1)2007年秋、旅行経路と日程

今回は会話クラスの友人3人と北ドイツとプラハを旅した。スキーとは関係ない純粋な観光旅行で、しばらくぶりのことである。今までドイツ語はスキー目的のためで、訪れたのは南部ミュンヘン止まり、ドイツの中心部に入ったことはなかった。 今回誘われてその気になったのはこのためだったかも知れない。

今回はハンブルク、リューベック、ベルリン、ポツダム、ライプチッヒ、ドレスデン、プラハ/チェコを訪れた。ヨーロッパでは観光名所というと王宮、教会。区別して思い出すのに苦労する程数多くあるが、それらを訪ねて毎日良く歩いたものである。その中で多少変わった体験といえば、始めのハンブルクでは仲間の一人の友人であるドイツ人、M氏の家にホームステイした事、ベルリンの壁探訪、ドレスデンでのドイツ人作家、エーリッヒ・ケストナー記念館での事、プラハではドボルザークのオペラ「ルサルカ」観劇などであるが、これ等は6章に纏めて触れる。その他、写真を中心に、主にその注釈の形で進める。

【旅行経路】

成田=アムステルダム=ハンブルク:3泊−ベルリン:3泊−ライプチッヒ:2泊(内1日ドレスデンへ)−プラハ/チェコ:3泊=アムステルダム=(機中泊)=成田    (=:航空機、−:鉄道)
10月17日出発、10月29日帰国、11泊+(機中1泊)/全13日間

2)ハンブルク、リューベック

a)ハンブルク

ハンザ同盟は、中世後期に北ドイツを中心にバルト海沿岸地域の貿易を独占し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した都市同盟である。"ハンザ (Hanse)"は古いドイツ語で"団体"を意味し、元々都市の間を交易してまわる商人の組合的団体のことを指した。リューベック、ハンブルク、ブレーメンなどはかつてのハンザ同盟の中心都市であった。これら都市が港町である事は何となく知っていたが、例えばハンブルクがエルベ川を河口から100Kmもさかのぼった場所にある事は今回始めて知った。川岸に立ち、目の前をかなり大きな船が行き来するのを見るとエルベ川が大河であることが体感出来る。水深も深く、また"しゅんせつ"に依って航路も維持されているのではないかと思う。市街中心からさほど遠くない所にアルスター湖があるが、これは人工の湖だそうだ。ハンブルク港の桟橋駅(Landungsbruecken)からバスで市内観光をした。市庁舎は19世紀に建てられた新ルネッサンス様式の豪華な建物。現在でも市庁舎として使われている。地階の食堂で昼食を摂った。

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エルベ川を航行する船 ハンブルク港桟橋
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アルスター湖 ハンブルク市庁舎

b)リューベック

この都はハンブルクの北東約50Kmに位置し、バルト海に面したハンザ同盟の盟主である。ハンザ同盟繁栄の当時リューネブルクの岩塩をおさえ、バルト海、北海で取れたニシンを塩漬け、輸出する事で財を成した。トラーヴェ川と運河に囲まれた旧市街は当時蓄積されたであろう遺産を継承した美しくも落ち着いた街並みを有し、ユネスコの世界遺産にも登録されている。  リューベック駅を出て川を渡ると、正面にホルステン門が見え、それをくぐると市庁舎に面したマルクト広場に出る。隣には聖マリエン教会、さらにドイツ近代文学史上に名を残すトーマス・マンの記念館−ブッデンブローク・ハウスがある。ただのレストランと思って見過ごしたのが後で調べるとまさにハンザ同盟の名残り「船主組合の家」であった。最後にペトリ教会を訪れたが、ここのステンドグラスは制作年代は不明ながら新しい感覚で気に入った。

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ホルステン門と塩倉庫 マルクト広場 トーマス・マン記念館
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聖マリエン教会 同左内部 ペトリ教会ステンドグラス


3)ベルリン(ポツダム)

