小説 / 於・雑木林

大人に向かって背伸びを続けたあのころ。高校三年の夏を綴る。

 コーヒーを飲むようになったのは、いつのころからだろうか。
 琥珀色の香り。混沌を描く白と黒。デザイン化された猫が描かれた、お気に入りのカップを眺めながら思う。
 若い頃は――と言っても、今もまだ充分若いが――、コーヒーだとか紅茶だとかは大人の飲み物、と割り切っていた。酒などはもってのほかであった。
 いつの間にか、自分は大人になっていたようだ。それにしては自覚がない。

 周囲が夏休みに入ると、それと同時に自分の生活は逆転する。明け方に寝て、昼頃に起きる生活の始まりだ。
 別に好きでやっているわけではないが、一度この周期に飲みこまれてしまうと、自力で脱出することはできない。照りつける太陽の下でアリジゴクにつかまってしまった、小さな虫のようなものだ。
 部屋が歪んで見えるほどの暑さに目を覚ました。助けを求めるかのように、枕にしがみついて眠っていた。寝間着がわりのTシャツの襟元が冷たい。
 開け放しの窓から聞こえる子供の声にせかされるように体を起こし、扇風機をまわす。返す刀でラジオのスイッチを入れた。ボリュームを上げると、プロ野球中継が流れ出した。
 ラジオに向けた目をそのままスライドさせる。時計の針は、もう午後三時だった。

 昨日は――今日は、と言うべきか――久しぶりに酒を飲んだ。
 無論、家でだ。一人でだ。友人と酒を飲む機会というのはなかなか見つからないので仕方ない。ふと飲みたくなってのことだったので、つまみなどない。夏だからビールでも飲みたいところだが、それもない。
 結局、カルーアミルクを酔うまで飲んだ。やたら甘い、コーヒーの酒だ。別にそこまでコーヒー好きなわけじゃない。これは前に人からもらったものだ。最近音信不通のその人のことなど考えていたら、いつの間にか赤くなるまで飲んでしまった。
 そんなに酔う性質でもないんだがな、と思いながら、野球と風をそのままにシャワーを浴びた。そろそろ切ろう、と数週間前から思っている髪をうっとうしく感じながら、窓の外を見た。
 ここのところの大活躍がたたって夏バテでもしたようで、昨日までの曇り空はすっかり消え去っていた。
 久しぶりに見る、怖いくらいに真っ青な空。子供たちの声もどことなく澄んで聞こえる。
 そんなことばかり思ってるから、若くないと言われるんじゃないか、と肩をすくめながら、冷蔵庫から枝豆と麦茶を出した。椅子の上であぐらをかき、片手でうちわを扇ぐ。
 このへんが、若くないと言われる本質だろう、と自覚はしている。

 コップの水滴がテーブルを濡らすころ、野球中継が終わった。ライオンズの新人が最後の最後で四番に打たれた。まず先発のベテランが打たれたのがいけない、などとコメントしている解説者には引っ込んでもらい、目の前の炊飯器の液晶表示を見た。
 まだ四時。何もしないには早すぎる。何か始めるには遅すぎる。
 とりあえず片付けよう、と枝豆のさやを台所に運ぶ。ビニール袋に詰め込み、皿を洗っているとき、ふと視界の隅に移る。
 コーヒーメーカー。
 確か高一、コーヒーを本格的に飲み始めたことに買ったものだ。今でも現役で働いているが、出しっ放しにするとすぐ埃をかぶってしまうので、いつも箱の中に閉まっている。
 脳裏をコーヒーの香りがかすめた。

 コーヒーをまともに飲んだのは、おそらく中一のときが初めてだと思う。
 確か、何かの実行委員会の反省会で、先生に淹れてもらったインスタントコーヒーだったと思う。格好をつけてブラックで飲んで、やたら苦労したのを覚えている。
 その後しばらくコーヒーを飲むことはなかったはずなのだが、…いつから、平気で飲むようになったのだろう。
 香りの奥に潜んだまま、その記憶は現れようとはしない。

