と き:2007年6月22日(金)18時30分から21時15分まで
ところ:国分寺市本多公民館会議室A
出席者:佐藤完二、鈴木まき子、鷹取健、吉村成公。
司会・記録:鷹取健
<報告1> 吉村 成公:中3の「地球と宇宙」の学習(2)
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5月例会につづく第2回の実践報告である。ただ、指導内容の他に膨大な教材と授業の記録とがあって、今回は「.太陽系」では何を教えるか??どう教えているか??という報告があった。
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中学校第3学年で行う場合の内容構成
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.身近な天体の運行と地球
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.太陽系
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.私たちが住む銀河系、銀河.太陽系
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1 太陽系(1時間)
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(1)〔学習課題〕地球のように太陽の周りを公転する天体をたくさんあげなさい。
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(2)太陽系の様子を図示して説明する。
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(3)地球の誕生と自転・公転の向き、公転の周期。岩石惑星、巨大ガス惑星、巨大氷惑星
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(1)のあと(2)で、円盤状(例CD)の構造とそこに存在するメちりモが力学的な運動によって形成される状況を解説する。
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ボールペンの握り部分の中に紐を通しておき、その紐の先には消しゴムを結びつけてある。たとえば、右手でボールペンの握りを持って消しゴムを振り回しつつ、左手で紐を鉛直下向きにゆっくりと引っ張る。すなわち、消しゴムの運動の半径が次第に小さくなるにつれて速度は大きくなるノノ。このシュミレーションで周囲のメちりモを集めていったと説明する訳である。これで生徒は納得する。
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また<読み物>「今も残る太古の運動 地球の公転と自転」は図解で、『21世紀の学力を育てる中学理科の授業第2分野』(吉村成公、星の環会、2001年)p.141掲載分を利用している。
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惑星の分類は躊躇することなく3区分している。これは地球型惑星・木星型惑星・天王星型惑星ともいわれるが、生徒はどちらがなじみやすいか。
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太陽系の惑星諸データについては前掲書では太陽系からの距離、公転周期、半径、質量、平均密度、衛星数、リング、大気が扱われている(p.161)。佐藤完二さんは表面温度を加えたらよいのではないか、と発言。このことから各天体のメ違いモを考えさせることができるという。いわばその特徴が見えてくる。
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なお、大気については、吉村さんは有無の区別をしているけれども、これは大気の主成分をも記した方がよいのではないか。
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2 太陽の特徴(1時間)
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(1)自ら輝く星、恒星、星座をつくる星の仲間。
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(2)太陽系の99.9%以上の物質が太陽に集まる。
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(3)中心部は1500万?、核融合反応(4H→He+エネルギー)。
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(4)球体で自転。太陽が誕生したときの様子を引き継ぐ(黒点の観察から)。
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<読み物>「太陽の大きさと内部構造」を与え、太陽のエネルギー源が水素核融合反応によるという大胆な説明を試みている。「太陽は50億年後にその一生を終わる」という文で終わっている(前掲書p.149)。核融合反応は「物理」の領域で教科書に記載されているけれど、物理でさえ扱われることなく済んでしまうようであるが、やはり扱うべきだろう。
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3 惑星の見え方(1時間)
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(1)内惑星と外惑星
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(2)地球を固定して考える。
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〔作業〕金星と火星の夜の部分を塗りつぶす。惑星の満ち欠けの有無、見かけの大きさの変化、見える方向の制限の有無。夜空での見え方(場所)。
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〔練習問題〕(省略)
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教科書の記述では内惑星に限っているが、ここでは外惑星も扱うなかで理解もすすむとされている。
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<報告2> 佐藤 完二:小学校における地学教育の内容と教材
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自明のようで未だ明確になっていない地球科学の研究対象についての問題点を紹介しながら話が始まった。話は、地学教育の目標についても同様であるが一応次のように記述された。
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「地学(地球科学)は、地球創世物質の移動と集積を研究する学問である」
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(1)地球創世物質とは何か??その移動と集積の状況??
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(2)地球で形成された造岩鉱物
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(3)小学校や中学校で教える内容??体系化の作業??
