1)2008年、旅行経路と日程

今回はここ数年一部行動を共にした友人の事情で、単独行動をせざるを得なくなった。また私自身もあまり準備に時間を割けない事情があって、第1週は旅行社のツアーに参加することにした。その中でこれまで気になっていたが、単独では行きにくいフランスで残る大スキー場、バルトランスに決めた。次週のアオスタ(イタリア)は この旅行社の薦めで近くで探したものである。後に触れるがスキー場の規模は小さいが、ローマ時代からの遺跡も残る歴史のある街で観光も楽しめた。ついでにミラノでスキー用具を預け、フィレンツェを観光を済ませミラノに戻り、マルペンサ空港からチューリッヒ経由で帰国した。

【今年の旅行経路】

成田=チューリッヒ=ジュネーブ−(バス)−バルトランス(7泊)−(バス)−ムーチェ−(鉄道,シャンベリー、モダーネ、トリノ・ポルタ・スーザ経由)−アオスタ(7泊、クールマイユールを含む)−(鉄道,ミラノ経由)−フィレンツェ(4泊>、ピサ観光を含む)−(鉄道)−ミラノ(1泊)=チューリッヒ=成田
(=:航空機、−:鉄道ほか)
19泊(+機中1泊)、2月16日出発、3月7日帰国/全21日間)


2)トロアバレー/フランス

これまでフランスのスキー場は2001年のバルディゼール、2006年のシャモニー、今回は3度目である。フランスは中々足が向かずにいたが、どうせツアーに参加するならという事で今年は残る有名な大スキー場トロアバレーを選んだ。その「三つの谷」の名の通り、バルトランス、メリベル、クーシュベルなど一帯を指す名称であるが、この内のバルトランスに一週間滞在した。殆ど場所の見当の付かない方の為にこのスキー場を説明すると、レマン湖の西端に位置するジュネーブから直線距離で南に100Km余、イタリア国境に近いバルディゼールからは35Km程西にある。北東に向かってメリベル、クーシュベルがリフトで繋がっていて、ヨーロッパアルプスの最高峰モンブラン (4807m) の方向へ近付いて行く。このスキー場を紹介するに当たり従来方法ではうまく行かない点に気付き、暫く筆が止まってしまった。 その理由はまず第一に規模の大きさである。
(概要:リフト・ゴンドラ数 200基 コース総延長距離 600km 最大標高差 2000m)

これに加え更に周辺のラ・プラーニュ−ベルコット山まで足を伸ばし、たった1週間の期間で当然多くの部分を滑り残し、しかもガイドに伴われての主体性に欠ける移動であり、更に各々の谷が複雑に結ばれているのも加わり、何処を滑ったのか辿れない原因となっている。後で写真を見て地図とリンクできた場所はごく限られ、写真の説明文に苦労した。従って誤りがあるかも知れず、また自信がないので原語のまま綴った地名もあるが容赦願いたい。フランス語が発音出来ないので、従って地名を覚えにくいというのもその大きな一因と思う。 ゲレンデも変化に富み後で思い出して見てももう一度滑りたいピステも多々あり、無我夢中で滑っていた事を思い出す。自分の足で意識して行動できるには少なくとも2,3度は足を運ぶようだと感じたが、これは今までに無い経験だ。規模と言い、面白さと言い今までの経験の中でも最右翼と思うが、それ程有名でない理由は、ツェルマットに於けるマッターホルン、シャモニーに於けるモンブランの様な特徴ある山(背景)の存在に欠ける為ではないかと私は想像する。

a)バルトランス

【リフト地図】

ホームページ巻頭に使用した氷河の写真はここからロープウェーとリフトで登った所にある。ここに登る最後のリフト直下にはこの辺一帯が過去に氷河であったことを示す筋状の痕跡が岩肌に刻まれていた。
バルトランスの街は初めからスキー場として生まれた街の為か、ゲレンデの直ぐ脇にホテルがあり、いわゆるスキーイン・アウトが出来るホテルが多い。街の様子を2,3挙げる。