第二次大戦後の冷戦の中、1961年8月13日午前0時、東ドイツ(Deutsche Demokratische Republik)は、東−西ベルリン間68の道すべてを閉鎖し、有刺鉄線による最初の「壁」の建設を開始した。東ドイツは当時、この壁は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであると主張していたがこれは名目で、実際は東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであった。これによってベルリンは東西ドイツに分けられ、西ベルリンは陸の孤島となった。ドイツに転機が訪れたのは四半世紀以上を経た1989年11月のことである。ソ連のゴルバチョフ大統領によるペレストロイカが発端になり、東ベルリン市民の民主化要求運動に発展し、11月9日ベルリンの壁はついに崩壊し、西ドイツが東を吸収する形でドイツ統一が実現された。

現在ベルリンはドイツの首都となり、経済的にも同化の努力が続けられているものの、未だに多くの点で問題解決に至っていない。統一直後の東側の状況は我々の読んだ映画 「グッドバイ・レーニン」の脚本にもうかがえる。興味を持っていたベルリンの壁の現在については後に廻し、この章ではそれ以外について触れる。ベルリンの観光名所は多過ぎて、私の力で体系的に纏めるのは困難なので単純に訪問順とした。

【1日目】
ホテルに荷物を預けた後夕刻から出掛けた。まず国立オペラ座から歩き夜のブランデンブルク門を探訪。途中で翌日夜のキンダー・オペラの切符を入手。

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国立オペラ座 夜のブランデンブルク門

【2日目】
郊外にあるシャルロッテンブルク宮殿(初代プロイセン王フリードリッヒ1世が妻ゾフィ・シャルロットのために建てた豪華なバロック様式の離宮)−ペルガモン博物館(紀元前2世紀頃小アジアで栄えたペルガモン王国及びメソポタミア南部、バビロニアの遺跡を移築した展示物で有名。石のレリーフ、彫像など多数。写真撮影は自由)−ベルリン大聖堂(以上博物館島にある)−テレビ塔(東ドイツ政府が国威発揚の為、建国20周年を記念して1965年から4年かけて建設した高さ 368mのテレビ塔)−ベルリン喜歌劇場で "Das Kind und der Zauberspuck"/ Maurice Ravel を観劇−カイザー・ヴィルヘルム記念教会(大戦の空爆で破壊された教会が記念としてそのまま保存され、新しい礼拝堂が隣に併設されている。新旧の対比が面白い。外からのぞき見た内部天井の装飾は豪華絢爛、予想外だった。勿論修復済と思う)

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シャルロッテンブルク宮殿 陶磁器の間

<ペルガモン博物館>

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ペルガモン博物館入口 ゼウスの大祭壇
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微細なモザイクタイル床 石棺 ライオン石像
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イシュタール門(バビロニア) 王妃ネフェルティティの胸像

<その他>

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ベルリン大聖堂 テレビ塔 カイザーヴィルヘルム記念教会

【3日目】
新宮殿、サンスーシ宮殿(月曜日休館で外部のみ見学、以上ポツダム−(ベルリンの壁巡り−6章)−ユダヤ博物館(入口はなんの変哲もないが、中に入ると迷路のような構造、暗い部屋、歪んだ床などユダヤの歴史を象徴?展示以外の造形な面白さがある)−ソニーセンター(ポツダム広場に近い商業施設、夕食)−ドイツ連邦議事堂(屋上に螺旋状の通路を持つガラス張りのドームがあり、360°ベルリンの街が望める。人気があるのか深夜まで行列が絶えない。入場の際の荷物検査は厳しく空港並み。議場は意外に小規模で明るく、近代的。演壇など低く、日本の国会議事堂に比し威圧感がないのを感じた)

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サンスーシ宮殿 新宮殿−以上ポツダム

<ユダヤ博物館>

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博物館入口 廊下
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展示室1 展示室2 階段・画学生多数スケッチ

