1)2007年、旅行経路と日程

今年はオーストリアのスキー場2ヵ所−ツィラータールとザルツブルグの南、シュラートミングを訪れた。前者はインスブルックの隣駅イエンバッハから南に延びる大きな谷で、谷奥のマイヤーホーフェンを拠点に数カ所のスキー場を滑った。後者はザルツブルグの南にあり、シー・アマデと称する一連のスキー場の東の端に当たる。今年はスキーは2ヵ所にとどめ、帰途ウィーンでスキーを預け、ブダペストとショプロン(ハンガリー)を観光した。短期間ながら新鮮で楽しかった。今回初めて東欧に足を踏み入れたことになる。

今年はヨーロッパも日本と同様暖冬で雪も少なく、特にシュラートミングでは麓は草原が淡く緑に染まり、2月というのにすっかり春の景色だった。スキーコースだけがスノー・マシンのお陰で白く輝いている光景が少々奇妙に感じられた。気温が高いためか晴でもガスっているなどということもあった。今回もスキーは昨年と同じ友人と行動を共にした。

【旅行経路】

成田=ウィーン=インスブルック−イエンバッハ経由マイヤーホーフェン:7泊−ザルツブルク経由シュラートミング:8泊−ザルツブルグ=ウィーン:1泊−ブダペスト:2泊−ショプロン:1泊−ウィーン=(機中泊)=成田    (=:航空機、−:鉄道ほか)
2月10日出発、3月2日帰国、19泊+(機中1泊)/全21日間



2)ツィラータール(チロル/オーストリア)

ツィラータールはインスブルックの隣駅イエンバッハから始まり、狭軌のツィラータール鉄道(Zillertalbahn)が終点マイヤーホーフェン(Mayrhofen)まで通じている。バスもほぼ平行して走り、どちらも約1時間の旅程である。実は当初、9日出発でインスブルックに1泊する予定だったのだが、便欠航のため1日遅れ10日出発になった。インスブルック空港着が午後7時でマイヤーホーフェンまで行く手段は他になく、一日の遅れを取り戻すべく、イエンバッハからタクシーを使った。距離は40Km程で料金はインスブルックに1泊するより余分にかかった。我々の泊まったホテルはペンケンバーンの隣といってもよい街の中心にあった。大きなスポーツ・ホテルでプール、サウナなど完備し、設備は良かったがディスコが中にあり、深夜までうるさいのには閉口した。ここを拠点にツィラータールの殆どのスキー場を巡った。

谷の平坦な部分はマイヤーホーフェンまでで、急に高度を上げ、更にバスで40分程谷の最奥ヒンタートックス(Hintertux)まで続く。中心はペンケン(Penken)とこれに連なるスキー場であるが、その他に数カ所の滑走距離150Kmほど、日本の規模で言えばかなり大きなスキー場が点在し、合わせて滑走距離:636Km、リフト数:174基の一大スキー場を形成している。すべてリフトパスは共通で、無料のスキーバスでつながれている。ツィラータール鉄道もこの中に組み込まれていて、リフトパスがあれば無料。

実は7年前、ホームページを始めた年であるが、キッツビューエルからインスブルックへ移動の途中スキー目的ではなくここを訪れている。大した理由はなく、確かドイツ語の勉強でテキストとして「二人のロッテ」を読んでいた時、聞いた話が何となく耳に残っていて、時間の余裕があるので立ち寄ったのだ。この作者エーリッヒ・ケストナーが第二次大戦末期、ユダヤの血が混じっているという理由で「ナチ」に目をを付けられているのを周りの仲間が心配し、映画撮るという触れこみでここに連れてきて、空の映写機を回したという逸話がある。

a)ペンケンほか

【スキー場地図】

注)以下()内は標高。
マイヤーホーフェン(630m)の街の中心部からロープウェーで登るペンケンとこれにリフトでつながる4っのスキー場である。谷の入口から奥に向かって順にHorberg(2278m)-Penken(2095m)-Rastkogel(2500m)-Eggalm(2300m)で滑走距離200kmを越える。Eggalmへは雪不足で途中のリフトが閉鎖、今回は行かなかった。この地域で黒色(難)コースが3っあるが(下記注)、一つは「HARAKIRI」と言う名が付いていた。(コースNo.18)地元のインストラクターが最大勾配78/100(斜度38°)と言っていたが、これはコースの一部で、全体としては長さからいってもHorbergから標高差658m、乗っているだけでも長く感じるリフト1本分をフルに滑るコースNo.17の方がタフで、ノンストップで3本滑ったが呼吸困難を覚える程息が切れた。ペンケンバーン沿いは岩山の断崖が続き、下まで下るコースはない。
注)これまでにも触れたが、向こうのリフト地図にはコースが色分けされ、難易度が示されている。(黒:難、赤:普通、青:易)

