註


註1)
「死者の書」監督・脚本 川本喜八郎 2005年 日本映画
 1時間10分 制作配給 桜映画社
2005年ザグレブ国際アニメーション映画祭(クロアチア)長編部門審査員特別栄誉賞
2005年度文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞

 映画パンフレットの監督フィルモグラフィーの項には、この監督の、内外で数々の賞をうけてきた作品経歴が書かれている。1925年生まれで、現在日本アニメーション協会会長。パンフレットに寄せられた一文を読むと、氏は30年前に小説『死者の書』に出会い、1987年には、この作品のシナリオスケッチと絵コンテの第一稿を完成させていた、とあるから、20年以上構想をあたためていたことになる。作品舞台になる奈良には何度も通い、文中「この作品が実現することはまあ無いだろう、と思いながらも、正月の二日、先ず當麻寺。ここで「『死者の書』が実現できますように」と書いて護摩を焚いてもらった。」とあるのは、感興を誘うエピソードだ。

註2)
「僕は小説の「時」が物語を解り難くしている、と睨んだ。そして、物語を時間通りに置き換えて並べてみた」(川本喜八郎「「死者の書」への思い」・映画パンフレットより)

 こうして判りやすく編みかえられたストーリーは、小学校の高学年くらいの子供から十分楽しめるとおもう。ただ原作があまりにも古代社会に関する作者の学識や見識や感受性を凝集したような作品なので、いわれていることの意味を把握しようとすると、観客の誰もが勝手のわからない古代世界にまよいこんだような「子供」たらざるを得ない、というところがあるかもしれない。映画をみて、もし多くのひとが原作小説を読んでみたくなったとすれば、それは監督の意図に大いにかなうことだろうと思う。

註3)
 いわずもがなのことかもしれないが、人形アニメーションということは、人形劇というのとは違う。撮影は一秒24コマという映画フィルムの一コマ一コマを少しずつ人形の動きをかえて撮影していく、といった気の遠くなるような作業が中心になるようだ(一日かかって5秒分くらい撮影された日のことが、パンフレットの「制作日誌」にみえる)。そうすることで、たとえば人形が歩行するときの、衣服のすそが微妙に風に乱れるような様子も自然に表現される。映画では、そういう手作業に、ところどころ描画されたアニメーション画像が重ねられている。これは火や水の処理でとくに印象にのこった。実はこの火や水の処理はすこし気になったところだ。自然さ、といういみで、流体の動きがもうすこしぎくしゃくしてもいいから、なにか別の手法で撮影したほうが、画面に統一感があるような気がしたのだ。ついでにいうと、大伴家持(おおとものやかもち)と恵美押勝(えみのおしかつ)が対座して歓談する場面では、人形のはだけた襟元からのぞく首の部分のしわがめだつのがすこし気になった。パンフレットの森まさあき氏の一文に「川本監督自らの制作による人形達は、とても精巧に作られた金属製の骨組みに、硬いプラスチックで作られた頭(かしら)、フォームラテックス製の手足、ウレタン製の胴体、そしてその上から衣裳を丁寧に着せたもので、着物の袖口や裾にはコマ撮りが可能なように細いワイヤーや銅版が仕込まれています」とあるから、このウレタンの胴体にできたしわだと思う。

 人形の動きが自然だと、ついそれがコマ撮りされたアニメーション映像だということを忘れてしまう。ごくふつうの人形劇のように、なにかの仕掛けで人形をスムースに動かしているのを実写しているような錯覚におちいるのだ。いくつか気になった点をあげたけれど、そういう些末なことを別にすれば、この映画の制作技術は、素人目にもとても高度なもののように思えたということは強調しておきたいところだ。
 「死者の書」を人形で演ずる、ということに関しては、人形作家の監督の脳裏に最初文楽の中将姫が下地に浮かんだであろうことは想像できそうな気がする。人形ならではの効果、ということについて、映画パンフレットで二人の評者がふれられている。