<その他>

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ソニーセンター広場 連邦議会議事堂ドーム 同ドーム内部
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連邦議会議事堂(Reichstag)・議場

4)ライプチッヒ、ドレスデン

a)ライプチッヒ

当初予定はなかったのだが、希望したドレスデンのホテルが取れずライプチッヒに泊まることになり、そのためライプチッヒ観光の機会に恵まれることになった。その分、時間的にはドレスデンが犠牲になった。 1409年に開学したライプツィヒ大学はドイツ国内ではハイデルベルク大学に次いで2番目の歴史を持ち、文化面で大いに貢献してきた。バッハはここで人生の大半を過ごし、トーマス教会の楽長を勤めていたし、ゲーテは大学時代を過ごした。またシラー、メンデルスゾーン、シューマンなど文学、音楽の他、科学の面でも多くの逸材を輩出している。近いところでは東ドイツ時代末期の1989年「月曜デモ」と呼ばれる反体制運動が起き、旧東ドイツにおける民主化運動の拠点となった。 またライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は歌劇場付属ではないオーケストラとしては現存する最古のものであり、メンデルスゾーンやフルトヴェングラー、ブルーノ・ワルターらが常任指揮者を勤め、ブラームスが『ヴァイオリン協奏曲』の初演を行なったことでも知られる名門である。

見物を終えて帰りがけに東ドイツ時代に建設された日本で言うなら公団住宅ともいうべき、取壊し中の建物(Plattenbau)を発見した。「グッドバイ・レーニン」 注) にも出てきた懐かしいもので、思わずシャッターを切った。ライプチッヒ中央駅は駅舎が大変大きく、食料、日用雑貨から高級衣料、宝飾品に至るまで揃う立派な商店街を成していて、他にはない珍しいものだった。

 注) 2003年ドイツ映画。統一前後の東独社会を背景に、若き主人公「アレクサンダー」の目を通して、国家統一の軋轢を描いた作品。種々映画賞を受賞。

ライプツィヒ旧市庁舎−同広場朝市−トーマス教会(バッハの墓)−聖ニコライ教会−ゲーテ像−ブラッテンバウ(東ドイツの規格住宅)−ライプチッヒ中央駅舎内商店街

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旧市庁舎 同広場の朝市 柿は"Kaki"
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トーマス教会 教会内部 バッハの墓−教会内部
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聖ニコライ教会 ゲーテ像
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中央駅舎内商店街 東ドイツの規格住宅(Plattenbau)

b)ドレスデン

ドレスデンはエルベ川沿いの平地に開けた町である(前述ハンブルクの上流)。ドイツの東の端、チェコ共和国との国境近くに位置する。陶磁器の町として有名なマイセンとも近く、エルベ川を通じて交通がなされてきた。 ドレスデンは12世紀より代々のザクセン選帝侯の宮廷都市として栄えた。この城のアウグスト通り沿いの外壁には歴代君主たちを描いたおおよそ100メートルにわたる壁画「君主たちの行列」がほぼオリジナルの状態で現存している。1732年、フリードリヒ・アウグスト1世は、城から近い場所に自らの居城として後期バロック様式によるツヴィンガー宮殿を建立した。この宮殿はドレスデンを代表する建築物となっている。 第二次世界大戦末期徹底した爆撃に会い、市内中心部はほぼ灰燼に帰した(ドレスデン爆撃)。1990年の東西ドイツ統一後、歴史的建築物の再建計画が一層推進され、観光地としてますます注目されつつある。瓦礫の堆積のままの状態で放置されていた聖母教会(Frauenkirche)の再建には、世界中から182億円もの寄付が集まり、2005年10月に工事が完了。瓦礫から掘り出したオリジナルの部材をコンピューターを活用して可能な限り元の位置に組み込む作業は「ヨーロッパ最大のパズル」と評された。爆撃した英国空軍のパイロットの息子が聖母教会のためにドーム上の十字架を作り、寄贈したなどのエピソードが紹介され話題となった。2005年10月修復完了したこの建物は新しい名所となり人気が高い。 我々が訪れた時、内部は人で溢れ教会とも思えぬ賑やかさだった。圧倒されうっかり内部写真を撮り忘れた。