また谷の反対側にはAhorn(1965m)というスキー場がある。Penkenbahnの近くから150人乗りと称する大型のAhornbahnが出ている。上から谷駅までスキーで滑ることが出来るが、下部は所々地肌が出ていた。
マイヤーホーフェンの街は夏も避暑地として賑わう大きな街で数多くのホテル、レストラン、土産屋など立ち並んでいる。

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ツィラータール鉄道 ペンケンバーン ラストコーゲル山頂
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"HARAKIRI"ゲレンデの標識 Aホルンバーン

b)ヒンタートックス・グレッチャー

ツィラータールの最奥のスキー場で最高点は3250m。最高峰はOlperer(3476m)。その名の通り付近は氷河地帯である。滑走距離は86kmと少なく結構緩斜面も多い。氷河地帯なので例によってTバーリフト(Schlepplift)が主体。山頂駅には展望台があり360°の展望が望めた。意外に広々とした光景であるが、岩山がそびえ立つ景観は素晴らしかった。もちろん雪質は良い。マイヤーホーフェン駅始発で、朝8時から20分間隔で市中心部を通って頻繁にスキーバスが往復している(Green Line)。このロープウェー頂上駅舎のトイレで面白いものを見付けたのでその写真を載せる。

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氷河の青氷 ヒンタートックス山頂駅 ターゲット付小便器
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オルペラー山
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氷河地帯

c)ホーホ・ツィラータール、ホーホ・フューゲン

マイヤーホーフェンとイエンバッハの中間ほどに位置するカルテンバッハ(Kaltenbach)から登るHochzillertal(2501m)-Hochfuegen(2501m)はそれぞれ滑走距離150Kmを越えるスキー場。カルテンバッハ駅、ロープウェー間は歩く距離である。Hochzillertalbahnの山頂駅から左にスキー場が平行して並び、数本のリフトが架かっている。この内のNo.7黒コースを中心に何回か滑った。Hochfuegen方面へはこれらリフトの一番右Sonnenjetを2360mまで登り、さらに小さな谷を隔てた2501mのピークから1500mの部落まで標高差1000mを一気に下る。この下りは滑れども尽きず、辟易する程長く感じた。Hochfuegenは時間の関係で、一通り往復しただけで終わった。帰りも元来たコースをたどり、Hochzillertal経由で戻った。 −という事はこの下りもかなりのものであった。(黒コースNo.6)

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ホーホ・ツィラータール谷駅 フューゲン行リフト

d)ツェル・アム・ツィラー(アリーナ)

マイアーホーフェンの手前ツェル・アム・ツィラーから入る、通称「アリーナ」というスキー場。Uebergangsjoch(2500m)-Isskogel(2264m)-Gerlos(1300m)-Koenigsleitenspitze(2315m)-Koenigsleiten(1600m)-Plattenkogel(2040m) 4っほどのピークを越える奥深いスキー場で滑走距離160Kmを誇る。近年積極的に投資が行われているようで、主要ルートには何々-X-pressという如何にもそれらしい新鋭のリフトが設置されていた。90°方向転換するリフトは珍しいのではないだろうか。Zell am Ziler駅とロープウエイ間は歩くには少々離れているが、やや小型の無料スキーバスが頻繁に往復している。マイヤーホーフェン駅からも上記経路途中のGerlos、Plattenkogelbahnまでスキーバスも出ているが、本数は2往復と少ない。

この日はたまたま金曜日であったが、人の多さはペンケンスキー場並だった。天気が良いためだけでもなさそうで、日本の関係者が見ればうらやましく思うだろう賑わいだった。おそらく投資効果が現れ、それ程目立つ所はないのに人気が出ているのではないかと思った。Kreuzjoch(2559m)を捲きIsskogelを越える辺りは標高の割に高山の雰囲気があって、天候も良かったせいか景色が素晴らしかった。一番奥のPlattenkogelは雰囲気ががらりと変わって、広々とした感じの緩斜面のスキー場だった。

