小説 / ビリヤードの友人

秋のテキストまつり'04、お題「スポーツ」出展作品。長いよ。

 向かいの席で女性が泣いていた。
 南武線の下り最終電車、平日で人もまばら。どこかで窓が開いているらしく、冬の気配のする十一月の風が首筋をかすめる。火照った頬に冷たい風が気持ちいい。
 その日、僕はひどく酔っていた。滑り込みで就職できたこの会社にもだいぶ慣れ、これからなんとかやっていけそうだと感じていた頃、隣の席の先輩の異動が決まった。それは左遷だとかではなくむしろ栄転と言ってもいいもので、新人の自分でさえ適任だろうと感じられた。来週にはもう関西へと発ってしまうということで、今夜急遽送別会が開かれたのだ。そういった飲み会に参加するのは入社の時以来で、少し羽目を外しすぎたのかもしれない。
 川崎方面に走る電車は、途中の小田急線とのターミナル駅を過ぎるとずいぶんと静かで、何をする気にもならず、通り過ぎる踏み切りの音に耳を傾けていた。家に帰ったらそのままベッドに飛び込んで、明日の朝、後悔しながらスーツのしわを直すんだろう。そんなことをなんとなしに考えながら、電車内のわずかな人たちを見渡した。そんな時だ。
 向かいの席に座っている女性が、泣いているのに気づいた。

 はじめは眠っているのかと思った。ずっとうつむいたまま動かないし、泣いていると思うよりはよっぽど現実的だ。けれどよくよく見ると、彼女は小刻みに肩を震わせていた。そして時折握りしめたハンカチを目元へと運んでいた。
 踏み切りの音が遠ざかると、確かに彼女の荒い息遣いが聞き取れた。なにかのドラマに巻き込まれたような気がした。終電で泣く女性。僕は彼女に声をかけようとした。どうかしたんですか。なにかありましたか。何を言ってるんだ、なにかあったから泣いてるんだろう。僕に何かできることがありますか。あるわけがない。どうも、降ってわいた非現実の中で、自分がドラマの登場人物になったような錯覚に陥っているらしい。酒のせいもあるだろう。そうだ、だいたい酒に酔った男に話し掛けられても困るだけだろう。
 僕は気にするのをやめた。スーツのポケットから携帯電話を取り出して、ぼんやりとしたままもてあそんだ。ジョグダイヤルをぐるぐると回しただけだが、そういえばアドレス帳に書かれた名前が、職場の人のものばかりになってきたなと思った。

 この会社に就職してからまだ七ヶ月だけど、自分もずいぶん変わったんだなと思う。周りを取り巻く人間の変化、環境の変化、生活スタイルの変化、それから自分自身の変化。学生時代はこんな風にまともに社会人としてやっていけるなんて到底思えなかったけど、実際そんな環境に身を浸してみたら、すっかり社会人として暮らす自分に変わっていた。見渡す限りの大海原に浮かんで、波に逆らったり従ったりしながら泳いでいるのだ。いつの間にか陸は水平線の彼方に消えて見えなくなっていた。つい最近までの大学生活が、やけに昔のことに思えた。少しだけ、ちくりと胸を刺すものがあった。

 コンプレッサーの音がした。開いた電車のドアから入ってくるのは冷たい空気だけだし、出て行くのは暖まった空気だけだ。空気の循環のためだけのホーム。こんな駅がどうしてあるんだろうなあと、乱暴なことを思ってしまう。遅刻ギリギリの出社時にも思うし、かつては大学に行くときにも思ったことだ。
 大学。うん、大学時代か。そういえば、最近は仕事ばかりに追われて、あの頃のことを思いだすなんてあまりなかったけれど。もし僕が(ありえないけれど)日記を書いていたとしたら、同じノートの中に収まってしまうくらい、近い距離の思い出。振り返れば手に届く、僕の学生時代。