 タッパーの中のコーヒー豆を確認した。
 先日ブルマンを飲み尽くし、今は誕生日祝いにもらったブレンドが入っている。少し悩んだが、タッパーの蓋を閉めた。
 自転車の鍵をポケットに詰め込み、文庫本一冊と少しの小銭を持って、家を出た。
 どうせなら、久しぶりにあそこへ行こう。

 一度、扇風機の切り忘れのために戻ることにはなったが。

 真夏の移動手段は自転車と決めていた。暑ければ暑いほど、夏っぽさが感じられる。
 風が心地いいわけではない。目的地によっては着くまでにかなり疲れることもある。
 それでも自転車に乗り込む。それによって感じる夏が、他のどの夏よりも好きだからだ。
 五分もしないうちに到着した。雑木林に囲まれた中に建てられた喫茶店。
 いつからこの店があったのかはわからない。少なくとも、物心ついたときにはもうあったように思う。子供のころから、なにかと話題に上っていた。ただし、それは回りの雑木林にいるクワガタやカブトムシについて、ではあるが。

 取っ手を押すと、控えめな冷房と相変わらずの洋楽が出迎えた。あれほどうるさい蝉の声が、ここでは全く聞こえない。そのまま席についた。カウンターに座るほど、この店にも喫茶店自体にも慣れ親しんではいない。
 高二の時に初めてこの店を訪れて以来、色んな人をここに連れてきた。それほど自信をもって勧められる店だった。
 そして、その度に、この店では洋楽がかかっていた。しかも、決まってビートルズとカーペンターズ。そのせいで、そのへんには少し詳しくなってしまった。
 アイスコーヒーは好きではないのでホットを注文し、持ってきた文庫本を取り出す。夏目漱石の「こころ」。高二の夏に課題として出されてから、長期休暇に入る度に読み返す習慣がついている。友人の中にはこの展開を嫌う人も多かったが、そのへんは割り切っておいた。明治という時代に、これほどに人間という存在を掘り下げていたのかと思うと不思議な気分になる。
 湯が沸騰する音の方に耳を傾けると、若い店員と客とが、アメフトか何か、スポーツの話で盛り上がっていた。そういえば今日は土曜日だ。この店で、そんな光景が見られる日だ。

 本を一頁めくるころ、コーヒーが運ばれてきた。
 コーヒーシュガーを半分入れる。一口だけ口に含んでから、ミルクをたらす。数あるコーヒー本に必ず書かれている飲み方だ。そこまでコーヒーにこだわっているわけではないが、これだけは実行することにしている。豆自体の味を知っておきたいからだ。
 半分くらい残したままカップを置いた。控えめな照明の中から、窓の外を覗く。雑木林の向こうは四車線の道路。雰囲気を重んじる喫茶店としては決していい環境ではないが、その雑木林がうまく雰囲気を醸し出している。まるで山中にいるかのような。

 相変わらずの洋楽が、ふいと声をかけてきた。カーペンターズの曲。昔、演劇で使ったことのある曲だ。そういえば、確かこのころから喫茶店に行くようになった気がする。
 昔から、喫茶店というのは憧れの場所だった。ここに行くことが格好いい、ここに行くことが大人の象徴だ、と思っていた。はじめはそういった自己満足で喫茶店に出向いていたと思う。浮ついた気分で席についていた気がする。

 しかし、今。背もたれに体をあずけた。こうして、椅子に座っている。
 あのころからすれば、喫茶店のこの姿は憧れなんだろう。喫茶店に行くだけでは、本当の憧憬の対象にはなり得ないと、今苦笑いを浮かべてはみても。
 残り半分を飲み干し、文庫本で時間をつぶす。曲が変わろうというころに店員が来た。文庫本はそのままに、顔を上げた。

「おかわり、お願いします」

 雑木林の向こうから、蝉の声が聞こえた気がした。

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