花隠し





     『どうぞ夜になつたら逢ひに来て下さいませ
     漆黒の空の上に、何処までも美しく冴え渡つた月が掛かる夜に』



 玄関に人の来た気配を感じ、泰子は膝の上へ広げていた雑記帳をぱたりと閉じた。
 応対に出た久代と客の話す声が、近くの松の枝で鳴く蝉の声に混じって、彼女の部屋まで切れ切れに届いた。声から客が男であるらしい事が知れた。
 泰子のいるこの家は、元々隠居用に建てられたもので、彼女の寝起きする六畳と女中部屋の四畳半、他に台所と便所があるだけの小さな家である。だから来客があれば、部屋にいる彼女にもすぐ解るのだ。
 声が止み、縁側の床を軋ませて、足音が彼女の部屋に近付いて来る。
 泰子が振り返るのとほとんど同時に、開け放した襖の蔭から久代が顔を覗かせ、「お嬢様、塚本さんがいらっしゃいましたよ」と云った。
 久代は病気でほとんど家に隠りっ切りの泰子の世話をする為に、二年前から雇われている女中である。まだ二十を少し過ぎたばかりと若く、時々ちょっとしたへまをする事もあったが、泰子との間は上手く行っていた。
 襖の脇へ避けた久代の後から、塚本雅之の優しげな顔が覗いた。
 彼は「久しぶりだね」と云って穏やかな微笑を浮かべた。
 雅之は泰子の母の一番末の弟で、彼女にとって叔父に当たる。しかし歳があまり違わないせいか、泰子には叔父と云うより兄に近かった。今年二十一歳になる彼は大学で英文学を専攻しており、時折空いた時間を見付けては、巷で評判になっている本やら面白そうな話を土産に、泰子を見舞ってくれるのだった。すぐ隣に住んでいるのにほとんど顔を見せぬ両親や姉妹たちなどよりも、余程彼女を気遣ってくれ、その訪問は泰子を喜ばせた。
 彼女のもとを訪れる者は、住み込みで世話をしている久代を除くと、定期的に診察に来る医者や、数日に一度、申し訳程度に様子を見にやって来てはすぐに帰って行く母親、そして雅之の他に数える程しかいない。父親や姉妹たちは、ここ何年も前からこの家に近寄りもしなくなっていた。
 泰子は膝の上の雑記帳を文机に置き、部屋に入って来た雅之に、「今日は」と笑い掛けた。
「今日は何の本を持って来て下さったの?」
「色々あるよ。気に入るかどうか解らないけれど。それと今日は御菓子もあるんだ。久代さんに渡しておいたから。すぐに出してくれると云っていたよ」
 その言葉通り、雅之が畳の上に腰を落ち着けると間もなく、久代が御茶と御菓子を運んで来た。雅之は時折口へそれらを運びながら、最近観た活動写真や彼の持って来た本の話、身の回りであった出来事などを泰子に面白く語って聞かせてくれた。
 雅之の話が途切れた時、泰子は突然彼に向かってこう訊ねた。
「塚本さんは、この辺りで紅い花の沢山咲いている処を知っている?」
「紅い花?」
「曼珠沙華の事」
 雅之は怪訝な顔付きになり、さあ、どうだったろう、気が付かなかったけれど、と云った。
「その花がどうかしたのかい?」
「別にどうと云う訳ぢゃないのだけれど。ただ、一杯咲いている処を見てみたいと思って。この間、そんな場所がないかと思って一人で外を歩いてみたのだけど、余り遠くへ行けなかったから見付けられなかったわ」
 それを聞いた雅之は、「無茶をするね」と驚き呆れた顔になった。
「そうかしら。私は無茶だとは思わないけれど。でも、後で酷く怒られたわ」
「仕方がないさ。今は安静にしてじっくり身体を治さないと」
「いくらじっとしてたって、治りはしないわ」
 云ってから途端に泰子は後悔した。
 雅之は哀しい顔になって、「そんな風に云ってはいけないよ」と云った。そうして、沈んだ空気を追い払おうとするかの様に、殊更明るい声で、「もう少し良くなったら、僕が泰子ちゃんの好きな処へ連れて行ってあげるよ。その、紅い花の一杯咲いている処にもね」だからしばらくの辛抱だよ、と云って微笑んだ。
 けれど、それが決して果たされる事のない約束だと、彼女は知っていた。
 それでも遠い日への約束は、淋しさの中に微かな希望が込められている様で、泰子の沈んだ気持ちを幾分和らげた。
 しかし、結局その日は気まずい雰囲気を残したまま時間が過ぎ、雅之はもう一度、気に入るかどうか解らないけれど、と云って本を数冊置いて帰って行った。


