刻の硲の街


 突然このような手紙を受け取って、貴方は困惑しているかあるいは迷惑だと思っているかも知れません。しかし、貴方の他に伝える相手が思い浮かばなかったものですから、どうか勘弁して下さい。
 貴方の元にも既に私の失踪の報は届いているのでしょうか。それともこの手紙によって、初めて貴方はその事を知ったのでしょうか。いずれにしても、貴方がこの手紙を受け取った時には、私は姿を消している事でしょう。
 私が貴方に手紙を残したのは、姿を消してしまう前に、何故私がこのような行動に至ったのか、その経緯を誰かに知っておいて欲しかったからなのです。そしてかつて、とても正気とは思えぬ私の話に、興味深く耳を傾けてくれた貴方ならば、きっと理解できる、いや、理解してくれると思ったのです。それ程これから貴方に伝えようとしている話は奇妙なものなので。
 読まずに破り捨てても構いません。しかし、取り敢えず貴方が読んで下さると仮定して話を続けようと思います。
 貴方は以前私が貴方に話した、一人の青年の事を憶えているでしょうか。時折私の前に現れる、あの青年の話です。
 だいぶ前の事ですから、もう忘れてしまったかも知れませんね。
 私自身の記憶を整理するためにも、一応簡単にではありますけれど改めて書いておきたいと思います。
 初めてその人を見たのは私が小学生の頃でしたから、かれこれ十年以上も前の事になります。以来、その人は時折私の前に現れるようになりました。一週間も開けずに会う事もあれば、何年も姿を見ない事もありました。
 何故そんなに記憶に残っているかと云えば、その人の和服姿が子供の時分の私には、酷く珍しく見えたからでした。私の周りで和服を着ている人と云えば、お爺さんやお婆さんなどの年配の人たちばかりで、彼のように若い人で和服を着ている人など一人もいませんでしたから。
 初めて会った時、すでにその人は二十代半ばの青年であったのですが、十年以上たった今でも初めて会った時と変わらず、全く歳を取っていないように見えました。
 そして一ヶ月程前にも私はその人と出会いました。
 彼は吾妻橋の欄干にもたれて、物憂げな視線を川の流れに向けておりました。
 貴方にも話したと思いますが、私は今まで一度もその青年と言葉を交わした事がありませんでした。この日も、ああ、何時もの人だ、そう思っただけで、私は別段話し掛ける事もなく彼の横を通り過ぎたのでした。
 そのまま吾妻橋を渡り切って、雷門の方へ通りを歩いて行った時です。
 私は何気なく転じた視線の先に、見慣れぬものを見付けて足を止めました。丁度雷門に差し掛かる処でしたので、高い建物が途切れ、その間から見覚えのない塔のような形のビルが覗いていたのです。つい先日同じ道を歩いたときには、そんな物は建っていませんでしたし、そもそも問題の建造物が建っている辺りは浅草公園のはずですから、やたらに新しい建物が建つとは思われません。また奇妙な事に、私の他誰も建物に気付いていないのか、気に留める人もいないようでした。
 それにしても何処かで見た事のある建物だ、と記憶の底を探っている私の横を、先程の和服の青年がゆっくりとした足取りで通り過ぎて行きました。私は驚いて彼の背中を眼で追いました。今まで何度も彼に会って来ましたが、こんな事は初めてでした。彼がベンチに腰掛けている横や、立って何かを眺めている横を私が通り過ぎたり、互いに擦れ違ったらそれっ切り同じ日には会わないと云うのが常だったのです。
 更に驚きは続きました。
 彼が雷門の前で一度立ち止まって、こちらを振り返ったのです。彼の眼は明らかに私に向けられていました。彼はしばらく私を見つめ、再び雷門に眼を転じると、大きな赤い提燈の下をくぐり抜けて行きました。まるで付いて来いと云いたげな素振りに思え、私は誘われるままに彼の後に付いて雷門をくぐったのでした。雷門から仁王門まで続く仲見世通りは、両側にずらりと並んだ土産物屋を覗く人で大層ごった返しており、人混みを縫うように進んで行く内に、私は青年の姿を見失っていました。
 仁王門をくぐった処で私は辺りを見回しましたが、一体何処へ行ったのやら青年は雑踏に紛れて一向に見付かりません。仕方なしに浅草寺観音堂へ続く参道を更に進むと、香炉から漂う煙で辺りがけぶって、何やら一面に霞みが掛かっているようでした。