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プラッテンコーゲル/アリーナ

マイアーホーフェン7泊後、次の宿泊地シュラートミングへ向かった。この途中でコートを車中に置き忘れるという事件があった。結果的にはのちに回収でき、幸運にも殆ど影響なく旅を続けられたが、その顛末に関しては最終章で詳しく述べる。



3)シュラートミング(SKI AMADE)/オーストリア

シュラートミングはザルツブルグの南、ビショップスホーフェンから東、シュタイアーマルク州に少し入った所にある。この一帯は シー・アマデ(SKI AMADE)と称するリフト組合?に統合された滑走距離:865Km、リフト数:270基を有するとてつもない大スキー場で、東西に横長に並んでおり、共通リフトパスが通用する。3年前に訪れたバート・ガシュタインが西端とすれば、シュラートミングは東端近くに位置する。ここを選んだ理由は今回東の外れからアマデ全体を制覇しようと思い立ったのだが、8泊ではその目的は叶わず、途中の歯抜けとガシュタインの間の幾つかの山、奥のGrossarltal地区をそっくり残した。

【SKI AMADE スキー場概観】

a)シュラートミング・タウエルン

シュラートミング・タウエルンの中心は東から順にHauser Kaibring(2015m)-Planai(1894m)-Hochwurzen(1850m)-Reiteralm(1860m)の4っのピークで構成され、それぞれリフトで繋がっている。Planaibahn(745m)はシュラートミングの街の中心に近く、鉄道駅からは直線距離で800m程離れている。まだ東にGalsterbergalm(1986m)、西にFageralm(1885m)があるが、リフトの連絡は無く、今回この2つはパスした。

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プラナイロープウェイ駅 ホーホヴルツェンの5連リフト

Reiteralmは今シーズンワールドカップが行われた所である。薄々記憶していたが、看板が残っているのを発見し、昨年12月10日,15−16日、男女スパーGなど行われたことを確認した。確かに大回転競技に適すと思われるピステがある。(コースNo.3)

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ワールドカップ看板 ライターアルム山頂 ハウザーカイブリング山頂

シュラートミングはそれ程大きな街ではないが、立派な教会、古びた城門、市役所を見ると結構歴史のある街のように思われる。我々の泊まったホテルは「ポストホテル」という名で、このような名のホテルはよくあるが、その名の通り昔は郵便馬車の宿駅だったと思われ、街の中心に位置しているのは不思議ではない。前の広場は特に週末ともなると、屋台の店が立ち並び、飲んで騒いでいる光景が夜遅くまで見られた。市庁舎の庭には日の丸が見られた。

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シュラートミングの教会 市庁舎
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ポストホテル 中央広場

終わりに近いある日スキーからあがって街を散歩していると、スポーツ用品店のショーウインドウに3年前買った同じメーカー「シュトロルツ」のスキーブーツが飾ってあった。実は今シーズン初め、(日本で)ボーダーと接触してバックルを変形させ、修理をしたいと思っていた所だった。早速店に飛び込んで相談すると修理できるとの返事なので、一晩預け、翌朝開店と同時に受け取りにいった。バックルだけでなくソールも張り替えてもらい、すっかり綺麗になった。日本では修理が難しく、来年は買ったサン・アントンの店に寄るように計画しなければならないかと覚悟していたが、偶然の発見でこの制約から逃れられ助かった。

b)ダハシュタイン・グレッチャー

このスキー場もシュラートミングと同じ地区に含まれているのだが、大分離れていて谷の反対(北)側に位置し、様子もかなり異なっているので別項に独立させた。スキーバスはPlanaibahn近くのRathaus Platzから出発し、ダハシュタインまで一時間ほどかかる。スキーバスは通常スキーの格好をしていれば検札はないが、この路線は一般乗客も乗る路線バスでもあるため、リフトパスの提示を求められた。Dachstein Gletscherbahn谷駅は標高1700m、山頂駅は2700mで山頂はその名の通り氷河地帯である。スキー場はこれより下にあり、例によってTバーリフトが幅を利かせている。チェアーリフト(Sessel Lift)は確か1基のみで、滑り応えのあるのはこの部分のみと考えて良い。ダハシュタイン山頂(2996m)はカール状の広い谷に少々突き出たピークだが、むしろ山頂駅前の岩山が堂々としている。周りの景色も素晴らしかった。