「人形達はまことにリアルに精妙に作られておりそれぞれきわめて魅惑的だが、人形というものの性質上、あいまいな表情や動きが余計な付加物として入り込んで来ることがない。表情も動きもリアルでありながら象徴的であり、ふしぎな生命感があふれていながらくっきりとした様式感がしみとおっている。」(粟津則雄「「古代」にじかに触れる」)
「人形ならではの演技、生身の俳優にお出ましいただくと困る。「死者の書」はこわれてしまっただろう。」(片倉ともこ「たおやかな魂がボーダーをこえる」)

註4)
中将姫本地
 「お伽草子。奈良期のとき、横佩(よこはき)右大臣豊成の女中将姫、三歳にして母を失った。七歳の時。父豊成は後妻を迎えたが、その継母は心の悪い女で、中将姫を憎んでいた。姫君が十三歳のとき、ならびなき美人だと聞いて帝は入内させるように命じた。継母はそれを快く思わず、男が姫君の局を出入りしているようにこしらえて、夫にいつわりつげた。そこで豊成は非常に怒り、武士に命じて紀州有田郡雲雀山につれ出して斬らせた。武士は情ある者であったので、助けて山中であつくお世話した。のち豊成はここに狩をして娘に再会し、妻の讒言であったことが判り家につれもどった。帝は后に立てんとしたが、姫は無常を感じ、出家の志をたて、家を出て剃髪し当麻寺に篭った。阿弥陀・観音が尼となって現われ、中将姫を助けて蓮の糸で一丈五尺の曼陀羅を織り、のちに廿五菩薩の来迎を受けて極楽往生した。謡曲の雲雀山はこの伝説に基づいている。」(朝倉治彦、井之口章次、岡野弘彦、松前健編「神話伝説辞典」東京堂より)

 この辞典の解説には「お伽草子」のあらすじが解説されているが、映画「死者の書」のパンフレットにも、当麻寺現住職の松村實昭氏の書かれた一文が掲載されている。

 「この中将姫については、當麻寺だけでなく、各地に様々な伝承が伝えられており、また謡曲や浄瑠璃などで脚色された逸話も広く知られるようになり、それぞれに多少の違いは見られますが、一様に継母に苦しめられる艱難辛苦の物語として語り継がれています。
 奈良時代、藤原豊成の息女として生まれ、中将の位を授かり「中将姫」と呼ばれた彼女は、幼少より信仰心が厚く、「称讃浄土経」を常に暗誦していたといいます。五つの時に実母と死に別れ、翌年新しい母を迎えますが、この継母は中将姫の才色に嫉妬し、次第に憎むようになります。そして何度となく暗殺を企ててゆくのです。しかしその度に多くの者が身代わりとして命を落とします。姫の命は救われますが、心は救われることがありません。彼女は「称讃浄土経」の写経をはじめました。そして歳月が過ぎ、写経が一千巻を数えた16歳の年の彼岸中日、西方二上山の峯の間に夕日が沈みます。その落陽の光景に、彼女はしっかりと阿弥陀さまのお姿をご覧になり、極楽浄土の安らぎの境地を体感されたのでした。そのまま彼女はみほとけに導かれるように二上山の麓の當麻寺を訪れます。
 翌年、入山を許された彼女は、「法如」という名を授かり中之坊で尼僧となりました。そして、あの日二上山の落陽に観じた安らぎの境地を多くの人に伝えたいと願います。その切なる思いに阿弥陀様がお応えになり、観音様の化身を遣わし、法如に蓮の葉を集めさせ、その繊維により、一丈五尺四方もの大曼陀羅を織らせました。これが、阿弥陀様を中心とする、極楽浄土の光景と、その救いの境地を生きながら体感する観想法とが具さに描かれた「當麻曼陀羅」です。法如の願ったものが全てそこに表されていました。」(松村實昭「當麻曼陀羅 --中将姫の観た極楽浄土--」より)

註5)
「大津皇子 天智天皇二〜朱烏元・一〇・三(六六三〜六八六) 大和時代の歌人。『万葉集』に四首の歌、『懐風藻』に四首の詩がある。天武第三子(一説に長子)。母は天智皇女大田皇女(ひめみこ)。大伯皇女(おおくのひめみこ)の同母弟。文武に長じ、九歳のとき壬申の乱に参加、二十二歳で朝政参与。容止音辞にすぐれ、詩賦の祖とさえいわれた。聯句、臨終の詩と歌、詩を融合した歌が注目される。たくまれた謀反の廉で死を賜い、のち二上山に葬られ、この悲劇的事件をめぐる物語がいち早く作られ、その詩歌がもてはやされた。」(中西進)(新潮社「増補改訂 新潮日本文学辞典」より)