オペラ座、通称ゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)は新古典主義建築の代表作としても知られ、オペラ座のオーケストラであるシュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)は最古のオーケストラとして知られている。 ザクセン侯の美術コレクションは現在ツヴィンガー宮殿の一角を占めるドレスデン美術館、アルテ・マイスター(Alte Meister)などに展示されている。アルテ・マイスターのコレクションの中にはラファエロの「システィーナの聖母」(1513−4年)が含まれる。その他レンブラント、ルーベンス、ボティチェリ、ブリューゲルなどヨーロッパを代表する画家たちの膨大な数の作品が公開されている。この美術館はヨーロッパでも重要なコレクションを有する施設の一つといってよい。

(E・ケストナー記念館、6章へ)−君主たちの行列−ドレスデン国立歌劇場−フラウエン教会−ツヴィンガー宮殿

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君主たちの行列 ドレスデン国立歌劇場
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ツヴィンガー宮殿入口 宮殿中庭 フラウエン教会

5)プラハ/チェコ共和国

プラハ(チェコ語,スロヴァキア語:Praha)はチェコ共和国の首都、同国最大の都市である。人口は、約120万人。 ドイツ語では プラーク (Prag) 。英語ではプラーグ (Prague)と呼ばれる。オーストリアの北方にあり、ドイツ、ポーランド、スロバキアの4カ国と国境を接している。市内中心部をヴルタヴァ川(ドイツ語名モルダウ)が流れ、古い町並み・歴史的建物が数多く残る街である。地理的関係からもしばしば周辺大国からの干渉を受け、繁栄の時期もあったが、不安定な歴史を繰り返してきた。18世紀末、フランス革命やドイツ・ロマン主義に影響を受けた知識人らによって再び民族独立の動きが強まる。1848年にプラハ市民によるオーストリアに対する蜂起が起こり、これは失敗したが、第一次世界大戦終結後の1918年になってようやくオーストリア・ハンガリー帝国は解体し、チェコスロヴァキア共和国が成立するとプラハ城に大統領府が置かれ首都となった。しかし1938年、ナチス・ドイツによって占領され、チェコスロヴァキアは解体されてしまった。第二次世界大戦中、ここに居住していたユダヤ人約5万人がナチスによって殺害された。しかしプラハの街は大規模な戦火に曝されることはなく、古い町並み、建物を数多く残している。

第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ワルシャワ条約機構軍の侵攻を受け、改革派は弾圧された。しかし1989年の革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロヴァキアが分離するとチェコの首都となった。耳新しいところでは2002年にドイツ東部からチェコを襲った水害でヴルタヴァ川が氾濫し、広範囲で床上浸水、市の地下鉄が数ヶ月に渡って停止するなどの大きな被害を受けた。
今年2月訪れたウイーン、ブダペストへも直行列車がある。通貨はコルナ(1コルナ:約6Yen)。

【1日目】
カレル橋(ヴルダバ川に架かる14世紀建設のプラハ最古の橋で有名な観光名所。両側の欄干に30体の聖人像が並ぶ。車両通行禁止で土産物の露店や似顔絵描き、ストリートパフォーマーが見かけられる)−ヴァーツラフ広場−国立オペラ劇場(翌日のオペラの切符購入)

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モルダウ川・カレル橋
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カレル橋上 バーツラフ広場

【2日目】
プラハ城(聖ヴィート大聖堂、聖イジー教会、黄金小路[昔の使用人の住居、今は土産店]など)−(国立オペラ劇場−歌劇「ルサルカ」/ドボルザーク観劇 −6章へ)

<プラハ城>

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ヴィート大聖堂入口 木彫・17世紀のプラハ ステンドグラス/ムハ作
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聖イジー教会 黄金小路 衛兵の交代