 其処で私はふと足を止め、本堂の右手に眼をやりました。本来なら本堂の左手前に建っているはずの五重塔が、おかしな事に私の視線の先にそびえているのです。奇妙なのはそれだけではありません。玉砂利の敷き詰められているはずの境内はむき出しの地面ですし、何より私が驚いたのは、周りを行く人々がほとんど皆和服姿だと云う事でした。
 私はすっかり狼狽えてしまい、青年の事など放っておいて、元来た道を引き返そうかとも考えました。しかし、迷っている私の心を、再びあの奇妙な建造物が引き止めたのです。
 それは赤い煉瓦造りで、上の二段ばかりが細くなり、尖った屋根を乗せた多角形のビルのようで、先刻雷門の前で垣間みた時よりも更に高くそびえて見えました。
 あの建物だけはどうしても正体を見極めたいと思い、心を決めると、私は参道を左にそれて塔へ向かって行く事にしました。
 それにしても初めて見た時から、私はこの塔のような建造物を知っている気がしてなりませんでした。知っているはずなのにどうしても思い出せない、そんなもどかしさを感じてなりませんでした。
 境内の一画に水族館と木馬館と云う建物が並んで建っていました。水族館とはその名の通り水槽に魚を放して見せる、あの水族館の事のようです。もう一つの木馬館とは、いわゆるメリーゴーラウンドの事のようでした。
 メリーゴーラウンドのまわり舞台の中心に立っている柱は八面の鏡になっており、その上には四季の草木の葉や花の飾りがあって、その蔭で楽隊がラッパを吹き鳴らしていました。鏡に反射した光がピカピカと輝き、舞台の上では木馬や自動車に乗った子供達が、はしゃいだ声を上げています。
 そんな光景を横目で見ながら、私は人の流れに乗ってにぎやかな方へと進んで行きました。目指している塔もそちらにありましたので。
 しばらく行くと大きな池が見えてきました。岸がくねくねと曲がっており、奇妙な形をしています。
 こんな処に池などあっただろうかとぼんやり眺めている内に、ああ、これが瓢箪池かとあっさり納得して、私は再び人の間をぬって歩き始めました。
 きっと貴方は奇妙に思う事でしょう。瓢箪池など浅草にはもう存在しないと。実際瓢箪池は昭和十七年に、戦災で焼けた本堂の再建資金として埋め立てられ、売られて、今では見る影もなくなってしまいました。けれどこの時の私には、そんな事はどうでも良かったのです。私は何の抵抗もなく池の存在を受け入れたのでした。
 辺りはいよいよにぎやかになって来ます。
 奥山と呼ばれる一画には様々な露店や大道芸人が地べたに小さな店を張り、威勢の良い呼び込みの声や人々でごった返していました。
 空き地の片隅で、シャツの上に着物を着て、袴姿に鳥打ち帽子を被った少年がヴァイオリンを弾いています。
 低く濁った錆びた音は、少年の腕と云うよりむしろ楽器自体に問題があるようでした。
 木馬館から流れて来るにぎやかなジンタの音に、活気のある人の波。
 浅草はこんな町だったでしょうか。私の知っている浅草とは何処か違うような、奇妙な違和感が感じられてなりませんでした。
 突然の拍手の音で我に返ると、先程の少年が帽子を取ってお辞儀をしている処でした。金属のぶつかり合う音を立てて、ヴァイオリンのケースへ小銭が何枚か投げ込まれました。
 私も財布の中から適当に小銭を取り出して放り込み、少年に向かって「上手だね」と話し掛けてみました。
 少年は得意そうに笑いました。
「他にはどんな曲が弾けるの?」
「色々あるよ。楽譜は読めないけど、一度聴いた曲なら弾けるから」
 フイフイとヴァイオリンを鳴らしてみせる、少年は何処か誇らしげでした。
 まだ幼い、十を過ぎたかどうかと云った歳でしょうか。そのくせ世間ずれして、何処か大人びているようにも見えます。
「君、いくつだい」
「かぞえで十二歳」
 私は楽器というものがまったく駄目と云う人間ですから、楽器を使える人ならば誰でも尊敬してしまいます。ましてや目の前の少年は、まだ十二歳だと云うではありませんか。
 私は心から感心してもう一度、すごいね、上手だねと云いました。