 ついでに漢詩集『懐風藻』の伝記の記載にあたってみた。よみ下し文を引用してみる。

「皇子は、浄御原(きよみはらの)帝の長子(ちょうし)なり。、器宇峻遠(きうしゆんえん)。幼年(えうねん)にして學(がく)を好み、博覧(はくらん)にして能(よ)く文(ぶん)を屬(つづ)る。壮(さかり)に及びて武を愛(この)み、多力にして能く剣を撃(う)つ。性頗(すこぶ)る放蕩(はうたう)にして、法度(はふど)に拘(かかは)れず、節(せつ)を降(くだ)して士(し)を禮(ゐや)びたまふ。是(こ)れに由(よ)りて人多く附託(ふたく)す。時に新羅(しらぎの)僧行心(ぎやうしん)といふもの有り、天文卜筮(てんもんぼくぜい)を解(し)る。皇子に詔(つ)げて曰はく、「太子の骨法(こつぱふ)、是(こ)れ人臣(じんしん)の相(さう)にあらず、此(こ)れを以(も)ちて久しく下位(かゐ)に在らば、恐るらくは身を全(また)くせざらむ」といふ。因(よ)りて逆謀(ぎやくぼう)を進む。此の☆誤(くわいご)に迷ひ、遂に不軌(ふき)を圖(はか)らす。嗚呼(ああ)惜しき哉(かも)。彼(の)の良才を蘊(つつ)みて、忠孝を以ちて身を保(たも)たず、此の★豎(かんじゆ)に近づきて、卒(つひ)に戮辱(りくじよく)を以ちて自(みずか)ら終(を)ふ。古人の交遊(かういう)を慎(つつし)みし意(こころ)、因りて以(おもひ)みれば深き哉(かも)。時に年二十四。」(岩波書店『日本古典文學大系69 懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋』より ☆=言偏に「圭」の字。★=女を二つ重ねた偏に、「干」の字)

 状貌魁梧(じょうぼうくわいご)とは、身体容貌が大きくたくましいことで、器宇峻遠(きうしゆんえん)は、人品(度量)が高く奥深いこと、と脚注にある。和歌にも漢詩にも通じ、二十二の若さで政治にも参画するほどの器量をもった人物でありながら、「あんたは王の顔をしている。人に仕えていたら身を滅ぼすだろう」というような、行心という僧侶の言葉に惑わされ、謀反を画策した罪で死罪に処されてしまわれた。惜しんでもあまりあることだ、というようなことがかかれている。脚注によれば、「持統前記」に「朱鳥元年(六八六)十月三日「賜死皇子大津於訳語田舎時年二四」とあるので、『懐風藻』の成立した七五一年からすれば、皇子の死は六五年ほど昔のことになり、この伝記自体後代のものといっていいと思うが、性情はかなり放蕩(やんちゃ者で、という感じだろうか)で、法規を無視することもしばしばあったけれど、高貴な身分でありながら、へりくだって人士を厚く礼遇したので、皆がこぞって付き従った、というところや、天文や占いに通じた僧侶にそそのかされて謀反を図ったというエピソードなど、同時代にみききしたもののように書かれているのは、そういうエピソードをふくむ伝承がかなりな程度流布されていたのだと思われる。

 最初の「増補改訂 新潮日本文学辞典」の解説で、「悲劇的事件をめぐる物語」とあるのは、直接は文武両道に秀で人望も厚かった皇子が弱冠二十四歳で謀反の罪で刑死した、という出来事そのものを指すけれど、皇子が残した辞世のうたと漢詩(いずれも後世の作という説がある)、皇子の死を嘆く姉大伯皇女の残したうたなどで、当事者たちの悲傷の色に染め上げられた物語として語られたということだと思う。大津皇子の辞世のうたと、皇子の墓を二上山に移葬するときにうたわれたという大伯皇女のうたをあげておこう(いずれも「万葉集」より)。

