歴史

 八木秀次は、明治19年大阪府に生まれ、明治42年、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、イギリス、アメ
リカ、ドイツに留学し、無線学を生涯の研究テーマとしました。八木秀次は東北帝国大学工学部の教授になると、弟子
の宇田新太郎と共にアンテナの開発に取り組みました。世間では八木・宇田あんてなを『八木アンテナ』としか言いませ
んが、実際は研究のほとんどを宇田新太郎がやったことから、このアンテナは八木・宇田アンテナと呼ぶのがふさわし
いのです。アンテナの開発が完了すると八木さんはすぐさま特許を取得しました。しかし当初八木・宇田アンテナはあま
り評判がよくなく世間にあまり認められませんでした。それでも、港の無線アンテナや空港のアンテナとして細々と利用
されてきました。


(左:八木秀次 中央:宇田新太郎 右:2人が開発したUHF帯のアンテナ)
 第二次世界大戦になると欧米諸国は新たな技術開発を着々と進める中、日本の八木秀次の開発したアンテナに目
をつけ、アンテナの性能を買い軍事に利用しました。空母のレーダーや落下爆撃弾などのアンテナとして使われまし
た。そして最大の悲劇が日本を襲いました。そうです、広島と長崎に落ちた原子力爆弾です。この原爆には皮肉にも八
木秀次と宇田新太郎の生涯かけて開発した八木・宇田アンテナが使われていたのです。どこにどのようにして使われ
ていたのかというと、原爆は地表に落下してから爆発すると威力が減少してしまいます。そのため、地表から550m上空
で爆発させることにより最大の威力を発揮できるのです。原爆が落下中に電波を地表に向けて放ちます、そして跳ね
返ってきた電波を八木・宇田アンテナで受信しちょうど550mになった時に核反応を起こし爆発させるという仕組みにな
っているのです。

(左:リトルボーイ→広島 右:ファットマン→長崎)
 八木・宇田アンテナは何十年たってもこれに優る性能はないと言われ、今日もVHF・UHF帯のテレビアンテナなどにつ
かわれ世界中に広まっているアンテナとなった。普段見慣れてしまっているアンテナにも、開発者の強い意志とそれに
伴った深い歴史があることを忘れてはならないのです。
 硬い話になってしまいました。次は私が作った八木・宇田アンテナの紹介です。