 私が余りに手放しで褒めるので、照れ臭くなったのでしょう。少年ははにかむような表情で、そんな事ないよと云いました。
 ふと気づいて私が眼前を仰ぎ見ると、いつの間にか私の目指していた塔まで、あともう少しと云う処に来ていました。
 私があんまり長い事、その建物を見上げていたからでしょうか、少年がいぶかしげに、「十二階がどうかしたのかい?」と訊いてきました。
 私は、ハッとして少年を見ました。頭の中に掛かっていた靄が一気に晴れたような、そんな気分でした。
「ああ、そうだ十二階。そうかこれが浅草凌雲閣か」
 私の驚き方を見て少年はいささか呆れたような顔をしました。
「何だい。兄さん、お上りさんかい」
「違うよ。僕は東京生まれの東京育ちだ」
「東京に住んでて十二階を知らないなんて、おかしいや」
 私は口ごもりました。本当におかしい、何故知らなかったのだろう、と本気で悩みました。どうもこの辺りから私の頭は混乱してきたようです。
「どうも変だな、初めて来た訳でも無いはずなのに。頭の中に霞が掛かっているみたいでよく思い出せない」
 少年は私の顔を覗き込むようにして、「兄さん、本当に大丈夫かい?」と云いました。
 浅草十二階。正式な名を浅草凌雲閣と云い、大正十二年の震災によって浅草から姿を消すまで、人々に愛された東京の名物だった建造物です。後で調べた処によると、明治二十三年十一月十三日に営業を開始し、高さ六十六・七メートルの、その当時にしてみれば他に類のない高層建築であったのでしょう。営業開始当時はそれは大層なにぎわいで、後年はやや人気は衰えたものの、震災で折れてしまうまで浅草の顔として愛され続けたそうです。その後再建するという話もあったようですが、結局浅草に凌雲閣が建つ事は二度とありませんでした。
 こんな事をくどくど書く必要もありませんね。過去に崩れてしまったのであっても、この時、確かに私の目の前には十二階が建っていたのですから。それさえ貴方に伝われば充分です。例えそれが非常に奇妙な事だとしても。
 では、話を先へ進めましょう。
 下らない事ではありますけれど、本当に名前の通り十二階あるのかどうか確かめてやろうと、私は一階から上へ向かって数え始めました。下から数え上げて行く内に、無意識に後ろへ下がったのでしょう。後ろにいた人と肩がぶつかってしまい、私は謝ろうと顔を相手へ向けました。
 ほとんど同時に束髪の女がくるりと振り返りました。
「ああ、済みません」
 頭を下げた私に、女は上品に微笑みました。
「いいえ、此方こそ」
 そして女は意味ありげな目を私に向け、「すっかり気に入ったでしょうかしら。まだ自分の眼に見えている事を、不思議に思ってやしません?」と云ったのです。
「それはどういう意味でしょう?」
 私の問いに、女は「さあ」と不明瞭な微笑をたたえ、解らないのであれば宜しいのです、と云って歩み去って行きました。
 私は不可解な面持ちのまま、女の後ろ姿を見送ったのでした。
 私たちのやり取りに、少年はまったく気が付かなかったのか、あるいは何か他の事に気を取られているのか、耳を澄ますような顔つきで別の方を向いていました。
「あ、午砲が鳴った」
 正午ぴったりに、遥か皇居の片隅で鳴らされる空砲の音が、この喧騒の中でよく聴こえたものです。この少年は余程良い耳をしているに違いありません。
 少年の言葉に、私は慌てて自分の腕時計に眼をやりました。
「いけない、十二階で待ち合わせをしているのだった」
 今にして思えば何故そんな事を云ったのか不思議でなりませんが、この時の私は人との待ち合わせ時間に遅れてはいけないと、本当に慌てていたのです。
「ありがとう、色々と教えてくれて。またヴァイオリンを聴きに来るよ」
「じゃあね、兄さん。絶対また聴きに来てよね。約束だよ」
 手を挙げて別れを告げる私を、少年はヴァイオリンの弓を振って見送ってくれました。
 大急ぎで人混みを進み、派手な花屋敷の門の横を通り過ぎて、私は十二階の券売所の列に並びました。
 しかし列と云っても十人もいませんでしたから、直ぐに私の順番が回ってきました。