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岩肌に残る氷河の痕跡 氷河下のゲレンデ バラグライダー

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ホテル群 街の様子

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Fruit峰、メリベルとの稜線より

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雲のバロン峰より 雲のバロン峰より−別の日の同一場所

b)メリベル、クーシュベルほか

バルトランス以外の地域では街の様子を含め、思い付くまま主に写真の注釈の形で進める。メリベルでは訪れた時たまたま市が立っていて、ハム・ソーセージ、衣類、菓子類などの店が出ていた。ほかのスキー場でも見かけるが、こんな所で一休みするのは楽しい。  クーシュベルにはスキー場としては珍しくセスナなど小型機の飛行場があった。滑走路が傾斜していて発着の方向が決められ、離着陸距離が短縮されるよう配慮されている。付近には見るからに金持ちの所有らしい別荘が見受けられた

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ボンボン売り ハム、ソーセージ売り この辺で最も古いリフト

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空飛ぶ鷹? クーシュベル飛行場 別荘

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クーシュベルリフト麓駅

クーシュベルを超えタクシーも使って、最奥は プラーニュの Bellcotte山 3417m 直下まで足を伸ばしたが、モンブランが段々大きく、近づくのが体感出来た。この時の写真は次の週アオスタからバスでクールマイユールのスキー場に出掛けた時の目前のモンブランの写真と一緒に対比して後で載せる。

スキーで行動していてしばしば感じるのだが、人が自力で山々を移動する手段として、スキーは他に比べ行動範囲が桁違いに広いように思う。(厳密にはリフトを使っての話なので自力とは言い難いが・・・)


3)アオスタ/イタリア

バルトランス7泊後、麓の駅ムーティエでジュネーブに戻るツアー一行と別れ、列車で次の宿泊地アオスタへ向かった。このルートは地図で調べると大分大廻りだったようだ、2年前に訪れたので、シャモニーからモンブラン・トンネルを越えクールマイユール経由アオスタへは路線バスが通い、最短のルートだと想像出来たが、バルトランス−シャモニー間の交通手段が分からず、また調べようがなかったのだ。何しろヨーロッバ・アルプスを横断するのだからそれ程自由度がないことは確かだ。

朝5時頃バルトランスを出て、1時間後には着いていたのでムーティエでは充分過ぎる位の時間があった。ところがムーティエでは定刻過ぎても予定の列車が到着せず、結局出発が20分位遅れた。駅の放送は何度かあったのだがフランス語で全く分からずあせるばかり。乗り換えのシャンベリーでもそのままの遅れで到着。ホームがごった返すなか、不安は最高潮に達した。駅員をやっと探し、イタリア国境との町モダーヌ行きのホームを聞き出してどうにか予定の列車に乗ったのは発車数分前だった。アルプス越えのルートとしてはそれ程ポヒュラーではないのか、これを逃すと何時間も待たねばならないのが分かっていたのでひどくあせった。モダーヌでは充分の待ち時間があって、座席指定のTGVでトリノ・ポルタ・スーザ、支線に乗り換えアオスタに着いた。7時間弱、距離の割には長い旅だった。予約したホテルは駅から数キロ離れていたがバスの便があった。ここはイタリアではあるが、歴史的背景(下記)からフランス語を話す人々も多いとのこと。因みにホテルの前のバス停の名はクア・ノアール(Croix Noire)とまさにフランス語そのものだった。モダーヌ−トリノ間TGVの路線は3年前、2005年にセストリエールに出掛けた時バスで通った経路で、時期的にも春霞たなびく光景はそのままだった。サン・ミケーレ修道院を思い出した。(2005年版参照)フランスではプラットホームが1,2,・・番線でなく、A,B,・・番線ということを始めて知った。

