百合
窓辺に彼女が居る。
真っ白い肌、対照的な長い黒髮を背に垂らし、薄い浅葱の地に可憐な野花を染めた絽の着物を着ている。
燈の無い部屋の中で、窓から差し込む月光に照らされたその姿は、光と影で描かれた色の無い写真のようであった。
私は部屋の真ん中に坐って、何をするでもなくただじっと彼女を見つめて居る。 心地良い静寂の中で、私の心は不思議と満ち足りていた。
彼女がゆっくりと私を見た。
振り向いたその顔は、あどけない少女であり艷のある女であった。あるいは少女でも女でも無いのかもしれなかった。彼女は少女から女へと成長する、ちょうど間の不安定な存在であった。
彼女の顔を見た瞬間、私は酷く懐かしい想いに襲われた。
私は確かに彼女を知っていた。知っているのに、どうしても名前が思い出せない。記憶の沼から浮かび上がったものの、巧くすくい上げる事が出来ずに、再び記憶の深淵の底へ沈んで行ってしまった、そんな感覚だった。もう二度と取り返しのつかない事のように思われた。
私は彼女の名を呼びたくて仕様がないのに呼べないもどかしさに苛立った。
彼女が私を呼んだ。
彼女も私を知っている。そう、よく知っているのだ。何と呼んだのかは判らなかったが、彼女は私の事を呼んだのだから。
けれど、彼女は一体私を何と呼んだのだろう。 私は彼女の声を聞いた事で、一層激しい焦燥に駆られた。
何故思い出せないのだろうか。私は彼女をよく知っている筈なのに。
「月がとても綺麗」
うっとりと空を見上げ彼女が呟く。 私は立ち上がると彼女の傍らに行って月を見上げた。下弦の月が眩しいくらいに輝いていた。
私は眼を細め、「ああ、本当だ」と云った。 彼女はそれを聞いて満足そうに微笑んだ。
会話は途切れ、静寂が私たちを包む。普段ならば気詰まりな筈のそれは、不思議と私に安らぎを与えてくれた。
改めて部屋を見回すと、この部屋にも見覚えがあった。 そうだ、私は彼女とよく此処で会っていたではないか。
ふと、部屋の隅の机の上に、白い百合が一本生けてあるのに眼が留まった。
百合。
私はそれにとても大切な意味があるような気がして、その意味を見極めようと、薄暗い部屋の中に浮かび上がる百合の姿を見つめ続けた。
「あの百合はね、」 彼女が私の視線に気づいて云う。 「わたしなの」 私は何と答えたらよいか判らず困惑する。
彼女もそんな私の様子に困ったような顔で笑った。そして窓の外に眼をやり、今度は悲しいような寂しいような顔をした。
「もう夜が明けてしまう」 私は空を見る。 空は白み掛け、月が懸命に最後の輝きを放っている。
彼女は、私がもう此処から帰らなくてはいけないと云う。
私は仕方ない、と思い帰ろうとした。すると彼女は私を呼び止め、今夜も来て欲しいと云う。 私は来られたら来ると答え、部屋を出た。
気附くと私は自分の下宿の布団の中に居た。 一体何時どうやって帰って来たのか判らない。
そもそも、あの場所にどうやって行ったのか、あの場所は何処にあるのかさえ、私には判らなかった。女の顔もよく思い出せず、ぼんやりとした心象と懐かしい想いだけが、古びた追憶のように残っていた。
私は、彼女との約束は守れないかも知れないと思った。
しかし、夜になると私は彼女の部屋に居るのだった。
やはり、どうやって此処まで来たのかは判らない。 それは一つの誓いのように毎夜繰り返された。
劇場で演じられる出し物のように、同じ舞台、同じ人物、それでもほんの少し何かが違う。
彼女は何時も同じ姿で窓辺に坐り、月の光を浴びながら私を待っている。
一体、この夜更けの訪問は何時から始められたのだろう。そして何時まで続くのか。
私は何時かは訪れるであろう終わりを予感する時、胸を締め付けられる想いに囚われる。
私は懸命に考えまいとした。今はそんな事を考える必要は無い。忘れてしまうのが良い。そう自分に言い聞かせて。
私たちの夜は、長い静寂と時折交わされる短い会話、それがすべてであった。
思い出せない焦燥感は常に私に付いて回ったが、それでもこの逢瀬は私にとって心の安らぎであった。
不思議と彼女に対して、私は恋慕の情というものを持たなかった。いや、持ってはいけないと思っているのだ。どうしてかは判らない。きっとすべてを思い出せれば判るのだろう。
月光の下に佇む彼女を見ている内に、昼の光ならば彼女をどんな風に映し出すだろうかという思いが、何時しか私の中に芽生えた。
「昼間に会う事は出来ないのだろうか」 ある夜、私は思いきって彼女にそう尋ねてみた。
彼女は少し驚いた顔をした後、悲し気に眼を伏せわずかに首を横に動かす。
「わたしは月光を集めて映し出した、幻燈機の映し絵のようなものです。淡く優しい月の光の中でなければ生きられないのです。昼の強い光の下では、わたしの姿は霞んでしまうでしょう」
それを聞いて、私はとても悲しく思った。
彼女が私を呼んだ。
何と呼んだか判らないが、確かに彼女は私を呼んだのだ。 一体何と呼んだのだろう。 名前?
