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路地への誘い



 どんな街でもちょっと歩くと人通りのない路地がある。台所の裏が見えたり、
ツタが茂ったコンクリート塀があったり、竹やぶを抜ける道であったり。
 いまどきは珍しいが、初めに思い出すのは「わだち」のある路地だ。その道は
二十メートルほどしか続かなかったが、わだちの泥が日によって乾いていた。ま
た雨の後は細長く水が溜まっていて、避けていかなければならなかった。たぶん
幼いころの記憶なので、道の表面が間近に見えたのだろう。
 そんなたびたび通って記憶に残る路地ではなくて、小旅行をしたときなどの路
地の映像が急に蘇ってくることがある。門先や小さな庭にある草花など観賞しな
がら歩くのだが、生活の断片が少しあるぐらいの寂しい路地。古いなべが落ちて
いたり、錆びた自転車が立てかけられていたり。そういう何気ない情景が眠る前
などにふとはっきりと思い浮かぶ。
 山の近くなどに行くと苔が生えているようなみずみずしい路地を見つけること
がある。モッコウバラやイヌマキが両側に茂り、スギゴケが生えている。ツバキ
や潅木がはみ出ていることもある。そういう道に巡り合うと、寄り道して数十
メートル歩き、また戻ってきて楽しむ。
 悲しみに暮れてまた喜びにあふれて、この路地を歩いた人がいたかもしれない。
 でも人通りは少ない。
 母が海辺の近くの病院に入院したことがある。仕事が休みの日に、片道、新幹
線を使って一時間半ぐらい、バスに乗り継いで三十分ぐらいである。
 母を見舞うときは半日ぐらい病院にいることになるが、ずっと側にいるわけで
はない。ひとしきりいた後、病院から海辺へとよく歩いた。病院の広い敷地を抜
けて、国道を渡ると町工場ふうな木造の建物が並んでいる道をまっすぐに南へ向
かう。
 やがて松林と住宅が交じったようなあたりに出て、その後は藪と松林を抜ける
小路。そして公園のようにある程度整備された松が生える海辺の林に出る。海風
を感じ、海が見えるまでなんとなく歩みを速めてしまう。人とすれ違うことは
まったくなかった。
 防波堤に上ると海の悠々とした眺望が開ける。浜に下りると釣り竿を持ってい
る人がいることもある。入江の東側は遠くまで松林が見える。砂浜なのでリール
を使う釣り方だ。
「釣れますか?」
 釣り人はこちらをちらっと見て、海のほうに向き直り、
「たまにね」
「何が釣れるんですか?」と聞くと「サバとか雑魚いろいろだね」と言う。
 あまり熱心には釣りをしていない。どこか時間つぶしの風体だ。
 浜辺を見渡すとうち上げられた流木やホンダワラなどの海藻の塊が点々とあ
り、遠くの小舟の廃船が半分砂に埋もれていた。
 母の入院は秋から冬まで続いた。病院に行くたびの散歩は習慣になった。
 ある日、浜の近所に住んでいるらしき人が流木で焚き火をしていた。
 遠くからその火を目がけて浜を歩き、近づくとかなりの勢いで火柱が立ってい
た。そばに寄ると暖かい。手のひらを広げて暖をとった。
「よく燃えますね」と言うとちょっと笑って、黙々と近くの流木を拾っている。
ぼくも、数本拾ってくべた。静かに寒々とした冬の海と、白い浜辺、そこに赤い
火、なかなか絵になる景色だ。
 彼から見れば気軽な旅行者だろう。話すことはない。彼も単に焚き火を楽しん
でいるようだ。
 火はさらに太い木に移る。燃える火を見ているとなぜか落ち着いた気持ちにな
る。ぼくはいつも鞄に入れているデジタルカメラで数枚撮った。構図がおもしろ
い。冬の海を背景に赤い火が写る。
 海辺への散歩はやがて母の転院でおしまいになった。
 この散歩で印象に残っている路地の景色はいくつかある。
 たとえば排水の悪いドブ池が白く濁り、傘の骨が泥に刺さっているような水溜
まりの一角。まるでシュルレアリスムの絵のように偶然にいろいろと配置された
空間。
 病院からの帰途はいつも地方紙を買って新幹線で読む。あっというまにビルの
林立する都会だ。
 この母の入院の機会による路地への誘いは母からの贈り物だったのだと思うこ
とにした。
 見知らぬ路地を通り抜ける散歩、そして思いがけず見ることができる自然の装
置。心のすみにわだちのように印されていく。




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