小説 / RESTART

恥ずかしいったらありゃしない。いろんな意味で心してかかれ。

「なぁ高須、お前 部活なに?」
「ん? 来てみるか、蛍原(ほとはら)?」
すべては、それがはじまり。


 『味覚発見部 部室』と書かれた紙が、少しガタがきているドアに、すでに固くなっているガムテープで乱雑に貼られている。
 「先代の部長の性格」と、現部長の高須先輩が言っていた。
 ドアノブに手をかけドアを開けると、もわっとした空気があたしを包み込んだ。
 背負っていたバッグを肩からおろして、あたしは窓を開けた。よどんだ空気が逃げていく。短い髪が微かになびく。
 窓の外に視線を投げると、青い紫陽花が目に飛び込んできた。
「たまの晴れの日だもん、ちゃんと換気しないと部屋中カビだらけになっちゃうもんね」
 一人ごちるのもなんだから、紫陽花にそう声をかけた。
 部屋には誰もいない。まぁ、今日は活動日じゃないから当然だ。
 部室に関するあらゆる苦情の根源となっているその狭さも、一人だと全く気にならなかった。逆になんとなく背中の方に違和感を感じながら、あたしは乱雑に放置されていた椅子をひとつ引っ張り出して腰掛け、これまた乱雑に机の上に置かれていた本の中から、一冊適当に選んで手に取った。
 表紙を見る。『まんがジオグラフィー』。
「黒越先輩のね」
 うちの部員は基本的に漫画より小説、という人が多い。そこにあえて漫画を持ち込むなんてのは、かわいい絵をかくと校内でも評判の黒越先輩(男)ぐらいなものだ。
 そう思って呟いた言葉は、部屋中に響いた。無意識のうちに声を大きくしていたのか、それとも部屋に誰もいないぶん響いたのか。
 誰かに聞かれなかったかしらと息をひそめ、部屋の外の人の気配をうかがった。 …どうやら、誰もいないようだ。
 そう思ったその時、
「…まあ、今日は活動日じゃないから誰もいないけど…」
「じゃあ意味ないじゃんか」
 遠くで、声が聞こえた。近付いて来る。
 片方……前者の方はわかった。高須先輩だ。…話し相手は誰だろう?
 その問に解答が導き出される前に、声は部室へと入ってきた。
「あれ? 京野さん、どうしたの?」
「高須先輩こんにちはー。いやぁ、どうっていうほどのことじゃ… ん?」
 高須先輩の影から現れた、その解答は…
「…どなたですか?」
「あぁ、こいつ転校生なんだけどね、ちょっと色々あって、今うちの学校案内とかしてるんだけど… おい、蛍原」
 声をかけられた男の人は、あたしのほうを向いた。
 あたしはその人を見上げた。あたしも女子の中じゃそんなに背の低い方じゃないけど、その人はかなり背が高かった。180センチ半ばはあると言われる高須先輩と同じくらい。下手をすると、あたしと頭ひとつぶんぐらい違うかもしれない。
「横浜の方からわけあって転校してきた、三年G組…高須と同じクラスですね、蛍原高浩です」
声は多少低かったが、それとは不釣り合いな顔立ちをしていた。童顔、というか少年らしさが残っている、というか。でも、よく見ると、その端正な顔立ちには、明らかに18年分の歳月が刻み込まれていた。
 その人…蛍原先輩を見つめながら、あたしはずっとそんなことを思っていた。しばらくは、呼吸をするのも忘れていたかもしれない。
「京野さん?」
 高須先輩の言葉で、ようやく我に返った。内心の動揺を悟られないように、
「京野 和です」
 早口で一気にまくし立てて頭を下げ、うつむいたまま、頭を上げなかった。
「どうしたの京野さん?」さすがに変だと思ったのか、高須先輩が声をかけた。「…ひょっとして、人見知り? …いやぁ、京野さんに限ってそれはないか」
「あーっ、ひっどーい」
 あたしは高須先輩につっかかった。
「あたしだって人見知りぐらいしますよー」
 実際はそういうわけではなかったのだが、あたしは取り敢えず言った。
「ははっ。ごめんごめん」
 あたしの抗議をかわすのように、高須先輩は蛍原先輩の影に隠れた。
「でね、こいつだけど、うちの部に入ることになるんでよろしく」ひょこっと顔だけ出して言う。「副部長の座があいてたところだ、ちょうどいいや」
「副部長?おいおい、いきなりそんな…」
「副部長って言っても、とくに何するってものでもないですよ」
 高須先輩は頷いた。
「そっ。まぁ、部長の補佐…とかね」
「部長って?」
「高須先輩」
「へ?そうなの?」
「ええ。高須先輩の料理の上手さと言ったら」
「…なるほど」
 蛍原先輩は納得した。心当たりがあるらしい。
「…なら、まぁいいか」
「よーし決定っ。じゃあここにサインを…」
「へ?こんなもんがあるのか… って、なんだこの『条件』ってのは!?」
「うちの部で暮らしていく上でのね、最低限のルール」
「『マージャンポーカーを極めること』ってのはなんだ!?」
「そういうトランプゲームです。一応うちの部は、泊まりに行くと必ずやるということになってるんで」
「こっちはなんだ!?何だか目立たないように小さくかいてあるけどっ!」
「あぁ、それね…」
 三人の声が、段々と薄暗くなっていく部室中に響いていった。
 窓の外で、梅雨らしからぬ心地いい風に、紫陽花が微笑むように揺れていた。