 学生時代と聞いて、真っ先に脳裏に浮かぶ記憶がある。あれは二年前、街中がクリスマスムードだったから、十二月ごろだったのだろう。そういえば、ごわごわした厚手のジャケットを着ていたような気もする。そういう部分はあまりはっきりと覚えていないのだけど。
 僕と友人は大学からほど遠くないビリヤード場にいた。雑居ビルの五階にあるその店は、飾り気もなくて、掃除も行き届いていなくて、当然客も少なかった。照明は悪い意味で薄暗いし、有線から流れる曲は無遠慮すぎた。それでもビリヤードという一点に限って言えば、常にしっかりした手入れをされていて、いつでも問題なくプレイができるようになっていた。僕らは当時、授業をサボってはその店に来ていた。溜まり場みたいなもんだ。僕も友人もアルバイトをしていたけれど、給料のほとんどはビリヤード代に消えていった。その店はラシャの張り替えもまめにされていたけれど、きっとその費用の半分くらいは僕らの財布から捻出されていたと思う。
 僕らはたいていビールだのウィスキーだのを飲みながら玉を突いた。僕はだいたいビールで、友人はだいたいウィスキーだった。あの店にはいろんな種類のウィスキーだのバーボンだのがあったようで、彼は片っ端から試していた。まあ、細かいことはよくわからない。僕はウィスキーはあまり詳しくなかった。

 その日もいつもどおり、僕らは授業をサボってその店にいた。
「あの教授、何言ってるかわからないんだよ」友人はいつもこう言った。「講義の内容はテキストを読むだけだし、あんなことに授業料を払うくらいなら、こうしてビリヤードの腕を磨くほうがよほどいいね」
「それはそうだけど、ビリヤードの腕を磨くのもずいぶん不毛なことだと思うな」
「それは全国のプロに対する挑戦状だな」
「おまえはプロになるわけじゃないだろ」
 そんな不毛な会話を交わしながら、試合の合間に酒を飲んだ。僕らはいつも試合の勝敗に飲み物を賭けていて、その日は僕が何回か続けて勝利した。今日は調子が悪いとか言いながら友人はビールをおごってくれた。一息ついてふと窓の外を見ると、とっぷりと日が暮れていて、店の時計は数時間が経過したことを告げていた。友人は煙草をくわえて火をつけた。煙が流れてきて目に染みた。無責任に明るいクリスマス・ソングが、客のいない店内に流れていた。

「俺たちも、いつまでこうしていられるんだろうな」
 突然彼が言った。そんな話をしたのは初めてだった。グラスに残ったぬるいビールを僕が飲み干すまで、彼は返事を待った。
「さあね。学生時代が終わるまでかな」
「じゃあ、あと一年ちょっとか」
「もっと長いかもしれないぜ」
「その冗談は笑えないな」
 お互いに苦笑いをした。そのあと彼はまた黙り込んで煙草を吸った。煙草の先が赤く灯った。深く長く煙を吐いて、漂うその煙に視線を投げながら、彼はゆっくり口を開いた。
「卒業しても、こんなふうにバカやってたいな」
 なんだか妙にくすぐったかった。
「なんだよ、いきなり」
「いや別に」
 照れ隠しなのか、彼はテーブルのグラスをとって、ウィスキーを一気にあおった。
「よし、もうワンゲームだ」
 言うなりキューを手にとった。話は結局そこで打ち切られてしまった。クリスマスの騒がしさの中で、感傷的になっていたのかもしれないが、とにかく彼がどんなつもりで言ったのかはわからないままだった。
 ちなみに、この日最後の勝負だったそのワンゲームも僕が勝った。


 今、電車はどこを走っているのだろう。武蔵中原、武蔵小杉、いくつか駅を通ったとは思うが、出入りするのは空気だけで、わずかな乗客は誰も動かなかった。駅に着いたことに興味などないようだった。向かいの席の女性も、まだ泣きつづけているようだった。
 僕は携帯のアドレス帳から、あの友人の電話番号を探した。そういえば大学を卒業してからちっとも連絡を取っていなかった。考えてみれば、他の友人もだいたい同じようなものだ。通話ボタンひとつで繋がる関係だけど、通話ボタンを押さない限りは繋がらない。僕は携帯をポケットにしまいこんだ。
 走りつづける電車、窓の向こうには家の明かりがぽつぽつと見える。誰もがそこで自分の生活を送っていて、ときどき、ふとした瞬間に最終電車の乗客を眺める。少し前までは、僕もあちら側にいたような気がするのだけど。
 ビリヤードの友人。彼は今なにをしているのだろう。彼の将来について話したことなど一度もなかったけれど、どこかで飄々と暮らしているのだろうとは思う。あの日の彼の言葉が頭にこびりつく。
「卒業しても、こんなふうにバカやってたいな」
 今の自分を批難されているな気がして溜息がもれた。

