山梔子




 夏になると思い出す友人が居る。
 特に、山梔子の強く薫る夜などには、彼と会ったのがつい昨日の様な錯覚を起こす。思い返せば、出会ったのも山梔子の咲く季節であった。そして、彼が一人胸に納めた苦しい思いを私にもらしたのも。
 彼との思い出には何故か山梔子の薫りが付きまとう。山梔子の花の香りを感じるとき、私の記憶の中から彼の姿が立ち現れるはそのせいかも知れない。
 もし、彼と取り分け親しかったのかと問われたならば、多分私は即答できないだろう。彼よりも付き合いの長い、気心の知れた親しい友人は他に何人もいたのだから。
 彼との付き合いはわずかに二年。彼の事を私は今もほとんど知らない。
 けれどどんなに月日が経とうとも、彼の姿は私の記憶の中で決して色褪せる事は無く、山梔子の薫りによって遠い過去から繰り返し呼び起こされるのだ。


 その友人の名を砺波青司と云う。


 砺波は肌の白い痩せぎすの男で、いつも何処か見る者に孤独な印象を与えた。どんなに大勢と一緒にいても、その実彼は常に独りである様に感じたものだ。
 彼は自分から進んで友人を作ろうとはせず、誰かと激しく議論を戦わせることもなく、傍観者のごとく静かに佇み、時折物思いに沈んだ眸で遠くを見つめていた。
 そんな砺波が、何故だか私の下宿には良くやって来た。
 時には他の友人と連れだって。時には一人で。
 当時、私は取り立てて人の関心を惹く様な人間ではなかったし、自分でそれを自覚していた。無論今もそうだろう。
 一体そんな人間の何処が気に入ったのか。今となっては訊ねる事もできない。
 普段は意識の奥底に隠れた切り思いにも昇らぬ問いが、不意に抜けない棘の様に私の心を疼かせるのだ。
 その想いは後悔に少し似ている気がした。
 問わなかった事への、最早問えぬ事への後悔なのかも知れない。