 彼女の下を訪れる者は雅之の他にもう一人いる。それが惇であった。
 惇は決まって庭の枝折戸を抜けてやって来た。
 庭に面した泰子の部屋から枝折戸はよく見える。だから痩せてひょろりとした惇が、閉まりの悪い、何時も少し開き掛けた戸の隙間を、猫の様に擦り抜けて入って来るのに大概すぐ気付いた。
 惇は不意にやって来る。そして取り留めもない話をして帰って行く。惇は雅之と同じく、家に隠りっ切りの彼女にとって大きな慰めだった。
 雅之の来た二日後、惇は何時もの様に何の前触れもなくやって来た。
 惇は来るなり彼女の顔をじろじろと眺め、顔色が良くないな、と云った。
「大方本を読むのに夢中になって、夜更かしでもしたのだろう」
 年長の雅之と違って、泰子とそう歳の変わらない惇は言葉にも遠慮がない。しかし惇のそんな処が泰子は気に入っていた。
 ひんぱんに彼女の部屋を訪ねて来る事もあって、泰子にとっても惇は気兼ねなく話せる相手だった。
「読みたい本が沢山あるのだもの。塚本さんがまた新しい本を持って来てくれたし。読むのが追い付かないわ」
 塚本さんか、と呟き惇は縁側に腰を下ろした。
「塚本さん、一昨日来たのよ」
「知ってる」
「もしかして会ったの?塚本さんに?」
 好奇心に身を乗り出して訊いて来る泰子に、会わないよ、と惇は素気ない返事を返した。
 泰子は、会ってもいないのに雅之が来たのを知っているとはおかしな事だと思ったが、それ以上は訊ねなかった。
 泰子は以前に、「塚本さんを知っているか?」と惇に訊ねた事がある。その時彼は、会った事はないが知っている、と答えたのだ。
「親戚なのよ。私や惇の叔父さんなんだから、一度くらい会った事あるでしょう」
 しかし惇は、会った事は一度もないと繰り返しただけであった。
 では、会った事がないのに知っているとはどう云う事か、としつこく訊くと、惇はいい加減うんざりした顔付きになって、「知っているから知っていると云っているのさ。会った事がなくっても、その人を知っているって事はあるだろう」と、解るような解らない様な言葉で泰子の問いを躱した。それっ切り、泰子が何度訊ねても、惇は答えようとしなかった。
 だから泰子もそれ以来深く問う事を止めてしまったのだ。