【アオスタの歴史】
この辺一帯は古代にはケルト人が定住し一時は古代ローマ共和国を脅かしたが、その後征服されローマ共和国の版図に入った。中世から近世は、イタリアの貴族サヴォイア家によって支配された。サヴォイア家はかつてイタリアのピエモンテ(州都:トリノ)とフランス及びスイスフランス語圏にまたがる地帯のサヴォイアを支配していた辺境伯貴族の家系。19世紀半ばイタリア統一運動時に核となり、1861年統一後はイタリア王家となる。イタリア統一前は、フランスの影響を強く受けたこともあり、住民にはフランス語を第二言語とするものも多い。イタリア統一時の首都は短期間ではあるがトリノ、その後首都はフィレンツェ,ローマへと移った。−wikipedia(今回旅行の経路は一部サヴォイア家の足跡と重なることに気付いた)

a)ピラスキー場

【リフト地図】

ピラスキー場のリフトの麓駅はアオスタ駅の裏側、それ程遠くないのだが裏側への連絡通路が分からなかった。たまたまホテルはスキーバスの経路になっていたが一日一往復、帰りは時間が合わず利用出来なかった。車でのスキーヤーが殆どを占める。もちろんリフト数15本程度の小さなローカルスキー場で、1日もあれば一廻り出来る程度の規模である。

初めのロープウェーは中間駅が2つもある結構長いものだが、既に春の気配で雪が少なく途中の乗り降りは皆無、輸送専用となっていた。図の頂上Platta de Grevon付近の上級(黒)コース3つはオフピステだが、雪が全く降らず堅いバーンになっていた。No.2のピステは中級コースだが結構長く、快適に滑ることが出来気持ち良かった

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ピラスキー場最高点から (2752m)

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ピラスキー場入口 ゲレンデ

b)クールマイユール

【リフト地図】

この地は2年前、2006年のシャモニーの時モンブラントンネルを通って来たことのあるスキー場で、今回は反対側からの訪問である。アオスタ駅前バスターミナルから出る路線バスで所要時間約1時間、バス停からはDOLONNE、モンブラントンネル入口手前のENTREVESまで無料のスキーバスが定期的に通っている。

何と言ってもこのスキー場の目玉はモンブラン(伊語でモンテビアンコ)−グランドジョラスの稜線が眼前に迫る光景である。予告したようにベルコット山付近からのものと、ここのパノラマ写真を対比して載せる。この時はかなり温かく下の方は相当弛んだ雪だったが、No.24の上級ゲレンデは北に面しているせいか雪質も良く繰り返し滑った。

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モンブラン−グランドジョラス、クールマイユールより プラーニュより

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山頂鞍部 Kresta Youla バス停(インフォメーション) ゲレンデ

c)市内観光

3)項冒頭の注)の所で触れたようにここアオスタはローマ時代、紀元前頃から開けた都市で、アルプス越え(グラン・サン・ベルナール峠)の交通の要衝であり、当時の遺跡をはじめ観光資源が残る。地図は省略するが駅の北側ほぼ矩形の旧市街の中央に市庁舎(インフォルマチィオンもある)。その前の広場を中心にまず東の城門にあたるブレトリア門、直ぐ北に円形劇場跡。更に東にアウグストス帝の凱旋門、西に大聖堂、考古学博物館などあるが、いずれにせよ徒歩で十分廻れる大きさで、歴史を感じる落ち着いた街並である。

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市庁舎と広場 プレトリア門 アウグストス帝の凱旋門

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円形劇場舞台・客席 観覧スタンド 展示パネル

注)スタンドは鉄骨の構築物で覆われて元のイメージが浮かびにくいので、内部に展示されていたパネル写真を付す。構築物は補修用の足場ではなく、がっちり補強された恒久的なもののように思えた。

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大聖堂 大聖堂内部 街の広場 注)

注)この広場を載せたのは、背景に高い山が忽然とそびえる光景がインスブルックの街並を思い出させたから。

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火、金曜?の定期市 注)1. 路上パフォーマンス 注)2.