【3日目】
国立博物館−芸術家の家(チェコ・フィル本拠)−ユダヤ人街−旧市街広場(天文時計、旧市庁舎、昼食、聖ミクラーシュ教会、ティーン教会)−火薬塔(ツェレトナー通り端)−(買い物−ボヘミアングラス、土産)

    注)表紙写真はこの火薬塔頂上からみたブラハの街です。

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国立博物館 芸術家の家・チェコフィル本拠 ユダヤ人墓地
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儀式の家 旧市街広場・ティーン教会 同ミクラーシュ教会
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旧市庁舎塔 天文時計 火薬塔

6)心に残ること

a)ドイツ人家庭ホームステイ

今回の旅のスタート、ハンブルクでは旅仲間の一人の友人、Mさんの家に3晩厄介になった。Mさんはハンブルク在住時の隣人でもある。つまり彼はMさんの前の家に住んでいたのだ。ドイツへの旅行を決めた時、彼を通じて我々も招待された。申し訳ないので始めは辞退していたのだが、どうしてもということで最終的に受けることになった。Mさんはチュニジアの出身で現役のシェフ、泊まるだけでなく朝夕の料理まで作ってもらった。お返しに日本の新米を持っていったので一度朝飯を炊いた。ドイツ式の電気ヒーターのコンロで火加減に慣れず少々"おこげ"が出来たが、まあまあの出来だったと思う。Mさんはその日早く出掛けたので炊きたてを味わってもらえなかったが、我々が帰る前に味見したようだ。奥さんは母の面倒見で実家に帰っていて会えなかったが、小学校の先生だとのこと。丁度2学期制の秋休みの時期だったらしい。お金は受け取らないだろうとの話で、皆で手分けして日本酒、乾物など土産に持っていったが、私は日本の折り紙の本(英訳付き)を折り紙を付けて進呈した。折り紙のことはMさんも知っていて小学校の先生である奥さんも興味があると話していた。
今回Mさんにはすっかりお世話になった。

b)ベルリンの壁を訪ねて(アンペル・マン)

"壁"の跡を一度訪ねたいと前々から思っていた。「ベルリンの壁」の歴史については前に述べたが、四半世紀を超える冷戦の時代を経て、ドイツ統一が成されたのは考えてみるとたった18年前のことである。

ベルリンの壁探訪を"東駅"(Ostbahnhof−東独の元中央駅)から始めた。シュブレー川を渡り、現在壁はほとんど撤去されて無いが、地図に記された線に沿ってほぼチェックポイント・チャーリーまでひたすら歩いた。すべての部分がそうではないだろうが、この辺りは緩衝地帯を持つ本格的な壁になっていたと思われる広く、浅い溝状の地形が残っていた。

チェックポイント・チャーリーは壁を通過するための幾つかの検問所の一つ。外国人(ドイツ人以外)専用ゲートで、チャーリーは検問所「C」を指す。写真の米・ソの兵士は観光用。チップで観光客との記念撮影に応じてくれる。 ベルリンの壁博物館はチェックポイント・チャーリーのすぐそばにある。壁にまつわるエピソード、封鎖当時の市内の様子や、東側から逃れてきた時のいろいろなルートや手段、上手く壁を通過することのできた人たちの話、反対に失敗し殺された人々の話、また実際に利用された車や気球なども展示されている。狭い館内に人が溢れ、写真も取り難い状況だった。前に写真を載せたが、ブランデンブルク門も東西ドイツの境界上にあった事で知られている。

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壁の跡 チェックポイント・チャーリー 脱走に使った車
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隠れていたフロント部 壁の基本ブロック 壁(背後)とその歴史展示

(アンペルマン)