 庭先の松の木で蝉がしきりに騒がしい声を上げている。
 二人はしばらくの間、夏の暑さを思い出させるその声に、じっと耳を傾けていた。
「こんな風に、毎日毎日部屋の中から庭や往来を眺めているだけで、生きている意味なんてあるのかしら」
 泰子の言葉に、惇が不思議そうな顔を向ける。
「それ、どう云う意味さ」
「別に。言葉通りの意味よ」
 惇は再び蝉の鳴く庭の松の木に目を戻すと、ふと口元に苦い笑いを浮かべた。
「泰子はまるで、早く死にたがっているみたいだ」
 そんな事はないわよ、と彼女は小さく呟いた。
「でも生きていたって、良い事なんてこれっぽっちもありはしないけれど」
「それを、死にたがっていると云うのぢゃないのか」
 だが、泰子は本気で死にたいと思った事は一度もない。思った事はないが、健康ならばともかく、良くなるあてもない身体で、どうやったら生きる事に執着できると云うのだ。
 しかし泰子は、「違うわ」と自分でも驚く程鋭い語気で否定の声を上げた。
「だって、そんなのは負けだもの」
 そう自分で言っていながら、一体誰に負けると云うのだろう、と泰子は思った。例えば、運命?
 自分に問い掛けた言葉の響きの陳腐さに、泰子は笑い出したくなった。どうやら自分はまだ生きたいと思っているらしい。何に未練があると云うのだろう。命だろうか。いや、自分と云う存在に未練があるのだ。それとも、何時か奇跡的に病気が治り、その先に待っているかも知れない希望に満ちた儚い未来にか。
 そこまで考えて、泰子は途端に馬鹿馬鹿しいと思った。同時に酷く憂鬱な気分にもなった。
 黙り込んでしまった泰子の横顔をしばらく眺めていた惇は、「また来るよ」と云って、来た時と同じく、気紛れな猫の様に枝折戸を抜けて帰って行った。
 惇にしても雅之にしても、彼らは何時だって外の世界から突然に訪れ、そして泰子を残して去って行くのだ。
 独り切りになった部屋の中で、泰子は手の届く処に放り出された手鏡を取り上げ、鏡面を覗き込んだ。外へ出ていないから日にも焼けていない、色白と云うより青白い顔が泰子を見返している。手を見れば、痩せさらばえて、まるで枯れ木の様だと泰子は思った。
 手鏡を再び畳の上に放り出すと、泰子は障子の桟に軽く背を預け、物憂げな目で庭を眺めやった。
 別段長く生きたいと願った訳でもないのに、病を抱えたまま、ずるずると十六年も生きて来た。良くなったかと思えば、またすぐ悪くなる。既に泰子は家族にとって厄介者だった。
 泰子にとって毎日は、ただ生きているだけの日々の連続にすぎなかった。同じ年頃の娘達の様に、笑い合いながら陽の下を歩く事も適わない。羨ましくないと云えば嘘になる。同じ腹から産まれた姉妹が、彼女と違って健康な身体を持っている事に嫉妬を覚えた頃もあった。だが、最早今の彼女にはどうでも良い事であった。
 雅之はよく、希望を捨ててはいけないと云うけれど、希望を抱き続けるには、彼女の病は長過ぎた。