いや、名前ではなかった。 もう一度、もう一度私を呼んでくれないだろうか。そうしたらすべてを思い出せるかも知れない。
しかし彼女は困った顔をして笑うと、空を見上げ、私にもう帰らなくてはいけないと云う。
私は仕方がないと思い、何時もと同じように知らぬ内に自分の部屋に戻った。
夜、彼女の部屋は百合の甘い芳香で満ちている。 私はじっと机の上の百合を見つめる。
これにはとても大切な意味があるような気がしてならない。忘れてはいけない大切な意味がきっとあるのだ。私はその意味を知っていたに違いない。知っていたのに忘れてしまったのだ。彼女の名前と一緒に。
彼女はこの百合は自分だと云う。ならば、白日のもとでは、この百合も見えなくなってしまうのだろうか。
彼女は百合の傍らに立ち、白い滑らかな花弁をそっと撫でる。花に顔を近付けて、うっとりと眼を閉じ動かない。私は二つの百合を黙って眺めている。
「憶えている?」 私の場所からでは彼女の唇が見えないので、その声は一瞬百合の花からしたように聞こえた。
彼女はゆっくりと私の方を向き、微笑んだ。 「わたしに百合の花をくれたでしょう」
百合。
ああ、そうだ。私は彼女に百合の花を贈った。彼女が逝ってしまったあの時に。
何故判らなかったのだろう。彼女は私の事を呼んでいたではないか。
兄様と
加奈。
初夏、梅雨の明けたばかりの夜に逝ってしまった私の妹。
病弱で何時も寂しげに窓から外を見ていた。外へ自由に出る事も出来ず、私が持ち帰る話を嬉しそうに聞いてくれた。
妹が逝った日、私は側に居てやれなかった。下宿で妹の悲報を受け取ると、私は取る物も取り敢えず家へ戻ったのだ。
妹の顔は、まるで眠って居るかのようだった。
妹の部屋から庭を見ると、月の光に照らされて百合の花が咲いていた。妹の頼みで植えたのだと云う。寂しげに佇む姿が何処か妹に似ていると思った。
私は妹の棺の中に、その百合の花を入れてやった。
私は彼女を見る。彼女は胸に百合を抱き静かに佇んでいた。
「兄様、百合を有り難う」 彼女はそう云って微笑んだ。
気付くと私は下宿の自分の部屋に居た。
まだ夜は明けていないというのに。 私は何だか悲しくなった。
きっともう彼女に会う事は無いだろう。私には判るのだ。夜になっても、私は彼女の居るあの部屋には行けないに違いない。
今までの事が夢の中の出来事のように思えて来る。それとも夢だったのだろうか。 そう思いながらも、私は夢ではない事を知っている。
私は窓際に坐って月を見上げた。 青白い月光が分けへだて無く、すべてのものに優しく降り注ぐ。愚かな私にさえも。
私は眼を閉じた。
私の服から、甘い百合の香が仄かに香った。
−了−
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