「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
 家に帰って、仕事も一段落ついたころ――あたしの家はパン屋。父親は単身赴任で遠くにいる。自然、あたしとお兄ちゃんも働かなければならなくなってしまうわけだ――、売れ残りのパンを口にくわえているお兄ちゃんに、お店の片付けをしながら声をかけた。母さんは店の奥で夕食の支度を始めている。
「蛍原って人、知ってる?」
「転校してきたっていう三年の人か?」
 あたしはお兄ちゃんの顔をまじまじと見た。
「…何で知ってるの」
「なごみぃ、お兄ちゃんの情報網を甘く見ると痛い目に遭うよ」
「遭ってみたいもんね」
「なにかな?」
「ううん」
 首を振って、あたしもお兄ちゃんと同じようにテーブルについた。
「で、その人が何だって?」
 一つ目のパンを食べ終え、次はどれを食べようかと品定めしながら、お兄ちゃんは聞いてきた。
「ああ、えっと…」なぜか、言葉に詰まってしまった。「…あぁそう、あのね、その蛍原先輩ねぇ、うちの部に入ったの」
「ほぅ…そんなに料理好きなのか、その人」
「そう、すごい上手なんだってっ。一人で東京来たから、食事は自分で作ってるんだって」
「ふーん」
「なんかね、前は横浜に住んでて、中華街で料理の修行したこともあるんだってー」
「いいから、少し落ち着け」
「えっ?」
 はっと我に返った。いつの間にか、目の前に並ぶ皿の上のパンをいくつかはじくほどの勢いで力説していたようだ。
 あたしは、顔が熱くなるのが分かった。
 パンをもごもごさせながら、お兄ちゃんは言った。
「惚れたわけか」
「ちょ…ちょっとまってよ!」
「いいんじゃないか?お前、今までこういうことってなかったからな」
 目を合わせていられなくなって、あたしはうつむいた。
「…そんなんじゃないよ」
 呟いたその言葉を、頭の中で何度も反芻させた。
 そんなんじゃない。今は、まだ。