「此処は山梔子の薫りがするのだな」
 いつもの様にふらりと私の下宿を訪れた砺波は、彼の指定席である窓際に坐って、開け放した窓から外を眺めながら不意にそんな事を云った。
「三軒向こうに山梔子の木があるから、多分それだろう」
 彼はぼんやりとした眸を外に向けたまま、ふうんと気の無い返事をした。私の言葉を信じていない様な、彼自身がもっと他に真実の答を持っている様な声だった。
 砺波は懐中ら煙草の函を取り出すと、軽く舌打ちをしてそれを握りつぶした。
「切れている」
 私が自分のを放ってやると、彼は礼を云って一本抜き取り火を点けた。
 燐寸の燐の燃えるつんとした匂いが部屋に広がり鼻をつく。美味そうに煙を吐き出す彼の、煙草を挟んだ骨っぽい指が私の目をひいた。
 しばらく立ち昇る煙を見つめていた彼が、再び唐突に口を開いた。
「僕の部屋は、今頃の季節は百合の薫りがするよ」
「へえ、庭に植えてあるのかい」
「いや、違うよ」
 それならば、近所に植えている家があるのだろう。私は勝手にそう判断したのだが、砺波の口元に浮かんだ静かな微笑が、意味ありげに思えてならなかった。
「下宿には無いが、百合は妹が好きで実家の庭に植えていたな」
「妹が居るのか」
 私はいささかの驚きを持って彼を見た。
 砺波に妹がいるとは初耳であった。もっとも、彼について私は殆ど知らないのだが。
「いたんだ。二年前に死んでしまった」
 何と答えたら良いか判らず、私はかろうじて「そうか」とだけ云った。
 不用意な発言の気まずさから私は黙り、彼は再び意識を己の内へと向け沈黙した。
 ほんのわずかばかりの静寂であった。だが、それは私にとっては重く苦しい時間に思われた。
「僕はあいつが好きだった」
 砺波がポツリともらした呟き。それが彼の妹を指している事に気付くまでに、私はしばしの時間を要した。彼がぽつりと呟いたその言葉には、兄が妹に抱く思慕以上の想いが感じられた。私は何も云わず、黙ったまま砺波の顔をただじっと見ていた。
 彼は私の視線など気にも掛けぬ様子で、独白めいた呟きを続けた。
「妹が死んでからその気持ちに気付いたのは幸いだったのかも知れない」
 だが、同時にそれは彼の不幸でもあったに違いない。
 告げる事もできず、行き場を無くした想いは、いったい何処へ逝くのだろう。
 それ切り彼は口を閉ざし、身じろぎもせずに外を見つめていた。
 彼は時折、眼に見えない遥か遠くを見る様な透明な眸をした。そんな時、彼は既にこの世の存在ではない様に私には感じられたものだ。この時も砺波はそんな眸をして黙り込んでいた。
 私はそんな彼の横顔を見つめながら、説明のできぬ漠然とした不安に襲われた。
 こらえ切れずに私は彼の名を呼んだ。
 呼んでしまってから、私はかすかに後悔して口を閉ざした。
 いつまでも次の言葉を云わない私に、彼は窓の外を見つめたまま、「何だ」と訊いて来た。
 どうしてそんな事を思ったのか、あまりの脈絡の無さに我ながら何とも恥ずかしい気がして云いたくなかったが、呼んでしまった手前、他に巧い言い訳も見つからず、私は仕方なく口を開いた。
「何だか、君が何処かへ行ってしまうのじゃないかと思ったものだから」
 砺波は煙草を咥えたまま振り返った。彼の口元に浮かんだ静かな微笑が、私の不安を尚の事掻き立てた。
「別に何処へも行きはしないさ」
 彼は決して偽りを云ったつもりは無かったのだろう。少なくともその時の彼にはこの街を離れる気は無かったに違いない。二人とも、何時までも変わらぬ日常が続くと根拠も無く信じていた。
 しかしある日を境に、ふっつりと砺波の姿を見なくなった。身体を壊して実家へ帰ったと人づてに聞いたのは、彼がいなくなって随分たってからだった。
 そして二度と彼が私の下宿を訪れる事は無かった。


 彼の悲報を私に告げたのは、たった一葉の葉書だった。彼の姿を見なくなってから一年目の夏の事だ。そう、あれも夏だった。ぼんやりと葉書を見つめながら、私は確かに山梔子の薫りを感じたのを憶えている。
 砺波が死んだと聞いた時、私は自分でも奇妙な気がしたが、別段驚きはしなかった。それが彼の妹と同じ病のせいだったと知った時も。私は、ああそうなのか、と思っただけであった。
 ただ、小さな紙切れ一枚が人ひとりの命の終わりを告げることに、かすかな皮肉と悲しみを感じた。
 それにしても何と曖昧な死であろうか。私は彼の死に顔も、臨終の間際の様子も知らないのだ。
 私にとって、この葉書が彼の死その物の様に思われた。


 ある晩、私がランプの明かりの下で本を読んでいると、階段の軋る音がして誰かが私の名を呼んだ様に思った。その声が砺波の声であった気がして、私は後ろを振り返ったけれど、矢張り其処には誰もいなかった。私は不意にたまらなくなって腕の中へ顔を埋めた。瞼の裡が熱く、涙がにじんだ。私は泣きながら、今頃になって砺波の不在に涙している自分を不思議に感じた。そうして、砺波は死んだのだと初めて実感した。


 彼と最後に会ったのは何時の事であったろうか。その時は、まさか最後になるとは想像にもしなかったら、おざなりな会話しかしなかった様に思う。
 最後に交わした言葉は何であったのか。
 いったい最後に彼は私に何と云ったのだろう。今でもそれが知りたくてならない。




 
 

 


 

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