注)1.  大型トラックからテントが張り出せるように改造された特殊な車を使っていた。このような市を定期的に渡り歩いている?
注)2.  眉一つ動かさない


4)イタリア観光

a)フィレンツェ

考えてみるとここ数年スキーに当てる比率が少なくなっている。3週間フルのスキーが重荷になった事だけでなく、新しいヨーロッパのスキー場を探すのは段々難しくなったからであり、その分観光の比率が増した。特に今年は事情があり準備に時間が取れなかった為、ツアー参加を余儀なくされ益々選択の範囲が狭まった。2度目ではあるがイタリアを訪れ、そのまま帰国するのは如何にも勿体ないので、日程などを考慮し観光はフィレンツェにした。

アオスタからキバッソChivassoで乗り換えミラノ。ミラノから帰国するのでここで1時間程余裕を取り、駅でスキーとスキー関係荷物を預け軽い食事をした。ミラノ−フィレンツェ間はユーロスターを使用した。(アオスタ 8:44発、16:44 フィレンツェ着:8時間)

【フィレンツェの歴史】
フィレンツェは14世紀には既に毛織物業を中心とする製造業で莫大な富を蓄積し、トスカーナの中心都市となっていた。メディチ家は銀行家として力を蓄え、1434年コジモ・デ・メディチがフィレンツェ共和国の支配者となり、学問、芸術の保護に努めた。彼の死後その子ピエロに継がれ、孫のロレンツォの時代にフィレンツェはルネサンス芸術の中心として黄金時代を迎えた。建築、絵画、彫刻におけるルネサンス芸術は、15世紀を通して大きく開花し、サンドロ・ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地となり、学問、芸術は隆盛を極めた。

街の中心はまずドゥオーモ広場。大聖堂、洗礼堂が圧倒的な迫力で迫る。白、赤、緑の大理石が精緻なモザイク模様の装飾となっている。大聖堂は1296年から172年という途方もない歳月を掛けて完成されたとの事である。その割に内部は簡素だった。八角形の洗礼堂も外部装飾は似ている。3っの入口の扉はブロンズ製で、この内金色に輝く大聖堂正面向きのものは建設当時のものではなく、名は忘れたが何とかいう日本人が精密な鋳造技術を駆使して模写したものだそうだ。これは日本人団体のガイドの盗み聞きだが、この様な超有名な観光地では日本人団体が次々と訪れ、知らぬふりをしてガイドの解説を聞くチャンスがしばしばある。そのほか85mの高さを持つジョット設計の鐘楼がある。大聖堂とほぼ同時に着工し本体より大夫早く完成したという。

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ドゥオーモ広場(洗礼堂) 大聖堂

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大聖堂内部 洗礼堂の扉 ジョットの鐘楼

大聖堂の丸天井(クーポラ)展望台に階段で登ることが出来(463段、入場料:6ユーロ)フィレンツェの街が360゜一望の元に見渡せ、一見の価値がある。同様にジョットの鐘楼もほぼ同じ高さまで登れるが、街を見るなら遮る物の無いクーポラがお薦め。途中ドーモ内部から見上げる丸天井が間近に見える場所がある。ここから先は下りの人と同じ階段を使うのだが、狭く交差が困難で所々で待つ必要があり、混んでいる時は時間が掛かる。

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大聖堂展望台からの眺望

フィレンツェ観光のもう一つの目玉がウフィツィ美術館である。ドーモ広場の南400m シニョリーア広場の一角、ヴェッキオ宮とアルノ川に挟まれた場所にある。サンドロ・ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどルネサンスを代表する絵画を中心に数多くの作品が年代、会派毎に分かれ、分かり易く展示されていた。私は美術関係は殆ど知らないが、「春」や「ヴィーナスの誕生」/ボッティチェッリ、「ウルビーノのヴィーナス」/ティツィアーノなど本物の凄さみたいなものを感じ感慨深かった。

