及に力を入れるべきだと思う。SAJ,SIAはどう考えているのだろうか?

−以上−      

2005年4月9日  田中 あきひろ