 わざわざ言葉にしなくとも、あんなふうにバカをやりつづけるつもりだった。だからこそ軽く流してしまったのだけど、実際、卒業してみればこの有り様だ。あの日の僕が見ていたものとはずいぶん違うところに来てしまった気がする。先輩の送別会、そんなところで場を盛り上げるような自分だったろうか。仕事にはそれなりにやりがいを感じているし、自己評価ながら社会人としてはいろんな面でそこそこ及第点だとは思うけれど、同時に僕は、学生時代に大事にしてきたものを失っているのではないだろうか。
 あの日、僕らと店員しかいないビリヤード場で、騒がしいクリスマス・ソングの中で交わした約束を、約束と言えるものかどうかわからないけど、僕は守れているのだろうか。僕はすっかり変わってしまったのではないだろうか。
 だけど、無理だよ。頭に浮かぶあの店の光景に、僕はたしなめるように思った。僕らはあのままではいられないし、会社をサボってビリヤードをするわけにもいかない。あの時代を捨てて、僕らは変わっていかなければならないんだから。

 なんだか思考がどうどうめぐりになってきた。気を紛らわそうと、僕はもう一度電車の中をぐるりと見回した。それから泣く女性を眺めた。
 女性はよく見るとだいぶ若くて、僕と同じくらいの年齢かもしれない。仕事帰りのようにも見えるけれど、こんな時間に電車に乗っているところを見ると、その後に誰かと会っていたんだろうか。そこで別れ話を突きつけられて……まあ、考え出したらきりがない。
 あの頃の僕だったら、終電で泣いている女性を見て、はたしてどうしただろう。なにができるだろうだとか、そんなことを思う前に声をかけていたかもしれない。妙な正義感とかそんなのではなく、本当に後先を考えずに。頭の中を見渡せば、多少の下心くらいはあったかもしれないが。良くも悪くも勢いだけで行動するのがあの頃の僕の癖だったし、それで何度か痛い目にもあった。
「次は、鹿島田、鹿島田」
 電車内にアナウンスが響いた。余計なことは何も言わず、それだけでアナウンスはぶつっと切れた。向かいの女性が突然すっと立ち上がった。泣きつづけていると思っていたが、彼女はいつの間にかすっかり泣きやんでいた。涙の跡がメイクのくずれに見られたが、彼女は笑顔さえ浮かべていた。
 ドアが開くと、彼女はしっかりとした足どりでホームに降り立った。他にその駅に降りた乗客はいないようだったが、誰もいないホームの上で、彼女はどこか力強く見えた。


 その次の駅で僕も電車を降りた。アルコールもだいぶ抜けてきて、少しだけ軽快に歩いた。ダンス・ステップを踏んでいる気分で、家への道のりを辿った。相変わらず風は冷たかったし、少し荒い息遣いは空を白く漂ったが、酔い覚ましにはちょうどよかった。
 木造二階建ての安いアパートに着いた。今日はもうベッドに飛び込んで、明日の朝、後悔しながらスーツのしわを直す。別にそれでいいかと思いながら部屋に入ろうとしたとき、郵便受けの一枚の葉書に気がついた。どこかの店の招待状のようだったが、差出人の名前に目を見張った。ビリヤードの友人、彼の名だ。
「久しぶり。なにがどう転がったか、バーを始めることにしました。一緒にダメ大学生街道を突き抜けたおまえに是非来てもらいたいので、どうぞお暇な時に。」
 そんな余計なお世話と店までの地図が書かれていた。あいつが、バーを。確かにあいつは酒が好きだったけど、店を持つだなんてまさか考えもしなかった。本当に、なにがどう転がったんだろう。
 けれど、そういうものなのかもしれない。僕は唐突に思った。変わるっていうのはそういうものだ。僕らはあの時代を過ごして、そして今に行き着いた。あの時代を捨てて暮らしているわけではないんだ。
 次の休みの日にでも、胸を張って彼に会いに行こう。とびきりうまいウィスキーでも用意させておこうか。それから、久しぶりにビリヤードも勝負しないと。今度は酒を一杯賭けるなんてことは言わない、ボトル一本くらいは賭けてもらわないと。

 鍵を開けて部屋の明かりをつけた。壁のカレンダーで次の休みを確認しながら、僕はひとつ気がかりなことがあって、手のひらを眺めた。

 ビリヤードの腕は、変わってなければいいのだけれど。

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