 入場料が幾らなのか判らなかったので、券売所の小屋の中にいる男に向かって、「大人一枚」と云いますと、「八銭お願いしますよ」という答えが返って来ました。
 私が小銭入れの中を掻き回すと、本来私の財布には入っているはずのない十銭銀貨が出て来たのでした。
 後になって思い返してみると、自分の財布に何故十銭銀貨などが紛れ込んでいたのか全く奇妙でなりませんけれど、この時は一瞬「おや?」と思っただけで、すぐにそれが当たり前であるように不思議とも思いませんでした。
 券売所の男はお金を受け取ると、「はい、二銭のお釣り」そう云って券と硬貨を返して寄越しました。
 凌雲閣と大きく書かれた看板の下を潜って中へ入り、様々な売店に心を引かれながらも長い階段を一気に十階まで上がると、日頃の運動不足のせいか流石に息が切れました。
 ふうふう云いながら十一階へ上がり、最後の螺旋階段を上ってようやく十二階へ辿り着いた私は、其処であの青年の姿を見付けたのです。
 私の視線に気付いたのか、彼は眼下に広がる風景を眺めていた眼をゆっくりと私に向けました。そうしてちょっと笑うと、低いよく通る声で私の名前を呼んだのです。
「あんまり遅いから待ちくたびれてしまったぜ」
 彼の言葉を聞いた途端、此処で待ち合わせをしていた相手は彼だったのだと何の疑問も持たずに納得し、むしろそんな事すら忘れていた自分に呆れた程でした。
「さて、午砲も鳴ったし、昼飯にでもするかい?浅草なら美味い店が色々ある」
 天麩羅なら何処が美味い、鰻ならあの店が良い、と次々と店の名前を挙げてゆく彼に、待たせた私が悪いと解っていながらも少し呆れた表情を向けました。
「余程待ったのかい?」
「昼飯一杯分くらいはね」
「急いで上がって来たつもりだったのだけれど。判った、昼飯は僕が奢るよ」
 私は彼の隣に並んで眼下を眺めました。
「花屋敷の中がよく見えるな」
 眼を転じれば、瓢箪池と六区の映画館や芝居小屋のにぎわいが見え、更に視線を上げて遠方に向ければ遠く町並みが見渡せるのでした。
「周りに、此処より高い建物が一つもないのだね」
 私の言葉に彼は怪訝な顔付きになり、「十二階より高い建物なんてあるものか」と云いました。まるで、おかしな事を云う奴だとでも云いたげな様子でした。
「ああ、そうか。そうだね」
「何だか君、今日は変だよ」
 彼は苦笑いを浮かべ、ともかく昼飯でも食おうよと云いました。
 私達は十二階を下りると、彼が美味いと評した鰻屋に行き昼食をとりました。
 腹ごしらえの済んだ後、暇にまかせて六区や奥山の見世物小屋をひやかして歩きました。
 その一つ、『神秘 鳥娘』と云う何とも馬鹿々々しくて大仰な看板と、「さァさァ、この世の神秘。翼の生えた娘。有り難くも西洋で云う処の天使さまが見られるよゥ」と云う威勢の良い呼び込みに釣られて寄って行ってみると、その馬鹿々々しさの割に小屋の前は大層なにぎわいを見せていました。
「天使ねえ」と看板を見上げた彼が疑わしげな声で云い、すぐ近くにいる木戸番に顔を向けました。
「板に血を塗って大鼬とか云うのと同じ類じゃあるまいね」
 彼の意地の悪い問い掛けに、しかし木戸番も負けてはいなく、平ちゃらな顔で、「さてさて、其奴は御覧になれば判りまさァ。一度見といて損はなし」とかわします。
 どうするね、と彼は私の方を見ました。
 それであれこれ迷った末、結局入ってみようと云う事になり、私達は木戸銭を払って小屋の戸をくぐりました。
 小屋の中は思っていた以上に込み合って、人いきれで息苦しい程でした。中は十畳程の広さがあり、外の光が入らないようになっている上に、ランプが数個下がっているだけなので、昼間なのに薄暗く、三人隣の人の顔がかろうじて解るくらいの明るさしかありません。
 客と見世物を仕切った柵の向こう、仄明るいランプの燈に、ぼうっと幼い娘の姿が浮かび上がって見えました。
 ふうんと彼は感心したような声を上げました。きっと、中々良くできているとでも云いたかったのでしょう。
 大方の人はガマセモン、つまりインチキな物と了解して見ているのでしょうけれど、彼が感心したように確かに良くできている見世物でした。
「成程、西洋で云う処の天使、か」と云った私の言葉に、「天使って神の使いだろう。こんな処で見世物になぞして良いのかねえ」とくっくっと笑って彼が云いました。