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ダハシュタインロープウェイ 滑り応えのあるピステ
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頂上駅前の岩峰(K氏提供)

c)ザルツブルガー・シュポルツヴェルト

このような広大なスキー場ともなると幾つかの地域に分かれるのはやむを得ないが、地域指向が強まり、内部のアクセスは整備されるものの、境界へのバスは本数が少なくなる傾向がある。まして地域間をつなぐことは考えられていないようだ。団体の場合はチャーターバスで何処へでも行け能率的だが、個人の場合はどうしても制約を受ける。隣のザルツブルガー・シュポルツベルトに属するフラッハウ(Flachau)へは、やむを得ずタクシーを使い1日だけ遠征した。(往復3人で90 Euro、一人30 Euro)

東からFlachau(920m)-Griessenkareck(1991m)-Waglain(850m)-Sonntagskogel(1850m)-Alpendorf(800m)と連なる。Griessenkareck-Waglain間はリフトは無いが、距離も短く頻繁にスキーバスが通う。我々はAlpendorfで時間切れ、引き返さざるを得なかった。ここから先リフトの接続 は無いが、Grossarl(920m)まで行き、Kreuzkogel(2027m)を越えれば3年前に訪れたバート・ガ タイン地区の入口、ドルフ・ガスタインに達する。

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アルペンドルフへ 雪だるま

話はそれるが、付け加えるとフラッハウはヘルマン・マイヤーの故郷だそうだ。 注)ヘルマン・マイヤー:オーストリアのアルペンスキー選手。1972年生まれ、アルペンスキーのスーパースター。W杯では1998、2000、2001、2004シーズンの4回の総合チャンピオンに輝く。種目別では滑降2回、スーパー大回転5回、大回転3回のタイトルを獲得。W杯通算51勝。世界選手権では3個の金、2個の銀、1個の銅を獲得している。1998年の長野オリンピックでは、一日目の滑降でクラッシュして病院に運ばれた2日後に大回転で金メダルを獲得。さらにスーパー大回転でも金メダルを獲得した。あのアクシデントが無ければトニー・ザイラー、ジャン・クロード・キリーに続いて3人目のオリンピック三冠に輝いたのではないかと言われる。(当時と違って種目が増えたので直接比較は出来ないが)



4)ウィーン

ウィーンは10年ほど前に初めての観光旅行で3日ほど滞在した事がある。今回は無理をすれば次のブダペストへ直行することも出来たが、初めての東欧旅行なので慎重を期して1泊する計画を立てていた。・・・と言っても半日の束の間の観光、何をしようか迷ったが、空港でスキー関係の持ち物を預け身軽になってリムジンで市内に出、まず24時間フリーキップ(Netzkarte 24-Stunden)5Euroを購入した。ホテルへ向かったが、少々迷った末ついでに市立公園のヨハン・シュトラウス像を見た。ホテルから市電とケルントナー通り、シュテファンプラッツを歩いて、コールマルクト通りの「デメル」で15分ほど待って、「ザッハートルテとアインシュペンナー」を試した。(8.5 Euro) 新王宮を通り抜けそろそろ暗くなりかけたが食事には少々早く、と言って少し寒くなったので、美術史美術館前から市電2番(リング左周り)一周で時間を潰し、市立公園近くのハンガリー料理店で夕食を摂った。これまでハンガリー料理は何度も食べているが、さすがにこの専門店のグラーシュ・スープは一味違っていた。ついでにこの店のマスターにハンガリーの通貨事情に付いて相談した。翌朝忘れ物を引取に南駅に寄った後、ブダペスト行特急の始発駅ウィーン西駅まで市電に乗るなどフリーキップ(Netzkarte)を最大限に利用したあわただしい観光だった。付け加えると検札は一度もなかった。

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シュテファン寺院 ザッハートルテ/デメル ヨハン・シュトラウス像/市立公園