 味覚発見部というのは、分かりやすく言ってしまえば『料理部』である。
 そんなことを言うと高須先輩になにか言われてしまいそうだが、一番分かりやすいのだから仕方がない。だから、友人らに尋ねられたときなどは、あたしはそう答えている。
 部員は五人…いや六人。高須先輩、蛍原先輩の三年生二人、間(あいだ)先輩、黒越先輩の二年生二人、そしてあたしと、同じクラスの小音潤(さざね うるう)ちゃんの一年生二人。部としては人数は少ない方だけど、その伝統と、主に先代及び高須先輩の功績によって、同好会格下げは免れている。
 高須先輩が言う、普通の料理部と違うところというのは、月に一度…できれば二度、合宿をする、というところにある。土日を利用して都内の適当な場所に赴き、グループごとに材料を調達してオリジナルの料理をつくる。それが味覚発見部の特徴だ。因にその前身は、「下町味覚発見部」だったそうで、下町のみを活動拠点としていたらしい。いまは都内どこでも駆け回るし、夏休みなどには遠出して二泊三日の合宿を行う。
 梅雨もようやくあけ、期末テストも終わり、夏休みも近いある日、あたしたち味覚発見部は、その合宿についての話し合いを繰り広げていた。
 今回のテーマは、「横浜中華街を追え!」。二泊三日の横浜旅行になるそうだ。
「横浜… 確か、蛍原先輩の実家って横浜でしたよね」
 話し合いも終了し、今や兵どもが夢のあと。学校近くの本屋のカバーを被った文庫本を読んでる蛍原先輩に、あたしは声をかけた。高須先輩たちは決定事項を顧問の先生に伝えるため職員室に行っているので、今、部室にいるのは三人。黒越先輩も本(漫画)を読んでいるから、放っておけばずっとこのまま誰も話さないだろう。
 沈黙は、あまり好きではない。
 蛍原先輩は文字の列から目を離し、あたしのほうを向いた。
「良く覚えてるね京野さん。自己紹介のときに一度言ったきりなのに」
「そりゃまあ。潤ちゃんには負けられませんからね」
 潤ちゃんの記憶力は尋常ではない。「動くメモリーカード」の異名をとるほどだ。あたしとしては「動くパワーメモリー」の方がいいと思うんだけど。
「横浜かぁ」
 蛍原先輩は本にしおりを挟んで机の上に置き、少しだけ遠い目をした。
「そろそろ二ヶ月ぐらい帰ってないことになるわけか、早いなー」
「中華街から近いんですか、蛍原先輩の実家って」
 ほんの少しだけ間をあけて、返事が来た。
「…あ、うち? そーだねー…バスで少し、ぐらいかな? あんまりごちゃごちゃしてないとこにあるんだ」
「へー。いいですね、そういうところって」
「うん…」
 頷いてから、蛍原先輩はためらいがちに、
「あ…の、京野さん」
 そう切り出した。
「はい?」
「…オレさ、今まで中華街で料理の勉強したり、喫茶店でバイトしたりしてきてさ、部活には入ってなかったんだわ」
「そうなんですか」
「うん。だから、京野さんたちが、初めての後輩ってことになるんだけど…
 …正直、『先輩』って呼ばれるのは抵抗があるんだよね、やっぱり。
 京野さんだって、いきなり来たやつに『先輩』、ってなんか面倒でしょ?」
「そんなことないですよ。蛍原先輩は蛍原先輩じゃないですか」
「はは… まあそういうわけなんで、オレのことは好きに呼んでくれない?『先輩』以外で」
「はぁ…」あたしは首を捻った。「…好きに、って言われても… なんて呼べばいいんだろ」
「なんでもいいよ」蛍原先ぱ…蛍原さん(仮称)は笑った。「下の名前で呼ぶ?」
「じゃあ… ねぇ、高浩」
「なんだ、和」
 あたしは頭を抱えた。
「…やっぱりやめましょう」
 目茶苦茶恥ずかしい。
「じゃあ、なにがいい?」
「やっぱりここはシンプルに、『蛍原さん』で」
「ん。じゃあ練習。 ねぇ、京野さん」
「なんですか、蛍原さん」
 お互い見つめ合ったまま、しばらく沈黙。やがて、どちらからともなく吹き出した。
「なんで笑うのさ」自分も笑いながら、蛍原さん(確定)は言った。
「そういう蛍原さんこそ」あたしも笑いながら言った。
 あたしたちはしばらく笑い続けた。高須先輩たちが戻って来たとき、変な目で見られたのは言うまでもない。