「羽根があるって事は、鳥みたいに天使も卵から孵るのかな」
「腹から生まれるよりは、その方がらしいね」
 そんな事を話している内に益々人が増えてきたので、私達は人をかき分けて小屋の外へ出ました。瓢箪池の畔まで来て、私達はようやく一息つく事ができました。
「ああ、酷い混みようだった」
 そう云って空を見上げた私の視界を、何羽もの鳩が観音堂の屋根に向かって横切って行きました。境内で鳩にあげるための豆を売っていますから、昔も今も変わらず鳩が多いのです。鳩を眼で追っていた私の口から、ふと言葉が零れました。
「『僕が神様だったら君に翼を上げよう』」
 私の呟きに、彼が不思議そうな眼を向けました。
「何だい、それは」
「いつか読んだ本に書いてあった言葉。何の本だったか忘れてしまったけど。あの子と、それと鳩を見ていたら、その言葉だけ思い出した」
 翼を上げようか、と彼は呟き、「それなら僕は白い羽根の奴が良いね。あの子のような」と微笑いました。
「でもあの子は、籠の中の鳥のような眼をしていたね」
「そうかな」
 私は彼の言葉に首をかしげました。
「うん、そうだったよ。哀しげで諦めの眼だ。籠の中から飛び出せば、本当は空を飛び回れる羽根を持っているのに、どうして良いのか解らない。いや、本当はどうしたら良いかは解っているけれど、飛び出す勇気がない。自分を持て余している。そんな眼だよ」
 私は何だか自分の事を云われているような気がして、落ち着きませんでした。何かし私のすべき事が何処かにあって、私を待っている。そう思って気持ちは焦っているのに、どうしたら良いのか解らない。いや、一歩踏み出す勇気がない。まさに私の気持ちそのものでした。
 しかし私の心中を知ってか知らずか、彼は傾き始めた日差しに反射している池を眺め、今度はこんな事を云いました。
「浅草へ来ると、郷愁に駆られやしないかい。派手でにぎやかで、享楽にあふれているのに、何処か淋しく哀れに見える」
 私は彼の言葉に釣られて、池へ眼を向けました。
「ああ、そうだね。にぎやかであればある程淋しい気持ちになる。暖かな自分の家を無性に恋しく思い出させるような処があるね」
 そう云いながら私はふと下宿の部屋を思い出し、それがまた酷く私には恋しく感じられました。
 そうして良く考えもせずに、「もうそろそろ帰らないと」と私は云いました。
「帰る?一体何処へ?」
「何処へって……勿論、家へだよ」
「……そう」
「今日は愉しかったな。全く不思議な事ばかりだったもの」
 今まで何とも思っていなかった数々の出来事、十二階や瓢箪池、周りを行く人々の格好を見たときの驚きが、今更ながら甦って来た私は彼の様子の変化にまったく気づきませんでした。
 私の言葉を聞いて、彼は淋しげにふと笑いました。
 その途端、急速に周りの喧噪が遠離ったように感じました。
 ようやく、私は取り返しの付かない事をしてしまったのに気付きました。しかし、そう思った時には既に遅かったのです。
 私は先刻の女の意味深長な問いを思い出しました。あれは私を試すための問いだったのでしょうか。それとも親切な忠告だったのでしょうか。
 彼は私に向かって何か云いました。けれどその言葉は、私の耳には届きませんでした。
 私はうろたえながらも彼に何か云おうとしました。何でも良いから話しかけなければと思ったのです。
 しかし私が口を開こうとした瞬間、横を通り過ぎようとしていた人とぶつかり、思わず後ろへよろけてしまいました。そして、私が体勢を立て直して顔を上げた時には、もはや其処に青年の姿はなく、私が独り残されていたのでした。
 周りには観光客やら花屋敷へ遊びに来た人たちやらが沢山いましたが、矢張り私は独りでした。
 道を行く人々は皆洋服で、和服姿の人は一人もいませんでしたし、瓢箪池のあった辺りは商店が建ち並び、十二階の建っていた処には白いコンクリートのビルがそびえているだけでした。
 普段見慣れた風景なのに、今の私には嫌によそよそしく感じらてなりませんでした。
 ほんの数時間の間に、もう其処は私の親しんだ浅草ではなくなってしまったのです。