観光シーズンは予約にも時間が掛かるそうだが、この時期予約無しで、開場と同時に並んで30分程で入場できた。手荷物検査がある。入場料:6.5ユーロ、オーディオガイド:5.5ユーロ(バスポート要)、内部は撮影出来ず写真は無い。

話は違うがウフィッツィ美術館のそばにアルノ川を渡るベッキオ橋がある。私の勉強したイタリア語のテキストにも載っていた位なので、イタリアでも有名な橋だと思うのだが、貴金属宝飾店が橋の上に並ぶ以外、見たところそれ程特徴があるとも、美しいとも思わない。これが何故有名なのか疑問に思っていたが、ウフィツィ美術館の廊下の窓からこの橋を見て疑問が解けた。橋の上だけでなくウフィツィ美術館から回廊が橋を越え、対岸の丘の上の方へ繋がっていた。調べたところこれはヴァザーリの回廊と言い、メディチ家の一族が市内を安全に通行できるようにと、自宅(現在のヴィッティ宮)と仕事場である執政所(今のウフィツィ美術館)を直接繋ぐためのメディチ家の人々専用の私的通路だった。この回廊の長さは約1kmあり、現在予約をとれば見学が可能だそうだ。回廊には多数の肖像画が展示されているとのこと。そう言えば比較的最近BS放送でこの回廊が紹介されたのを思い出した。1500年代後半の建設だから当時メディチ家もそろそろ陰りを見せ、経済的にはともかく政治的には破綻し、民衆から見放され始めていたのではないかと推測する。

ベッキオ橋を訪れたのは日曜で大半の店は閉まっていた。その後偶然パレードに出くわしたので撮影した。何かのフェスティバルではないかと思うのだが不明。

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ウフィッツィ美術館(アルノ川側) ベッキオ橋

泊まったホテルは駅とドーモ広場の間だが、大抵の観光スポットは徒歩で十分な範囲にある。近くに小さいが中々混んでいるレストランを見つけ、旨かったので滞在中殆どその店に通った。(イタリア語ではこのようなレストランをトラットリアという)
ある晩フィレンツェ風と称するビーフステーキを頼んだら、30cm程の皿にはみ出さんばかりの骨付きステーキが出てきた。味があって旨い肉だったが、ビールを飲んだ後、パンに手を付けるどころかステーキも半分程でギブアップした。イタリアの食堂は平均して旨い。
たまたま日本人の母娘と隣り会わせ、暫く振りに日本語の会話を楽しんだ。北海道札幌の人だった。

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ベッキオ橋上の宝飾店 パレード フィレンツェ風ビフテキ

b)ピサ、ミラノ

ある日街を歩いていてピサ観光の広告を見つけ、聞いてみたら日程に合うので申し込んだ。バスによる半日観光だった。
ピサはフィレンツェの西約80Km、フィレンツェを流れるアルノ川の下流、河口にある町である。斜塔ばかりが有名だがフィレンツェ同様大聖堂があり、斜塔ばこの付属の鐘楼である。

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全景、洗礼堂−大聖堂−斜塔 大聖堂

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大聖堂内部 斜塔

ピサの斜塔は1173年に着工された。建設途中で傾きの進行が発覚し、傾斜を修正しつつ建設が再開されたものの、傾きはなおも止まらず、一応の完成を見たのは1372年と長い期間を要した。地盤の土質が不均質であったと考えられ、塔の南側が大きく沈み込んでいる。高さは地上55m、階段は297段ある。その後色々な試みが最近までなされ、傾斜の進行は止まったようである。2001年6月に10年間にわたる作業が終了し、公開が再開された。ただし予約が必要で、人数が1日30名と制限されている。現在の傾斜角は約4度。 またガリレオ・ガリレイが「物体の自由落下時間は落下する物体の質量には依存しない。」という法則を実証するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし証明した。と言う話は有名であるが、この故事はガリレオの弟子の創作で、実際には行われていないとの説が今や有力となっている。