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子

うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに 大伯皇女

 ついでに書くと、万葉集にのこる大伯皇女の6首のうたは、どれも弟である大津皇子のことをうたっているが、その中に、

我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし

といううたがある。このうたは、大津皇子の、恋人をまつ情景をうたったとされる、

あしひきの山のしづくに妹待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに

といううたに不思議に照応するように思える。偶然のことだろうか。。


註6)
 あらすじ
 時は8世紀の半ばの奈良の平城京。大貴族、藤原南家の屋敷に、仏教に帰依して経文を写経しながら日々を送る美しい郎女(いらつめ)がいた。その郎女は、春の彼岸の中日に、二上山の峰の間に沈む夕陽をみていたとき、そこに貴い人のおもかげが立ち現れるのをみて、日頃親しみ、これまで百巻の写経を終えていた「称讃浄土仏摂受経」を、さらに千巻写経することを発願する。秋の彼岸の中日、写経をおえた郎女は、雨の音にひかれるように、ひとり家をでて西に歩き、二上山の麓にある荘厳な當麻寺の前にたどりつく。知らずして女人禁制の結界を侵していた郎女は、寺の意向をききいれ、物忌みのために留め置かれた庵室で、その夜、當麻(たぎま)の語り部の媼(おうな)から、五十年ほど前に謀反の罪で処刑され二上山に葬られた大津皇子の話を聞かされる。媼によれば、大津皇子の霊魂は、死罪にされる直前にみそめた耳面刀自(みみものとじ)という女性(郎女には遠い血縁にあたる)への執着から離れられずこの世に蘇り、郎女を彼女だと思いこんで、その霊力で郎女をこの地へまねきよせたのだという。庵室で物忌みしてすごす郎女のもとに大津皇子の亡霊はたびたび訪れるようになるが、郎女は一心に経文をとなえてその場に対処する。やがて郎女の心に、蓮の葉で編んだ衣をその寒そうな体に纏ってもらおうという気持ちがめばえ、侍女たちに蓮の葉を集めさせて糸をつむぎ、機織りの作業にいそしむようになる。やがて語り部の媼の助言などによって、衣(壁代のような形をした大きな布)にはおもかげの人の姿が描かれて完成するが、それは侍女たちの目には、極楽浄土を描いた曼陀羅のようにみえたのだった。

 というのが、パンフレットの一文を参考に書いてみた映画「死者の書」のおおまかな筋書きで、このストーリーを構成する主要な情景シーンが展開していく合間に、塚の地下の岩屋のようなところで死の眠りから目覚める大津皇子の姿や、耳面刀自や持統天皇の登場する皇子の生前の回想シーン、郎女の魂を呼び戻すために九人の村人たちが塚に植えられた大栢(おおかや)に向かって魂乞(たまごい)をするシーン、同時代の知識人である大伴家持が馬にのって資人(とねり)を供に平城京の朱雀大路をゆくシーン、家持が郎女の親族にあたる恵美押勝の屋敷で、二人で文学談義や郎女の噂をめぐって対話するシーンや、万蔵宝院で大津皇子の霊を退散させるために、侍女たちが足を踏みならし、身狭乳母(むさのちおも)が鳴弦(つるうち)をするシーンなど、いくつもの印象的なシーンが挿入されて作品を構成している。