 余計な事まで書いて随分長くなってしまいましたが、これが先日私の体験した出来事です。信じてもらえるかどうか判りませんけれど、すべて本当の事なのです。決して嘘を吐いている訳でも、私の頭がどうにかなったのではありません。
 あの日から、私は私の友人だと云う青年をずっと待っていました。
 いつ会えるとも解らぬ相手を待ち続けて一ヶ月、年に一度の三社祭のにぎわいの中で、ようやく私は彼に会えるようです。
 どうしてそう思うのか、私にも解りません。けれど今日、もう一度あの青年に会えると云う事、そしてあの街に行ける事は解るのです。
 思えばあの青年も、バイオリン弾きの少年も、いえ、あの街自体が、私を迎えるために長い時間を掛けて、少しずつ私をひき寄せて来たように思えます。私を試すような問い掛けをしたあの女性にしてもそうです。
 何故私なのかは解りません。
 おそらく私の他にも同じように、あの街へ呼ばれて行った人がいるのでしょう。


 私は自分が生まれた時代を間違えたとは思いません。けれど、私は過去の、自分が生まれた時よりも更に昔の生活に憧れていたのは事実です。そんな私の気持ちを、あの街は私が自覚するよりも遥か以前に気付いて、私を呼び寄せようとして来たのでしょうか。それとも、あの青年に出会った事が、私を過去へと引き付ける原因となったのでしょうか。
 あるいはその両方なのかも知れません。
 一週間前、本当なら私はあの街の住人になるはずだったのでしょう。けれど私は戻って来てしまった。こんな私を、彼らはまだ見捨てないでいてくれたようです。
 この機会を、私は逃すつもりはありません。もう、間違えたりしません。
 そして、いよいよ私は過去の住人となるのです。あるいはこの東京と云う都市の見る夢の中の住人に。其処には、もはや失われてしまったものたちばかりが暮らしているのです。
 多分もう貴方と会う事もないでしょう。いえ、貴方だけでなく私の家族、友人、この世界で私と関わりのある人々とは恐らく二度と会う事はありますまい。
 それでも、貴方は街の中で私の姿を見掛ける事があるかも知れません。その時は、私を連れ戻すためならば、どうか声は掛けずにおいて下さい。そして、貴方がもしこの刻の硲の住人になりたいのであれば、そっと私の後に付いていらっしゃい。きっと、貴方は其処へたどり着けるでしょう。
 ああ、遠くでヴァイオリンの音がします。鳥打ち帽を被った少年のヴァイオリンに違いありません。そしてあの青年がきっと私を待っているはずです。
 そろそろ行かなければなりません。
 では、左様なら。



  --了--



 



★あとがき★

なんとも暗い話ですね。そして自分の願望をそのまま書いたような話です。
余りにもそのままなので、最初この話を便箋に書いて友人宅に送りつけてみようかとも思ったのですが、悪趣味なので止めました。

ちなみに、この話を書くに当たって参考にさせていただいた本は、次の通りです。

 『浅草 その黄金時代のはなし』 高見順 編 新評社
 『なつかしき東京』 石黒敬章 編 講談社
 『明治大正風俗語典』 槌田満文  角川書店
 『明治事物起源事典』 至文堂
 『図説 明治事物起源事典』 湯本豪一  柏書房
 『復刻版 大東京写真案内』 博文館新社
 『夜想14 特集:モダン』 ペヨトル工房

それと話の中に出て来る、「僕が神様だったら君に翼を上げよう」と云う言葉の出典は、串田孫一の『光の神話1』(じゃこめてい出版)です。この本は四季折々の花や鳥や植物の写真に合わせて、文章の付けられた素敵な本です。



 

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