旧東独地区信号

なお今でも旧東ドイツ地区の信号は西ドイツのものと異なる。統一後、西ドイツ式に統一しようとしたらしいが、デザインに親しんでいた市民が「アンペルマンを救え」という市民運動を起こし、残されることになった。今でも可愛らしいと、特に若者に人気がある。 "アンペルマン"とか"アンペルメンヒェン"と呼ばれている。(アンペルは信号、メンヒェンは男の子を指す)

c)エーリッヒ・ケストナーのこと

エーリッヒ・ケストナー(1899−1974)は「エミールと探偵たち」「点子ちゃんとアントン」「二人のロッテ」などで知られるドイツの詩人・作家。ドレスデン生まれで、体制に批判的ながら、ナチスの時代を辛うじて生き抜いた。戦後は初代西ドイツペンクラブ会長としてドイツ文壇の中心的人物になった。現在ノイシュタットのアルバート広場に、裕福であった叔父の家を改装した記念館がある。ケストナーの作品は多少読んでいて興味があり、この訪問は初めからの予定で、ドレスデン観光の手始めにこの記念館を訪れた。たまたま記念館に研修に来ている日本人(女性)に出遇い、日本語で説明を受け、話し合えたのは幸運だった。 記念館の塀には腰掛けている様な形で若き日のケストナーのブロンズ像があるが、どう見てもドイツの軍隊生活に馴染めそうもない繊細さを感じた。この辺から当時の体制を生理的に受け付けない気質が醸成されていったのではないかと私は推測する。当局に目を付けられながらもどうにか切り抜けられた理由として、国内では数々の作品が発禁にされていたにもかかわらず「既に当時から海外で知られていて外貨獲得を無視出来なかったのでは」と説明した。自分の本が「焚書」にあう公開の現場に出向き、顔を知る婦人に騒がれ、あわてて逃げ出したエピソードも話してくれた。「ユダヤの血を受けているのでは?」と質問したら「両親はドイツ人だが、近くのユダヤ人の医師との間の子という説もある。」と口ごもりながらも言っていたのが印象的だった。この件については当局も未だ確認していなかったのではないだろうか。

2007年版、2)ツィラータールの所で書いたエピソード、第二次大戦末期"ナチ"に目を付けられているのを周りの仲間が心配し、映画を撮るという触れこみでここ"マイヤーホーフェン"に連れてきて、空の撮影機を回したという逸話も確認出来た。展示場はそれ程広くない一室のみで、資料はテーマ別の各ブロックの引き出しに収納されている。これはこの建物の設計者の発案に依るものだそうである。日本語の訳本も何冊かあった。この日朝着いた時は開館前だったので Koenigsbruecker Strasse 66 番地の生家も訪ねた。

【ケストナーに関する参考文献】  −「岡部由紀子のホームページ」


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ケストナー像 展示室 生家・最上階屋根裏部屋

d)オペラ「ルサルカ」観劇

ドボルザークの作品にオペラがあることは知らなかった。チェコ語というハンディがある上、台本自体が優れたものでなかったせいもあって、国際的に高い評価を得て上演が繰り返されているのは第10作の「ルサルカ」だけで、他の作品の上演を目にすることは極めてまれであるようだ。たまたまITで検索時、プラハ滞在中に公演があることを知り予定していた。前日聞いて見るとまだ空席があり、作曲者ゆかりの地での観劇も一興と考え購入した。(最上席で、1100コルナ、約7千円)

【ルサルカ (Rusalka) 作品114, B.203 】3幕。ヤロスラフ・クヴァピルの台本により1900年4月から11月に作曲され、1901年3月31日にプラハ国民劇場で初演された。第1幕でルサルカが歌う「月への祈り」は単独で歌われることも多い美しいアリアである。