 夏の盛りも過ぎ、夕暮れ方から宵に掛けて秋の気配がし始めたある日の午後。団扇を使いながら庭を眺めていた泰子は、扇ぐ手を止め、すぐ側の小さな文机の上に置かれた雑記帳を手に取った。
 団扇を脇に置き、膝の上で一枚一枚頁を繰って、彼女自身が考え丁寧に書き込んだ詩を眺め、途中の一遍で手を止める。泰子はその詩を小さく声に出して読んでみた。
「どうぞ夜になつたら逢ひに来て下さいませ
 漆黒の空の上に、何処までも冴え渡つた月が掛かる夜に
 そつと窓から抜け出して、あの林へ二人で行きませう
 洋燈など要りません。空に輝く銀の燈で充分です」
 詩はまだ続きがあったが、彼女はふと口を閉ざした。
 それは叶わぬ願望であった。
 それは彼女の心の中の幻の風景であった。
 彼女にとって詩を書くと云う事は、自分の心の中の絶望を埋める代わりでしかないのかも知れなかった。
 途切れた彼女の呟きに続いた声が、瞬間物思いに沈んだ彼女の意識を引き戻した。
「今宵月景の下で、真赤な死人花が開きます。それを見に行きませう」
 顔を上げると惇が立っていた。
 惇は、ふふふと悪戯っぽく笑い、「ロマンチストだな、泰子は。しかし、こいつはいささか薄気味悪い」と云った。
 しかし、惇の言葉に含まれた揶揄の響きを無視して、それ、と泰子は声を上げる。
 彼女の意識は、すっかり惇の手に握られた花に向けられていた。
「曼珠沙華ぢゃない。どうしたの?」
「途中の林に咲いていたのを何本か取って来たのさ。そら、まるで泰子の詩の様だろう」
 そう云って紅い花を泰子に手渡すと、惇は彼女の膝の上に広げられた雑記帳を無遠慮に覗き込んだ。
「泰子はその詩が余程好きなんだな。よく口に出して読んでいる。お蔭ですっかり憶えてしまった」
 そんな惇の言葉も耳に入らぬ様子で、じっと曼珠沙華の花を見つめていた泰子は、「ねぇ」と小さく声を上げた。
「この花が咲いていたのはどんな処?」
 泰子の隣に腰を下ろした惇は、そうだなと呟き、言葉を捜す様に空を見上げた。
「そこは昼でも薄暗く、夏なのに不思議に冷んやりと湿っている林だ。まだ盛りには少々早いからあまり咲いていなかったけれど、もうしばらくすれば真紅の花の大群が現れるだろう」
 そんな場所がこの辺りにあっただろうかと思ったが、ほとんど外に出た事のない泰子には、何とも云えなかった。
「しかし、何にもない処から、どうしたらあんなに沢山花が生えて来るのだろうな。何か特別なものでも埋まっているのかな」
「地面の下に埋まっているのは、死んだものばかりよ」
「それぢゃあ、いよいよ泰子の詩のみたいぢゃないか」
 そうねと答えた後、泰子は小さな声で、「でも、いいわね。彼らは独りぼっちぢゃないんですもの」と呟いた。
「泰子だって独りぼっちぢゃないだろう」
「・・・・・・さあ、どうかしら」
 惇は何か云いたそうな顔で泰子を見ていたが、結局黙ったまま、視線を逸らした。
「ねえ、其処へ連れて行ってよ。月明かりの中で見てみたいわ」
 身を乗り出してねだる泰子に、惇が微かに苦笑いを浮かべる。
「連れて行くのは構わないが、夜に外へなんか出して貰えやしないだろう」
「別に許可なんていらないわよ。外へ出ようと思えば、私の好きな時に何時だって出られるんだから」
 それを聞いて何やら考え込んでいたが、不意に惇はこんな事を云った。
「泰子が望むなら、もう淋しい思いをしくていい処へ連れて行ってやるよ」
「そんな処ありやしないわよ」
「それがあるのさ。曼珠沙華の咲いている林もその途中にある。其処なら泰子の身体の心配もしなくて済む」
 嘘だ、と叫びそうになるのを泰子は堪えた。むきになって否定するのは、未練がましく生にしがみつこうとしているのを、認めてしまう様に彼女には思えたのだ。惇に限らず他の誰にもそんな風には思われたくなかったし、何より彼女自身それを認めるのは厭だった。
 死にたくないと云う、人として至って自然な心理と、自分の病気勝ちな身体に対する負い目、そしてそれを認めたくないと思う心の葛藤の中で、泰子は辛うじて平静さを装った。
「本当にそんな処があるって云うなら、行ってみたいわ」
 しかし、発作的な感情の爆発を押し止め、そう泰子に云わせたのは、むしろ惇の何時になく真面目な様子であり、また惇の云う夢物語の様な場所が、本当に存在するのだとしたら、と云う興味もなくはなかった。
「ただ、行ったら親や姉妹には、もう会えないかも知れないけれど」
「構いはしないわよ。あんな人達に会えなくなったって」
 肉親に会えなくなるからと云って、取り立てて哀しいとは思わなかった。今だってろくに会ってはいないのだ。ただ、雅之に会えなくなるのが少し淋しかった。
 そう、と惇は再び何か考える様な顔付きになり、しばらく黙り込んでいたが、やがて庭を見つめたまま「泰子は後悔しないかい?」と訊ねて来た。
「判らないわ、そんなの。行ってみない内は後悔も出来やしないわよ」
 それもそうだと笑い、惇は身軽にひょいと立ち上がる。
 そして、泰子の方を真っ直ぐに見つめ、「月が出たら迎えに来るよ」と云った。
 普段とさして変わらぬ声であったけれど、惇の眸の中に何時もとは違う真剣さを認め、期待はおうおうにして裏切られると知りながら、泰子は惇の言葉を信じてしまいそうだった。
 不意に背後で人の気配がした。泰子が驚いて振り返ると、開け放した襖の横に立った久代が、怪訝な面持ちで部屋の中を見回していた。
「誰か来ていらしたのですか?」
 紹介しようとして彼女が庭先に目を戻せば、既に惇の姿は消えていた。
 仕方なく泰子は再び久代を振り返ると、「従兄よ」と云った。
 しかし泰子はそう答えながら、ふと「本当に自分に従兄なんていただろうか」と考えた。思い返してみれば、惇に初めて会ったのが何時かすら定かではない。従兄と云うからには、父か母の兄弟の子であろうが、一体何処の家の者なのかはっきりとしなかった。
 あれは、ほとんど会いに来ない両親や姉妹の代わりに、彼女の淋しい心が創り出した幻ではないだろうか。
 けれど、惇が持って来た花は確かに泰子の手の中にある。
 それが、惇の存在の確かな証だった。


