2005年10月例会報告     過去の例会へ ホームへ../zhong_yang_yan_xian_li_kesakuruHP/guo_quno_li_hui.html../zhong_yang_yan_xian_li_kesakuruHP/homu.htmlshapeimage_1_link_0shapeimage_1_link_1
 


日 時/10月28日(金)18:30〜21:30

場 所/国分寺市本多公民館

参加者/小川・酒巻・鈴木あ・鷹取・町田・吉村・堀


 学校内外で忙しくてなかなか開始時刻に集まれず、しかも参加者も少なかったですが、充実した話し合いができました。今回予定されていた鷹取さんの「中学校における細胞の学習」と、堀の「エクアドル・アマゾン源流の旅」は次回に持ち越し、小川さんの「運動力学」も次回に続くこととなりました。

 お二人のレポート以外に資料として、私が多摩動物公園で多少多めにもらってきた以下のパンフを置いておきました。

 ・「動物の歯と食べもの(おとな用)」・「どうぶつ動物のは歯とた食べもの(子ども用)」

 ・「哺乳類の進化と分類(おとな用)」・「ほにゅうるい乳類のしんか進化とぶんるい分類(子ども用)」

ただし重なっていたために4種全部とられていない方がいらっしゃったかもしれません。申しわけありません。次回にまた持っていきます。


1)ビデオ「そのとき歴史が動いた=百世の安堵をはかれ

〜安政大地震・奇跡の復興劇〜(NHK/2005年10月26日再放送)」:堀雅敏

 みんなが集まるまでの間ということで、つい先日再放送となった番組を途中まで視聴していただきました。「実践記録集」23集に「稲むらの火」のことを鷹取さんが詳しく書かれていらっしゃいます。あわせてこのビデオも教材になると思います。

江戸と銚子で大きな醤油屋を営む濱口梧陵( マグチゴリョウ)は、1年の半分以上を過ごすふるさと紀州広村(現在の和歌山県広川町)で安政元年に起きた大地震(1854年11月5日午後4時頃。マグニチュード8.4)に遭遇する。地震の後、海の方を確認して津波が来ることを確信し、村人に高台に逃げるよう告げて廻る。さらに、逃げ遅れた村人が暗闇の中方向を見失ったのを見ると、稲むらに火をつけて位置を知らせ、村人の97%を救った。その後不安で村を去る人が続出する中、「百世の安堵をはかれ」(濱口)と、私財をなげうって村人と共に大堤防を築き上げる。

以上のような史実に沿った内容が、再現ドラマと実写、コンピュータグラフィックス、京都大学による解析データの画像などで構成されたものです。


2)『理科教室』2005年10月号を読んで

「高等学校教育と自然科学教育」:鷹取健

 A4版8枚に及ぶ詳細なレポートをもとに報告がありました。「特集によせて」と特集論文以外にも「コラム」(尾形健二)、Ecocide/Eco-side(千石正一)、「細胞学習無用論科教協大勢論」への疑義(高橋哲郎)、実践研究をすすめた大森平生さん(江川多喜雄)と幅広く(最後の二つは時間の関係で報告は省略)読後のお考えを述べられました。

 小川さんの、コラムに関連してお嬢さんの高校では「2年生で理系と文系を決める。早すぎる。」という発言から話し合いが始まりました。鈴木さんの学校では高1で2時間しか理科の時間がなく、科学的な思考に慣れることがなく、「かったるい」などと、科学に対する抵抗感があるといいます。町田さんの高校では、やはり2年生で理系と文系に分けるそうです。理系は物理、化学、生物を履修し、3年生で物理?、生物?、化学?から3時間を選択するそうです。文系にも文系だけの物理の授業もあるそうですが、毎年希望者が数人。コーヒーを飲みながらブルーバックスを読み合っているそうです。2年では3単位の理科基礎。町田さんは「理科基礎はやめた方がいい。これが教科書か?というもので、考える内容がない。」と言います。

 鷹取さんが、「1つの教科として科学史をやろうというが、大学で科学史の講座を持っているところはほとんどない。教科書に書くにしても大幅に削られ、書きたいことが書けない問題点も10月号降幡論文にも出ている。」と問題点を指摘すると、町田さんは、「力学のようなところでも、アリストテレス、ガリレオ、ケプラーなどが出てくるが、単にエピソードがコラム的にならべられているだけで積み重ねはない。そして最後に突然万有引力の式が出てくる。理由もわからず暗記するようなものだ。」と答えていました。なぜそのような式が生み出されたのか、科学の成果をどのように積み上げてきた結果なのか、きちんと順を追った説明になっていないというのです。町田さんはさらに、「教師が科学史の背景を知って授業するのはいいが、生徒に科学史そのものを教えようとするのが理科基礎であり、これは問題である。」と言います。