【あらすじ】
ルサルカは、森の奥にある湖に住む水の精。ある日人間の王子に恋をし、魔法使いイェジババに人間の姿に変えてもらう。ただし、人間の姿の間はしゃべれないこと、恋人が裏切った時にはその男とともに水底に沈む、というのがその条件であった。美しい娘になったルサルカを見た王子は彼女を城に連れて帰り、結婚する。しかしその祝宴でも口をきかないルサルカを冷たい女だと不満に思った王子は、祝宴にやってきた外国の王女に心を移してしまう。祝宴の中、居場所をなくしたルサルカが庭へ出ると、水の精によって池の中に連れ込まれてしまう。王子は恐怖のあまり王女に助けを求めるが王女は逃げ去る。森の湖へ移されたルサルカに魔法使いは元の姿に戻すには裏切った男の血が必要だと語り、ナイフを渡す。ルサルカは王子を殺すことはできないとナイフを捨ててしまう。ルサルカを探して王子が湖にやってくる。そこで彼は妖精達から自分の罪を聞かされ、絶望的にルサルカを呼ぶ。王子はルサルカに抱擁と口づけを求める。それは王子に死をもたらすのだとルサルカは拒むが、王子は「この口づけこそ喜び、幸いのうちに私は死ぬ」と答える。ルサルカはもはや逆らうことをやめ、王子を抱いて口づけ、暗い水底へと沈んでゆく。

始めて観るオペラで比較のしようがないが、幕開け時など紗のカーテンをスクリーンに映像を映し、その背景で演技する演出はおそらく珍しいものではないかと思う。幻想的な雰囲気が効果的に表現され楽しめた。歌手、指揮者、オーケストラなどほとんど地元の人だったようだ。劇場はそれ程大きくはないが、桟敷に囲まれたオペラ専用の劇場で、平土間中央での鑑賞は滅多にない経験だった。

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プラハ国立オペラ劇場 劇場内部

7)あとがき

今回の旅を振り返ってみると最も印象に残っているのは月並みながらベルリン博物館島の「ペルガモン博物館」である。ペルガモンの「ゼウスの大祭壇」、バビロニアの「イシュタル門」をそっくり移築した壮大さにももちろん感嘆するが、その他の収蔵品も大小にかかわらず、紀元前の遠い夢の世界に誘ってくれる。自由に写真が撮れるのもありがたい。その点宮殿の類は入場料が高く、撮影禁止の所が多い。大抵宮殿というのはどれも似通っていて、ゴテゴテの彫刻の飾りに、金ぴかの彩色、中国の陶磁器と決まっている。人は金と権力を持つと似通った好みを持つようになるのだろうか?

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アイス・バイン

ある日ポツダム広場に近いソニーセンターの中の"リンデンブロイ"というレストランで夕食を摂った。メニューを見ている内にその気になり、アイス・バイン(Eisbein)を注文した。この料理は骨付きの豚のすね肉を塩ゆでしたもので、ドイツの代表的料理であることは知識として知っていたが、食べたのは多分始めてだと思う。付け合わせもジャガイモにザウワークラウト(キャベツの酢付け)と来れば、これぞ「theドイツ料理」である。長時間茹でるためか皮までトロトロ、油は抜けゼラチン状になっていて思った程しつこくはないが、量が多くさすがに閉口した。(写真は皮を食べ始めてから気づき、整形して撮ったので本当は表面がツヤツヤしている)止せばよいのに"アイス"繋がりでアイスクリームも注文したが、手が出ず仲間に助けてもらった。"バイン"は"すね"のことであるが、何故アイス(氷)が付くのか辞書で調べたら「昔残った骨をスケートの歯に使ったことから来ている」と書いてあった。

今回、このホームページの主旨から外れた旅行記を載せるのはどうかと悩んだが、ヨーロッパを別の面から紹介するのも許されると考えた。スキーを目的でアクセスした方はパスしていただきたい。もっともこれ迄もスキーの行き帰りに必ず通過する都会を紹介することもあったので、その延長と考えていただければ幸いである。
今回の同行者は永い間、東を含むヨーロッパ各国を飛び回ったメーカーの営業の方、日本人学校の先生としてハンブルクに暮らしていた方がいて、いろいろな面で助けてもらい、楽しい旅行が出来た。最後に改めて感謝を申し添えたい。

−以上−      

2007年11月23日  田中 あきひろ