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このうち(1)(2)については『仲間たち』(自然科学教育研究所機関紙、No.147、2007年6月1日)掲載の論文「なぜ子どもに地学を学ばせるのか」に基づいて提案があった。この提案に異論が出たりはしなかった。「元素」や「鉱物」「岩石」の学習の保障と地球の歴史を国民共通教養としたいという主張には出席者は賛同している。
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佐藤さんの提案は、小学校第5学年で扱う内容として流水(川)のようすとその働き、および流水にかかわる地形の形成や災害についての学習を組織する、という。その構成は、山地から海までの流水のようすと運搬される礫・砂・泥、堆積、地形の形成と災害など全7時間で指導するという。
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1.川の働き(4時間)
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〔作業課題〕川のはじまりはどこか、地図帳で調べよう。
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〔課題1〕1週間雨がふらなくても川の水がなくならないのはなぜですか。
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〔課題2〕水がにごるのはどっちですか(水中の小石と土で比較)。
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〔課題3〕じゃりと砂と土をまぜてふるいでふるってみよう。
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〔課題4〕山に雨がふって川の水が増えると、つもっていたれきや砂やどろはどうなりますか。
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2.川と地形(3時間)
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〔課題5〕山に大雨が降って川の水が増えると、れきや砂やどろはどうなりますか。
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〔課題6〕写真の三角形の地形はどうやってできましたか(扇状地の形成、土石流災害)。
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〔課題7〕日本のいろいろな場所で川が作った地形を調べよう(V字谷、三角州、三日月湖、平野)。
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堆積岩を粒径で分類することを教え、実際に篩を使わせる。これは興味が集中するようで、流水の働きの学習に現実感を付与するように思われる。
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〔課題4〕と〔課題5〕とは取り上げる現象や学習内容がダブっているようにもみえる。これは、実際の授業の進行のなかでダブることがあるし、別々の問題として取り組まれることもあるのかもしれない。
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この提案には4月例会で鷹取が報告した「扇状地の学習」が反映されている。土石流による災害が扱われていて、人々が扇状地に生活する実態を現実感をもって臨めるような配慮がある。
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<報告3> 鷹取 健:武蔵野台地に作られた玉川上水
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地域の地学的な現象の認識は、人類の具体的な自然への働きかけをみることで可能になる。武蔵野段丘上に西から東に作られた玉川上水は、立川断層と残堀川とのかかわりを抜きに考えられない。むしろこの地域の工事を探ることで、江戸時代の土木技術が見えてくる。
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今回の報告は立川市内の玉川上水を対象にして「玉川上水の工事」の実際をとらえることをしてみたり、立川断層の構造の把握を具体的に試みる例を図版と現地の映像(ビデオ)をもとにして説明してみた。
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(1)立川断層を見る
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現地で断層撓曲面を観察することができる。ただし、人工的に改変されているし、風雨にさらされて原形をとどめているとは言えない。フィールドワーク時に断層撓曲面を観察したが、そのときの写真映像を見ながら、坂道の傾斜の状況をつぶさに検討して道路工事の様子を想像していった。1:5000の地形図では、工事跡が道路では等高線が坂上に向かって伸びている??掘削・除去してある??ことが明瞭である。各々2カ所伸びているし、このことで斜面が緩やかなものに改変されている状況が把握できる。この状況は金比羅橋付近でも確認できる。
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土地条件図「八王子」と対比して考察を進めてみるのがよいと思った。断層撓曲部を国土地理院では単に「斜面」としか記載していない。
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(2)砂川町付近の海抜高度と玉川上水の工事
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繰り返し述べた「海抜104m」というのが見影橋付近の地面の様子である。この立川面を約2m掘り下げ、掘り上げた土砂を左右の土手として盛り上げ整備していっているが、見影橋付近では土手は低く、隣接の道路面も低い。見影橋公園付近では道路が低く、実は立川断層撓曲部までの400mの距離分は盛り土して堤防を築いているのである。低地のために「築樋」をしている。
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西武立川駅の方から武蔵砂川駅に(東に)向かって徐々に低くなってきているが、海抜106mの手前で、すなわち立川断層直前で102m程度の海抜高度になっていた。
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玉川上水が立川断層を横切る立川市砂川三番付近での断層崖の比高は3mほどである。上水の下流に向かって東方を見ると、左岸に隣接している道路は切り通しで金比羅橋に至る。右岸の道路は見影橋公園付近をすぎると急な坂道を登ることになる。この坂道が断層部になることは言うまでもない。左岸からは右岸の南方の民家がその2階から見えて階下の部分が全く見えないところがある。
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(3)残堀川の移し替え
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残堀川の現在をフィールドワーク参加のみなさんに紹介・説明はできなかったが、旧流路の西600mのところで残堀川を玉川上水に合流させたのである。合流地点ではその残堀川の下流は無かった訳で、作られたのは明治時代である(1903年)。
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計画された玉川上水の水路(底)が当時の残堀川の河床よりも高かったためで、以後増水したときには旧流路を流れる濁流が玉川上水に入り込んだ事が知られている。
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「伏せ越し」工事は残堀川、玉川上水の二つについて順次行われた。すなわち、明治時代になってから、残堀川が狭山池下流汚水排除溝と東京都水道局によって名義変更が行われて「合流」から交差に変えられて残堀川の下流部が土地買収の結果、建設されたことによる。はじめは残堀川が玉川上水の下を潜り、流木・芥が引っかかると、次いで玉川上水が残堀川の下を潜ることにしたのである。
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(4)新田開発
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早期の新田開発は玉川上水の分水ができたことで実施され、成功をおさめた。砂川分水は上水ができて3年後の1657年に作られ、砂川新田が開かれたし、この東側の小川新田も同年小川分水が引かれたからであった。
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(5)小川村地割図
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青梅街道と玉川上水との間に、南北方向に行われた地割りは、現在では原形をとどめているところは少ない。残っている「大けやき通り」をフィールドワーク時に紹介したが、図は1674年ころのもので、貴重な史跡という意味で、この通りをビデオのメインタイトルに使ってみた。ビデオ「玉川上水の工事」(アスペクト比16:9)は長さ7分30秒程である。