5)ハンガリー観光

今まで例年スキー場3ヵ所を目標に計画してきたが、少々負担に感じ始めたのか無意識の内に2ヵ所に減らし観光を思い立った。スキー場のアクセスの関係からオーストリア航空と決まりウィーンを通過することになって、近いブダペストが候補に登ったのだ。ショプロンはオーストリア国境に近く、帰路ウィーンでの余裕を確保出来ると思い決めた。ウィーン空港発が国際便としては午後1時40分と比較的早かったことにもよる。
ハンガリーでは歴史的・地理的な要因があると思うがドイツ語は比較的通じる。ドイツ語圏以外の国で一つ困るのは地図などで綴りは知っていても、発音が正しいかどうか自信がないので、地名を使う質問を躊躇してしまう事。その代わり相手も外国語なので一方的にまくし立てられない事である。

【ハンガリー豆知識】
ハンガリーはウラル山脈の方面から移住してきたマジャール族の国家。君主イシュトヴァーンT世が、西暦1000年にキリスト教への改宗を宣言し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国を建国した。バルカン半島はそもそもキリスト、イスラム教の政治、文化の接点で軍事的にも不安定な要素を有する。その後もモンゴル続いてオスマン・トルコ、18世紀始めにその力が減退するにつれ、ハプスブルグ家の支配を受けた。独立運動が台頭し、一旦は潰されたが、19世紀半ば諸般の事情により妥協が成立し、ハプスブルク家のもとに外交などを除いて別々の政府を持ち連合するオーストリア・ハンガリー帝国となり、その体制下資本主義経済が大いに発展した。「くさり橋」はこの頃建設され、ドナウ川を挟んで西側ブダ地区、東側ペスト地区が始めて結ばれた橋である。その後第一、第二次大戦、ソ連の占領を経て1989年一党独裁を放棄して平和裏に体制を転換、憲法を改正して国名をハンガリー共和国とし、ハンガリーの民主化が進められた。同年5月、ハンガリーは西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網「鉄のカーテン」を撤去し国境を開放した。これにより西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリーに殺到、汎ヨーロッパ・ピクニック(Paneuropaeisches Picknick)を引き起こし、ベルリンの壁崩壊−冷戦を終結させる大きな引き金となった。1999年に北大西洋条約機構 (NATO)に、2004年に欧州連合 (EU)に加盟した。通貨はフォリント。(1フォリント=約0.6円)ユーロ導入を目指しているが、大幅な財政赤字が削減できず2010年までという目標の達成は困難と見られている。
現在の歴史的建造物は大戦で多くの被害を受け、戦後修復、再建されたものが多いようだが、起源は主に19世紀半ばのオーストリア・ハンガリー帝国時代からのもの。
−主にフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による。

a)ブダペスト

ブダペストへは鉄道を利用した。ウィーン西駅からEC(Euro City)で約3時間、ブダペスト東駅(Budapest Keleti)に着いた。駅でまず両替。幾らにするか迷ったが、既に支払済みのホテル代を除いて、2日間の食事代、交通費、土産代(土産は主にこの始めての土地で買おうと決めていた)と余裕を含めて100Euroにした。次に市内交通のパスだが、ガイドブックで決めていた3日間のフリーパス(ツーリスト・チケット)を購入。価格は3100フォリントだった。持っていた現在のガイドブックには2500フォリントと書いてあったからインフレ進行度合の激しさが覗われる。一般の店でもEuroを有利に受け取る傾向は見られた。

ブタペスト市内交通の根幹を成す地下鉄は3系統あり、一番古いM1(Yellow Line)は1896年建国1000年を記念して作られた、ロンドンに続く2番目に古いものだそうである。この路線は他に比べ車両も一回り小さく、古さを感じた。ドナウ川を潜るM2(Red Line)は特に深い所を通っており(約180m)、東京でも最近出来た地下鉄は深いものが多いが、ホームに下りるエスカレーターの長さと速度(と騒音)は半端でなくびっくりした。おそらく速度は2倍を超えるのではないかと思われる程で、お年寄りなど乗るのに苦労するのでは? どの国でも同じだが、それでも駆け下りるせっかち者がいた。

翌日朝から丸一日ハンガリー観光で過ごした。国会議事堂−(M2)−モスクワ広場−王宮の丘(漁夫の塔、マーチャーシュ教会、王宮)−くさり橋−聖イシュトバン聖堂−(M1)−国立オペラ劇場−リスト音楽院−(M1)−セーチェニ温泉−英雄広場−(M1)−ヴァーツイ通り散策買物などした。()以外は徒歩。詳しくはガイドブックに譲るとして一連の写真を添える。

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国会議事堂 王宮 マーチャーシュ教会
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王宮より見たドナウ川とペスト地区