 次の日、普段よりも少し遅く起き出した泰子は、庭の枝折戸の前に一人の男が屈んで何やらやっているのを見た。一瞬、彼女はその人影を惇かと思った。しかしよく見れば似ても似つかぬ別人で、その男の事を近所に住んでいる植木屋だと、以前久代が話していたのを泰子は思い出した。
 泰子は台所仕事をしていた久代を掴まえ、あの男は一体何をしているのかと訊ねた。
「戸を直して貰っているんです。この間奥様に、開いたままでは物騒だから直すように云われたものですから」
 自分の知らぬ間に母親が来た事、そして娘にも会わずに帰って行った事を知り、泰子はその日一日不愉快な気分で過ごした。
 植木屋の男がすっかり直していったお蔭で、それまで当たり前の様に開け放しにされていた枝折戸は、普段出入りする者もいないせいか、堅く閉ざされたまま、何時までも開かれる気配はなかった。
 あの日以来惇は来ない。
 あれから月の綺麗な晩は何度もあったのに、惇はやって来ない。
 こんな事は初めてだった。普段ならば一週間も開けずにやって来たと云うのに。
 惇が最後に訪れた日から既に十日が過ぎていた。惇が持って来た紅い花が、文机に置かれた花生けの中で萎れ掛けていた。


 ここ数日前から体調を崩して、泰子は毎日を布団の中で横になって過ごしていた。
 熱があるせいで好きな読書もできず、他にする事もないので、ついつまらい事ばかり考えてしまう。そして気が滅入る。その繰り返しであった。
 泰子はその日何度目かの溜息を吐き、首だけを曲げて外を見た。
 何時もと変わらぬ見慣れた風景が其処にはあった。
 今日も何処か近くで蝉が鳴いている。
 もし今、彼女が死んだとしても、世の中は何の変わりもなく動いて行くだろう。
 雅之が彼女のこの言葉を聞いたなら、きっと同情に満ちた哀しげな微笑を浮かべこう云うに違いない。「泰子ちゃんだけじゃなく、どんな人だって同じだよ」と。
「泰子は死ぬ事ばかり考えている」
 突然聞こえた声に横を見ると、何時から其処にいたのか、泰子の隣に惇が坐っていた。
 横を向いて俯いたその口元には、仄かに苦い笑いが浮かんでいた。
「泰子は、まるで死にたがっているみたいだ」
 何時かも聞いた言葉だった。そして泰子は、死にたくなんてないわよ、と答えたのだ。
 だから、彼女は今日も同じ様に答えた。
 惇は俯けていた顔を上げ、泰子の目をじっと覗き込んだ。
「ぢゃあ、生きたいの?」
 生きたいわよ。
 彼女はそう叫びたかった。
 けれど、こんな身体で生きているのでは意味がないのだ。
 もし、この身体が病などにおかされていなかったのなら。健康であったのなら。
「二度と病気に苦しまなくて済む処を知っているよ」
 彼女が答えないでいると、惇はふいと視線を逸らし、「外へ出ようと思えば、好きな時に何時だって出られると云ったのに。出ていこうとしないのは泰子の方ぢゃないか」と云った。
 何か云い返そうとして、泰子はそこではっと目を開けた。見慣れた部屋の天井が目の前に見えた。
 首を動かして横を見ても、惇の姿は何処にもなかった。
 どうやら何時の間にか眠り込んで居たらしい。
 泰子は寝返りを打って庭の方へ顔を向けた。
 夕方が近いのか、照り付ける陽射しも弱まり、もの悲しい蜩の声が聞こえた。
 あんな夢を見たのは、熱のせいで彼女が気弱になっているからだろうか。
 泰子は夢の中での惇の言葉を思い出そうとしてみた。
 惇の云う通り、この家にと閉じ隠っているのは泰子の方なのだろう。以前雅之に話した様に、一人で外へ出た事はある。だが、あの時もそう遠くまでは行かなかった。それ以上先へ行く勇気がなかったのだ。
 一人では出て行く勇気がない。だから早く迎えに来て欲しい、この憂鬱な毎日から連れ出して欲しい、と泰子は強く願った。
 堅く閉ざされた枝折戸を、彼女はじっと見つめ続けていた。