マルペンサ空港からの帰国便は午前中なので、前日フィレンツェを出発しミラノで1泊した。インターネットで予約したホテルが、忘れていたのだが、たまたま3年前泊まったホテルと同じだった。それもそのホテルに行って始めて気づいた。ミラノはその時一通り観光したのだが、午後土産探しを兼ねドゥオーモ広場に出掛けた。3年前もドゥオーモは正面が殆ど補修中で、シートが被されていたのだが、今回もまだ下部はシートに覆われていた。こんなに大きな建物は年中何処かを補修し続ける必要があるのだろう。

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ミラノ大聖堂


5)あとがき

今年は準備時間を取れず、第一週はツアー参加にしたことは冒頭に触れたが、その後、フランス語は全く駄目、慣れない英語と習い始めて9ヶ月ほどのイタリア語で仏、伊を旅行したのだから我ながら図々しいものだ。ドイツ語圏を一度も通らなかった旅行は今回始めて、不安を抱えての出発だった。そのせいでもないだろうが始めからトラブルに見舞われた。早朝家を出て成田に8時半に着いたものの、飛行機の出発が予定より4時間以上も遅れ、現地バルディゼールに着いたのが、翌朝2時を過ぎていた。

寝不足気味で翌日は普通に滑ったもののその晩食事の後倒れ、入院する騒ぎになった。診断の結果は脱水症だということだった。疲労と10日前ほどから風邪を引いたため薬を飲んでいたのだが、その副作用など複数の原因で、高度順応が旨く行かなかったのではないかと言われた。幸いなことに一晩の点滴で回復し、その後はスキーにも全く支障のない状態に戻った。予定通り旅行を続けられたのは幸いだった。これだけではなく、2週目のアオスタでスキーの最終日に腰を痛め、つらい旅行を余儀なくされたのだが、詳しいことは次章で述べる。

考えてみるとこれまでホームページで歳を明かしたことはなかったと思うが、私はあと1ヶ月で古希を迎える。自分でも不思議な位である。最近何時までスキーを続けられるか考えることが時々ある。友人K君はリフト代がタダになるまで続けると言っているが、私も彼に負けずに頑張るつもりだ。因みにフランスでは今年この年齢が72歳から75歳に引き上げられた。更に永く気力、体力を維持せねば。ただこの年になると自分自身の努力は勿論だが、家族、特に配偶者に左右されるのを今回身を以て体験した。何時までも元気でいてくれることを願うのだが、こればかりは自分の意志では如何ともし難い。

今年の旅行も色々あったが、結果としてまずは計画通りスキー旅行が出来、ホームページで報告出来るのは幸いである。来年も何事もなく平穏に続けられるよう期待して終わりにしたい。


6)その他諸々

a)3カ国目の救急車体験

あとがきの処で触れたようにバルデイゼール2日目、食事後気分が悪くなり倒れた。先ず街なかの診療所に救急車で運ばれたが、ここは高度2300m、より低い方が良いと約40Km程離れた麓のムーチェの病院に転送された。日本、イタリア(2005年)に続いて3度目、3カ国目をフランスで体験をしてしまった。結果は前述の通りで、一晩中点滴3本を受け、水も飲まされた。点滴を交換にきた看護婦さんと多少交わしたのが今回唯一のドイツ語だった。その晩は、旅行を中断してツアーと共に帰国せねばならないかと真剣に考えたが、翌日昼には退院の許可が出てタクシーでホテルに戻った。スキーを休んだのはその日だけで、翌日からは支障なくグループ行動に参加出来た。

因みに費用に触れておく。診療所が140ユーロ、帰りのタクシー代が100ユーロ、計240ユーロが立替分だが、帰国後手続して直ぐに戻った。病院の支払は保険会社のロンドン支社に連絡したので双方が直接交渉した筈だが、後日別ルートで知った処では請求額は1032ユーロ(約17万円)だったらしい。私は交渉が簡単だと思い毎回個別の保険を掛けるようにしているが、疾病のみなので、保険料は3000円台だったと記憶している。海外の医療費は高額なので海外旅行保険は必ず掛けておくべきだと思う。

b)イタリアは薬がお好き?