王宮の丘では大勢の日本人団体に遭遇した。観光地ではしばしば団体で行動する日本人を見掛けるが、個人で旅する日本人は滅多に見掛けないのはいつものこと。どこでもこのような光景なのは珍しくないが、マーチャーシュ教会は足場が組まれ修復中だった。くさり橋の名の由来は建造当初いわゆる「鎖」を使った吊り橋だったかどうか知らないが、現在の構造は写真に見るように長さ10m、厚さ数センチの鋼板を10枚づつ交互に重ね、ボルトでつないで長くしたものである。等間隔に照明用のライトが付いて、夜間点灯された様子が鎖のように見えるからと書いてある案内書もあった。正式には建設に尽力したセーチェニ伯爵の名を冠して「セーチェニのくさり橋」という。ブダペストにも幾つかの温泉がある、といっても温泉プールのようなもの。その一つ、市民公園内のセーチェニ温泉入口まで行ったが、時間がなく入るのは諦めた。この公園の入り口正面は建国1000年記念として造られた英雄広場で、マジャール族7人の部族長の騎馬像が飾られている。

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くさり橋構造 イシュトバン聖堂内部 セーチェニ温泉
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英雄広場 夜のくさり橋

私の泊まったホテルはくさり橋の1つ下流のエルジェーベト橋のたもとで、分かり易い所だった。高級品ショップ、レストラン、土産屋など並ぶ繁華街ヴァーツイ通りにも近い。外に出るのが面倒で夕食はホテルのレストランで摂ったが、ハンガリー音楽の生演奏付でハンガリー風ソースの鯉の料理は中々旨かった。この時カメラを持たず撮れなかったので、写真は翌日のビーフシチューのもの。

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ハンガリー音楽の生演奏 ハンガリー風シチュー

b)ショプロン

滞在3日目の朝、地下鉄M2で東駅に戻り、ショプロンに向かった。途中ジュール(Gyoer)までは往路を戻るのだが、そこから別の路線に入る。途中で検札があったが、料金不足を告げられ追加徴収された。ヨーロッパの殆どの国では特急料金は不要なのだが、ハンガリーでは有料なのを知らなかった。と言ってそれ程高額ではなく金額から考えて罰金でなかったことは確かだ。ガイドブックには厳しいように書いてあったが、見知らぬ国の異邦人と見てお目こぼしをしてくれたのではないかと思う。因みに往路ウィーンからは発時刻も確認し、切符を買ったので特急に乗るのは分かっていてその料金は当然含んでいたのだろうと思う。検札の他に税関の職員も乗り込んできてパスポートの提示も求められた。シーズンオフで車両はガラガラ。座席指定は無視して座っていたがその点は何も言われなかった。

中世都市ショプロンはオーストリア国境から約6Km、オスマン・トルコ軍の襲撃を逃れた数少ない町のひとつで、旧市街はゴシック様式の歴史的建造物が軒を連ね、中世の面影を今に伝える美しい街並みを残している。三位一体の像のある中央広場、これに面した3軒の館、火の見の塔、など小さいながらまとまった印象を受けた。城壁はごく一部が残されているだけだが、如何にも古びた様子の銃眼のついた半円形の砦があった。ローマ時代からのものらしい。裏通りの何気ない街並みの雰囲気が特に気に入った。

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三位一体像/中央広場 火の見の塔
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ローマ時代?の砦 裏通りの佇まい

【追記】 2009年8月
ショプロンはオーストリア国境に接する町で、本章冒頭【ハンガリー豆知識】で触れた「汎ヨーロッパピクニック」計画が1989年8月19日に行われた所。およそ1000人の東ドイツ人が国境を越え西側に逃れ、3ヶ月後の11月9日「ベルリンの壁崩壊」に繋がったという。

翌日予定の列車にかなり余裕を見たつもりでタクシーを呼んでもらいホテルを出た。ハンガリーの通貨を持ち帰っても役立たないので駅前のスーパーに飛び込んで全て土産に換え、これで今年の旅も終わったと「ホッと」していたのだが、それから一寸したトラブルがあった。駅の時刻表には確かに予定した列車が載っているのだが、その5,6番線のプラットホームへ行けない。2,3人に聞いたが言葉が通じない。駅員に聞いてやっと分かったのだが、この駅にはオーストリア国鉄が乗り入れていて、そのホームに行くには一旦外に出て、隣の建物からハンガリー、オーストリア両国の税関(と言ってもただの改札口のようなものだが)、専用の地下道を通らないと駄目なのだ。税関吏と親しげに挨拶している人々も居たからウィーンで働いているとか、仕事で頻繁に往復している人も多いのだろうと想像する。もちろんパスポートにスタンプを押してくれた。予備知識がなかった為、少々あわてたという事件だった。出発には十分間に合ったが・・・。
この辺一体は西のトカイと並ぶワインの産地でもあり、また秋田県/鹿角市と姉妹都市の協定を結んでいることを後で知った。