 布団の上に横になったまま、ぼんやりと仄暮れの庭を見つめていた泰子は、不意に起き出し、庭下駄を突っ掛けて枝折戸へ近付いて行った。熱のせいで身体が重く、それ程の距離ではないのに枝折戸までが酷く遠く感じ、ようやくの思いでたどり着くと泰子は大きく溜息を吐いた。
 留金を外し、手を掛けて引くと、部屋から見ていた時には二度と開かないのではないかと思われた戸が、呆気ない程たやすく動いた。
 これできっと惇は自分に会いに来る。
 人一人がようやく通り抜けられる幅まで開かれた戸を見つめながら、泰子はそう信じて疑わなかった。
 どれくらい其処に立っていたのだろうか。お嬢様と云う呼び声に振り返ると、久代が慌てた様子で縁側から庭へ下りて来ようとしている処であった。
「熱があるんですから、寝ていないと。お医者様もそうおっしゃられたんですよ」
「ええ。御免なさい。今戻るわ」
 彼女は戻り掛けてもう一度枝折戸を振り返った。それは夕闇の中にほんの少し口を開けた、境界の裂け目の様であった。
 紫紺に染まり掛けた東の空に、月が輝き始めていた。


 その夜、昼間眠ってしまった泰子は、寝付かれずに何度も寝返りを打ちながら、蚊帳の外を眺めていた。
 既に久代も床に就き、家の中はしんと寝静まっている。
 ふとその静寂の中に誰かの足音が聞こえた様に思って、泰子は布団からゆっくりと起き上がった。
 惇が来たのだ。
 彼女が庭の方を見つめていると、程なく蚊帳の向こうにぼんやりと黒い影が立った。さっと蚊帳を上げれば、月明かりを背にした惇の姿が其処にあった。
「今夜は月が綺麗だ。だから約束を果たしに来たよ」
 泰子は凝っと惇を見つめた。彼女は未だ布団の上に坐ったままだった。
「どうして私の処へ来たの?」
「泰子の淋しいと云う声が聞こえたからさ。それに今日だって、枝折戸を開けたのは泰子だろう」
 従兄ぢゃなかったのねと泰子が云うと、従兄だなんて一度も云った事ないよ、と惇は笑った。
「花はまだ咲いて居るかしら」
「咲いてるさ、これからまだ一杯咲く」
 そう惇は明るく答え、何処から取り出したのか、紅い曼珠沙華を彼女の手の中に落とした。
 惇に促されるままに立ち上がり、履き物に足を通して、泰子は月明かりの下へ踏み出した。
 その途端、熱があったのが嘘の様に、泰子は自分の身体が軽くなるのを感じた。こんなに気分が良いのは初めてだった。
 泰子は空を見上げ、月は普段もこんなに明るく輝いていたのだろうか、とその明るさに感嘆の吐息を洩らした。
 おぼろではあるが、燈がなくとも充分に辺りが見える。隣に立つ惇の表情さえも判った。
 泰子はかつてない程幸せな気持ちに満たされ、自然と自分の口元に微笑が浮かぶのを感じた。
 恍惚として立ち竦んでいる泰子の顔を覗き込み、「後悔しない?」と優しく問う惇の声に、彼女は即座に「しないわ」と答えた。
 惇は満足そうな微笑みを浮かべ、開き掛けた枝折戸の向こうを指差す。
「さあ、月が沈んでしまう前に行こう」
 そう云って差し出された惇の手に自分のそれを重ね、泰子は彼女を待ち受ける優しい月景に満ちた夜の世界へと踏み出した。


 彼らが去った後、月の光の射し込む部屋の中に赤い花が一輪、置き手紙の様に残されていた。



    『どうぞ夜になつたら逢ひに来て下さいませ。
     漆黒の空の上に、何処までも美しく冴え渡つた月が掛かる夜に。
     そつと窓から抜け出して、あの林へ二人で行きませう。
     洋燈など要りません。空に輝く銀の燈で充分です。
    今宵月景の下で、真赤な死人花が開きます。それを見に行きませう。
     きっと幸せな死者たちの、さざめく様に笑つている声が聞こへるでせう 』




       −了−






 私にしては珍しく女の子の話です。
書きづらかったのはそのせいもあるのかも知れません。
 あ、ちなみにタイトルの「花隠し」は「神隠し」をもじったものです。






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