 『死者の書』は、二上山に葬られた大津皇子(作中では滋賀津彦)の亡霊が五十年後に墓の中でめざめる、という怪奇小説のような出だしからはじまる。この亡霊の独白と、郎女に當麻の語り部の媼が語る話の内容を通して、亡霊の来歴(大津皇子の生前の物語)が明かされるのだが、『死者の書』自体は、むしろそうした来歴を語られる郎女の物語であり、そちらは、中将姫伝承を下敷きにしている。五十年の時を隔てたこの史実と伝承を融合させるにあたって、作者はそれぞれに新しいストーリーを創造してつけくわえている。大津皇子の史実に関していえば、謀反の罪で死罪になった皇子には、実はその死の直前にひとめみて恋におちた「耳面刀自」という女性がいた。という物語で、その耳面刀自にたいする執心が死後もたちきれず、五十年後に大津皇子の魂が亡霊として蘇った(耳面刀自によくにた郎女を彼女だと思いこんで妻にしようと二上山に招き寄せた)理由にされている。この理由づけの部分は、つじつまを合わせるために作られた感じがして、かなりあやうい感じがするが、同時に作者の構想にとってのひとつの鍵がかくされている部分だと思う。中将姫の伝承に関していえば、郎女が、山越しに、貴い人のおもかげをみる、という出来事が、つけくわえられた部分だ。人形浄瑠璃、歌舞伎などで演じられる中将姫の物語では、継母にいじめられる少女、というところが見せ場になっているが、『死者の書』では郎女(中将姫)が出家する契機になる出来事に焦点があてられ、そこに夕日の中に貴人のおもかげをみる、という一種の幻視体験がすえられている。

註6)
「姫の俤びとに貸す為の衣に描いた繪様(エヤウ)は、そのまま曼陀羅の相(スガタ)を具へて居たにしても、姫は中に、唯一人の色身(シキシン)の幻を描いたに過ぎなかった。併し、残された刀自・若人たちの、うち膽(マモ)る畫面には、見る見る、數千地湧(スセンジユ)の菩薩の姿が、浮き出て來た。其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢(ハクジツム)のたぐひかも知れぬ。」(折口信夫『死者の書』より)

註7)
 『死者の書』は、はじめに昭和14年『日本評論』第十四巻第一号〜三号に発表され、全編に及ぶ改訂がおこなわれたうえ、昭和十八年青磁社より刊行された。昭和二十二年、内容が青磁社版と同じものが角川書店より再刊され、巻末に解説の意味で、昭和十九年に『八雲』第三号に掲載された「山越の阿弥陀」一編が付載された、という(『折口信夫全集 第十四巻』(中央公論社)あとがきを参照)。

註8)
「もう、世の人の心は賢くなり過ぎて居た。獨り語りの物語りなどに、信(シン)をうちこんで聴く者のある筈はなかった。聞く人のない森の中などで、よく、つぶつぶと物言ふ者がある、と思うて近づくと其が、語り部の家の者だつたなどと言ふ話が、どの村でも、笑ひ噺のやうに言はれるやうな世の中になつて居た。」 「此はもう、自身や、自身の祖(オヤ)たちが、長く覺え傳へ、語りついで來た間、かうした事に行き逢はうとは、考へもつかなかつた時代(トキヨ)が來たのだ、と思うた瞬間、何もかも、見知らぬ世界に追放(ヤラ)はれてゐる気がして、唯驚くばかりであつた。」(折口信夫『死者の書』)より)

註9)
「山越の阿彌陀像の畫因」のなかに、「さて、今覚えている所では、私の中将姫の事を書き出したのは、「神の嫁」といふ短編未完のものがはじめてである。此は大正十年時分に、ほんの百行足らずの分量を書いたきり、そのままになつてゐる。が、横佩垣内の大臣家の姫の失踪事件を書かうとして、尻きれとんぼうになつた。その時の構図は、凡けろりと忘れたやうなあり様だが、藕絲曼陀羅には、結びつけようとはしては居なかつたのではないかと思ふ。」という一節がある。この未完の作品を読むと、折口が何に着目していたかわかる感じがする。この作品では、失踪事件の契機になるようなことは描かれていないが、『死者の書』」と共通するのは、語り部が登場して神懸かり状態にはいるところだ。この作品では少年の口を借りて現れた神が語り部と対話する。神は大津皇子の亡霊ではなく、三笠山の春日の神(藤原氏の氏神)だとなのるのが異なっている。このことは、『死者の書』への改変において、その伝承の内容そのものでなく、神懸かりになった者が物語るというそのことに作者の表現の力点があったことを示しているように思える。

註10)
「大貴族の郎女は、人の語を疑ふことは教へられて居なかつた。それに、信じなければならぬもの、とせられて居た語り部の物語である。詞の端々までも、眞實を感じて、聴いてゐる。」(折口信夫『死者の書』)より)