6)あとがき

ショプロンを出発1時間余でウィーン南駅着、南駅からリムジンで空港へ。まず預けたスキー関係の荷物を受け取った。(6Euro/個,日) チェックインを済ませるとやっと一息、今年の旅行の終りを実感した。

今年は日本と同様暖冬で雪は少なかったが、それでもスキーに支障を来たすようなことはなかった。それだけスキー場の多様性が高く、懐の深い対応が出来る体制が出来ている上、更に新たな投資も行われているのを感じた。

昨年と変わったのは手荷物検査。飲物を含めて液状のものがごく少量に制限される。私も乗り継ぎの際量が多いとの理由で未開封のミネラルウォーターを没収された。またスキーは別の窓口でX線検査が行われるようになった。

今年は出掛ける前から出発予定日の空便の欠航、旅途中での防寒コート置き忘れ事件などトラブルがあり何かと話題に事欠かない旅だったが、結果「オーライ」で安堵した。この顛末は次の章で詳しく述べる。

私もそろそろ年齢を考えるようになったのか特に意図した訳ではないが、今年はスキーを2週間に短縮し残りを観光に充てた。東欧に入ったのは初めてで、新たな刺激を受け楽しかった。体力を維持し、来シーズンも再度挑戦したいと意欲を新たにした。それにしても近年のEuroの高騰(円安)は痛い。特にオーストリアではユーロ切替時の実質的値上げとダブルで感じる。何処かで止まってくれないものか。



7)その他諸々

a)便の欠航とその補償

今年2月9日の航空券を予約したのが昨年11月2日、5日後に航空券現物が届けられ、手配は完了と思っていた。ところが1ヶ月以上経った12月15日になって、突然航空会社からその便の欠航の連絡があった。理由は「弊社機材運行スケジュール調整のため」と言う。その時既に旅行業者を通じホテルの手配も完了済で、その業者の取消手数料など若干の費用を要した。考えて見るとこちら側に何の落ち度もないのに何故この費用を負担しなければならないのか納得できず文書で抗議した。回答は「航空券の変更、払戻し以外の対応は免責される」と約款にあるとの事だった。同様な約款は他の航空会社も全てあるようだ。元々このような規定が許された背景は安全を最大限に確保するため、航空会社の運行に関する裁量を大きく認めたものだと想像するのだが、「機材運行スケジュール調整のため」と言う航空会社の一方的都合によるものまで免責されるのは納得できない。何処かに歯止めがあるべきだと今でも思っている。完全に航空会社都合でも運行の変更に依る損害は補償の対象にならないことを知っておいた方が良い。

出発当日のことだがチェックインカウンターの係員から「乗り継ぎ便は貨物室が小さいので、スキーのような運動用具は優先度が低いため載らない可能性もある。予め連絡があれば優先的に扱われる。」と言われた。今回自分のスキーが遅れた訳ではないのだが、帰ってからそのような事実があるか問い合わせた処、規定ではないがそのような連絡があれば有利に扱うとのニュアンスを得た。前もって自らスキー持参を通告をしておく方が良さそうだ。以上一般にあまり知られていない事と思うので参考に。

