エッセイ / 賢明な読者諸君へ
懸命に賢明であれ。初期のエッセイと雰囲気が似てる気がする。
「賢明な読者の方ならおわかりだろうが」という言い回しがある。
・賢明な読者の方ならおわかりだろうが、PATは今体調を崩している。
・賢明な読者の方ならおわかりだろうが、台風4号は間もなく温帯低気圧に変わる。
・賢明な読者の方ならおわかりだろうが、この文章はオチを決めずに書き始めている。
基本的な用法として、「この文章の流れからして、愛読者たる方ならば、予測されるオチ・展開がわかると思われるが」という感じの使い方だ。
しかし私は、いまだかつて「賢明な読者」になり得たことがない。つまり、続く展開が予測できないわけだ。
とすると、私はつまり「賢明じゃない読者」ということになる。これは辛い。
・賢明じゃない読者の方でもおわかりだろうが、今日は金曜日だ。
・賢明じゃない読者の方でもおわかりだろうが、十徳ナイフは便利だ。
・賢明じゃない読者の方でもおわかりだろうが、カレーライスは概してうまい。
これではまるで情報の意味がない。当然のような事実(もしくは観念)を表しているだけだ。というか、アホっぽい。文章表現、効果、そういったものについて次のステップを狙うならば、新しい局面に向かうべきだろう。
・賢明な読者の方ですらわからないだろうが、明日はホームランだ。
・賢明な読者の方ですらわからないだろうが、気付けば携帯の学割延長届けを忘れていた。
・賢明な読者の方ですらわからないだろうが、パックンマックンの物まねをしようとしてパックン(パトリック・ハーラン)の声で「ガラガラガラ〜」と言ったところで笑いは取れない。
一気に文章にナンセンス感というか不条理感が漂い始めた感じはする。この場合ほとんど「ところで」と用法が一緒という気もする。使いどころが難しい。
結局、「賢明な読者の方ならおわかりだろうが」という表現は、「もちろん読んでるアナタはこの雑誌/サイト/その他の愛読者だよネ?賢明だよネ?」という付加疑問文的用法で使われ、読者側の「も、もちろんですとも。だって俺、賢明ですから!」というちょっとした自己顕示欲を満たす返答をそれとなく引きずり出す、人間心理を巧妙に利用したものなのだ。だから多少無理のある展開をしようが構わないのだ。むしろ、多少無理のある展開の方が、本来の用法としては正しいのだ。私が「賢明な読者」になり得たことがないのは、このあたりの理由に起因しているものと思われる。うん、すっきり。
え、はい、賢明な読者の方ならおわかりでしょうが、これでオチですよ。