トラブルはこれだけでは済まなかった。2週目アオスタの最終日オフピステの上級コースで、コブを跳んで着地した時、後傾気味でショックを全て腰で受けてしまった。その時はそれ程でもなく下まで滑り降りたのだが、その晩から痛み出した。ある姿勢を取る時だけ痛みが走り、起き上がる、横になるのが大変だった。一旦起き上がってしまえば歩くのは我慢出来るのだが、翌日は移動日、スキーとその関係荷物をミラノで預けるまで、特に乗り換えには苦労した。

もっと辛かったのは腰の痛みと無関係ではないのだが、踏ん張れないのでかなり重傷の便秘になり4日間苦しんだ。「薬局」(Farmacia)を見つけ飛び込んで説明したら、3種の薬を出してきた。一番害が少ないと思い飲み薬にしたが中々効かない。翌日最後の手段として一番強いのを購入し直したが、幸いこれを使う前に解決しすっきりした。

2年前トリノ、ミラノでも感じたのだが、街を歩いていると「薬局」がやたらに目に付く。これだけ多いのだからイタリヤ人は余程薬が好きなのだろう。日本では印象が良くない言葉だが、「緑十字」のネオン輝く看板が目印である。

c)鉄道の旅のノウハウ(再)

このことは以前にも書いたと思うが、ヨーロッパの一人旅は一般的に鉄道が最も適している。飛行機は空港までの時間が意外に掛かる上、ローカル空港、路線になると情報がごく少ない。一方鉄道は町の中心にターミナルがありアクセスが良いし、例えば2004年版6章d)で紹介したスイス国鉄のホームページで、殆どヨーロッパ中の鉄道ダイヤが調べられる。

切符を購入する場合地名は特殊な読み方をする場合があり、通じないこともある。フランスの地名のように綴りは分かっていても発音が出来ない場合はお手上げである。私は予め旅行計画を作り、プリントアウトして持参するようにしている。一例として今回のものを示すが、 日付、発駅、列車番号、乗換駅、着駅などを明記したものを窓口で見せれば苦労なく伝わるし、間違いが無く、上手な切符の買い方なども相談し易い。この方法は今回のような場合特に威力を発揮する。もちろん計画書は先の方法で旅行経路、ダイヤなど完全に調べた上で作る必要がある。参考にされたい。

d)地球が病んでいる

今回の旅行を通じ殆ど雪を経験しなかった。旅の初めバルディゼールに着いたのが2月16日だったが、その時既に2週間前から雪は全く降らなかったそうだから、今年はこの時期1ヶ月以上降らなかったことになる。年始めはかなり降っていたようなのだが・・・。いずれにせよ温暖化は確実に進み、異常気象が当たり前になりつつある。将来どうなるのだろうか。

そう言えばこの1年の間でも街を走る車が様変わりしている事に気付いた。正式な呼び名を知らないが、日本で言えばテールを切り取った「ヴィッツ」のような小型車が大幅に増えたことである。ヨーロッパは環境問題に関心が高いと聞いてはいるが、その変化は著しいものがある。ガソリンスタンドの価格を見ると、1.37ユーロ位だったから円に換算するとリッター200円以上である。比率は知らないがこの中には多くの環境税が含まれているという。こんなにガソリンが高くては小型化が進むのは当然である。暫定税率が廃止され価格が下がったと喜んでばかりいないで、一般財源化も良いがもっと環境問題を重視するべきだと思う。地球規模の危機は直ぐそこまで迫っており、今の内に対策を進めないとその時にはもっと大きな負担になるのは間違いない。

−以上−      

2008年4月8日  田中 あきひろ