b)防寒コート置き忘れ事件

2月17日シュラートミングへの移動の途中だった。朝ゆっくりマイヤーホーフェンを立ちツィラータール鉄道でイェンバッハに出た。11時55分発のグラーツ行、OEC669に乗る予定だった。(【旅行経路図】の予定ルート参照)後で分かった事だが5分前にザルツブルグ経由ウィーン行きEC565の列車があり、これが少し遅れ気味で予定の時刻だったため確認せず乗ってしまった。この列車はドイツ領内を通過する(駅は無い)ウィーン行としてはメイン・ルートである。その日はいささか「ボー」としていて同行の友人K氏が「ザルツブルク城が見える」と騒ぎ出すまで気が付かなかった。あわててザルツブルクで降りた時に席のフックに掛けていた防寒コートをそのまま置き忘れたのだ。実際には降りた後数分停車しており、そんなにあわてる必要はなかった。その日は暖かくコートを着ていない事に気付くのが遅かったのも原因のひとつだった。駅のインフォルマチオンに飛び込んで助けを求めた。親切にも電話してくれたが、その日は土曜日で遺失物取扱所(Fund Buero)は休み、連絡先電話番号などを教えてもらったが出来るのはここまで。目的地シュラートミングへ向かった。三角形の二辺を遠回りした事になる。この時は本当にあわただしかったが、この時はK氏が同行していてサポートしてくれて助かった。

遺失物取扱所は土、日は休みなので月曜に向けて遺失物の詳細なMEMOをA4一枚にまとめた。−忘れた列車、座席番号など、コートの特徴とポケットに入れていた携帯電話、財布とその中身(現金、カード等)の詳細、及び遺失物取扱所電話番号、ウィーンである事は分かっていたので、受取に行ける日等々。ヒアリングに自信がないので、これをホテルのフロントスタッフに渡して電話してもらった。月曜は駄目だったが火曜日フロントに声を掛けられ、見付かったと告げられた。思わず "Gott sei Dank !" (やれやれ、しめた)と口を突いて出た。そのスタッフも"ニコッ"としてくれた。後日チェックアウトの際少々チップを弾んだ。

予定通りシュラートミング8泊後ザルツブルク経由、前に書いたようにウィーンで一泊した。都合の良いことに翌日は月曜日。早速連絡のあったウィーン南駅に駆けつけた。探すのに少々苦労したが、何人かに聞いて上階の片隅に遺失物取扱所を見付けた。係員に名前を告げただけであのコートを持ってきた。おそらく受け取りに行く日付まで書いておいたのが伝わっていたと思う。パスポートを見せ、クレジットカード番号の控えを提示、財布の中のカードと等しい事を証明し、手数料4Euroを払って一週間離ればなれに旅していたコートに再会した。海外で忘れ物をして回収出来たのは奇跡的だと思い大変嬉しかったが、何処の国でも良い人そうでない人もいるもの、その列車は西駅行だったのに南駅に届いたのは実は誰の手も触れずに車庫で回収されたのかも知れないが、人の善意を信じたい。ろくに探しもしないで外国人のせいにする日本人も多いのではないだろうか? 引き取りのためにロスした時間は1時間程度、ブダペストへの出発が多少遅れただけで旅行への影響が殆どなかったのは幸運だった。発見場所が遠い所なら諦めざるを得なかったかも知れない。財布は予備のもので、金は大半別に持ち、カードも代わりを持っていたので、旅行そのものにそれ程影響はなかったのだが、手に取った時の晴れ晴れとした気分は今でも忘れ難い。

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遺失物取扱所/ウィーン南駅

列車の確認をしなかったのがこの事件の要因であるが、確認の方法は幾つかあった。ECクラスの列車になると必ずデッキに列車名が表示されているし、予定した列車の停車駅とその時刻の載った詳しい資料はプリントアウトし持っていた。少なくとも隣のヴェルグルまでに気が付いて乗り換えれば、何事もなかったのだ。今後の反省点である。

c)ヨーロッパスキー事情

ヨーロッパのスキー場は相変わらず活気がある。人も多いし、設備投資もそれなりに行われているようだ。少し前に珍しかった8人乗りのチェアーリフトがそれ程でもなくなり、あの支索2本の「かたつむり」のような循環式ロープウェーも増えた。スキー人口も減っていないようだ。

日本のスキー場を振り返ってみるとこれからも厳しい時代が続き、淘汰も進むとは思うが、経営者自身が目先の利益ばかりにとらわれず、より大きな地域の連帯を目指し、利用者の利便性を考えないと将来は見えてこないと思う。(リフトパスの共通化、近隣スキー場との接続、無料バスの連絡など) 海外のスキー場が全て大資本の一つの会社で運営されているとは考え難く、ある程度妥協しても統合拡大する必要性を経営者自身が自覚しているのではないかと思う。観光立国オーストリアでは政府が介入し、現在の形を築いたと聞いている。

−以上−      

2007年4月12日  田中 あきひろ