 学校種に限らず、文科省の押しつける学習指導要領ではけっして子ども達が理解することはできず、したがって楽しくもない“学習”が展開されることになるのだという思いを新たにしました。


3)「力と運動(中3)」:小川郁

 指導計画と生徒の予想分布、話し合いメモ、生徒の書き込みのある授業プリントで構成されたレポートと、実際の授業で使ったビデオ映像による報告でした。中心は、(課題6)の「一定の速さで走っている自転車から手に持ったボールをそっと放して落下させる。ボールが地面に落ちた瞬間の、自転車とボールの位置関係はどうなっているか。」という授業です。

 小川さんは、「慣性を理解させるのは本当に難しい。5クラスやると、だんだんと自分が何を書かせたいのかがわかってきて、そうなると子ども達の書く内容もしっかりとしてくる。」と話していました。授業プリントの子ども達の記述は、ほかの子の意見にも言及しながら自分の意見をよく書いていると思いました。鷹取さんによれば「単なるノートではなく、きちんとした授業プリントを用意したからだろう。」と言います。特にこの課題の場合は、小川さんが自転車に乗って走り、ボールを落とす瞬間の写真が課題に添えてあり、その下の自分の考えを書くところには、ボールを手から放した場所も確認できるように配慮しながらボールが地面についた時点の小川さんの写真が載っているので、子ども達にはイメージしやすかったのではないでしょうか。

 まず町田さんが、「自分の場合は摩擦をやって、摩擦がなかったら、で慣性に入る。これは逆になっているが。」と疑問を述べるところから話し合いが始まりました。小川さんは、「摩擦があるかないかは自明のこととしている。」と答えました。が、町田さんは、「エアートラックで、摩擦があるときは力を加えるとこのくらい動く。では、摩擦がないときに同じ力を加えると、どこまでいくか?とやったときに、余裕で行って戻ってくると考えた子は一人もいなかった。自明かと思っていたが、1時間やった方がいいと思った。」と考えを述べられました。

 小川さんは、「そのあたりは課題5でやっているつもり。」とのことでしたが、鷹取さんは、「課題5では鉛直方向だけで、課題6では水平方向になる。課題5のまとめではv-tグラフを書いている。課題6でもグラフを書いた方がいいのか?」。これに対しては町田さんから、「課題6でv-tグラフを書くとすれば横と縦に分けて書かないといけない。Wさん(生徒)の写真の線の方がいいだろう。これは慣性を理解した人でないと書けない。」という意見が出されました。Wさんの線については記録を見ていただくと一目瞭然ですが、ボールが等速で動いている縦線を何本か引き、それと交差するように横線を引いてボールの位置を示すというものです。これは、小川さんが授業でビデオをコマ送りで見せたことでイメージできた図ではないでしょうか。ビデオの大変有効な使い方といえると思います。

 ここで町田さんは、「どうしていつもア(自転車の前に落ちる)の意見が出てくるのかわからない。」と疑問を述べました。小川さんによれば、「自転車が止まっていると考えてしまうのではないか。」ということでした。

また鈴木さんが、「子ども達は、ボールは手に持っているだけであって、等速運動をしているとは思っていないのではないか。」と考えを出されました。小川さんはそんなはずはないという考えでしたが、町田さんからはかつてサークルで町田さんの慣性の授業について鷹取さんから指摘されて考え直した話が出されました。つまり、「電車が50km/hで等速運動しているとすると、電車に乗っている人は時速何?でうごいているの?」「それでは、電車に乗っている人の持っているボールは?」「電車の中の空気は?」とていねいに確認して行ってから課題を考えさせるというのです。

 鷹取さんは、「自転車の前に電車をやった方がいいのではないか。」という意見ですが、小川さんは、「電車には床があるが自転車にはない。観測者も自転車では動いていないが、電車の課題では動いている。」と条件の違いを問題にされていました。まだまだ課題の出し方や、どんな課題をどう組むかなど実践的に検討していく必要のある部分だという気持ちを持ちました。

 最後に吉村さんから、「課題6の前の課題5が適切かどうかわからない。」「v-tグラフとかs-tグラフとか出てくる。英語の問題かもしれないが、日本語では“時間と速度のグラフ”などという。独立変数、従属変数の順で言うべきではないか。」「力の合成・分解のところで、“斜面を走る台車の加速度は斜面の傾きが大きいほど大きくなるのは、台車が運動の向きに受ける力(合力)の大きさが大きいから”とあるが、合力ではなく分力ではないのか。」などいくつか疑問を出されました。時間がなく、最後の疑問について町田さんと吉村さんがお互いに図を書いて論を述べるところで終わりました。

         《堀 雅敏》