「うわぁーっ!」
 広がる世界は異国の地。道の両脇に立ち並ぶ店と、通りを歩く人々とが、中華料理店などに見受けられる独特の雰囲気を醸し出している。感嘆の声を出さずにはいられなかった。これであと自転車でもあったら、完全に中国と変わらないんじゃないかと思う…行ったことはないが。
 …ここは、横浜中華街。夏合宿の活動拠点。
 せわしなく鳴き続ける蝉と、夏休みを楽しんでいるのであろう人々の声を背に受けながら、あたしたち味覚発見部一同は宿泊地へと向かった。バスに乗って少しの所にあるらしい。
「はぁ〜っ」
 バスの座席に着いたと同時に、あたしは大きく溜め息をついた。それに反応して、長い髪を揺らしながら、前の座席の潤ちゃんが振り返った。
「どーしたの、和ちゃん」
「んー?」
 そんなふうに生返事をするあたしを見て、手摺りにつかまっていた黒越先輩が笑いながら言った。
「そんなに疲れた? やっぱり、はしゃぎすぎたんじゃないの?」
 旅行というのは、人を楽しい気分にさせる。まして、今回は夏合宿。いつもより長い二泊三日、場所も横浜。そんなこんなで、あたしは朝から騒ぎまくっていた。
「それもあるんですけどね。なんて言うか…初めて来るところって言うのは、なんとなく気を使っちゃうんですよね」
「へぇ」潤ちゃんは意地悪く笑った。「和ちゃんにも、そういう一面があったんだぁ」
「…どういう意味よ」
 はは、と笑いながら、黒越先輩は少し後ろの方にいる間先輩の方に行った。その時ちょうどバスが左折し、黒越先輩は少しふらついた。
 あたしたちは少し微笑んだ。
「黒越先輩って、なんだか変わってる人だよね」
 間先輩と漫才を始めたその姿を見ながらあたしが言うと、潤ちゃんも言った。
「『スポーツしてそうと言われるけど一切してない。趣味は絵を書くことと料理すること。一度自分の世界に入り込むと周りが見えなくなるタイプ』。 自己紹介のとき、自分でそう言ってたもんね」
「…なんでそこまで覚えてんのよ」
 さすがは『動くメモリーカード』である。
 バスは流れていく。見慣れない景色に、段々と緑がふえてくる。
「あ、ところでさあ」
 頭をポリポリ掻きながら、あたしは聞いた。
「今回の合宿って三グループに分かれるんでしょ?」
「そうだよ」
 あたしは窓の外の、流れていく光景を見つめた。
「…だれと一緒のグループになるのかなぁ」
 その呟きを聞いて、潤ちゃんはニヤリと笑みを浮かべた。
「へえ…。ふーん、そう…。ま、いいけどね」
「…なに思わせ振りに自己完結してんのよ」
 内心ひやひやしながら、あたしは言った。潤ちゃんは、変に鋭いところがある。余計なこと言うんじゃなかった。
「ん?いや、べっつに〜」
「何か誤解してない?言っておくけどね…」
「おーい、お二人さーん」
「うわぁっ!」
 突然横から声がして、あたしは大声を上げた。いつの間にか、前の方にいたはずの高須先輩と蛍原さんがあたしたちのそばにいた。
「びっくりしたぁ…」
「次で降りるからね。準備しといて」
「あ、はい」
 いそいそと荷物を荷台から降ろし始めると、二人は黒越先輩と間先輩の方へ行ってしまった。
 あたしは二人を目で見送っていた。潤ちゃんに言われるまで、荷物を下ろす手を止めたまま。
 あたしは、誰と一緒のグループになるんだろう。
 もし、出来ることなら…。


 右から左へ。
 上から下へ。
 左から右へ。
 それから…ありゃ、ぐるっと上の方へ。
「蛍原ぁ、こういう分かりづらいの書くなよ」
「いーじゃんか。同じ線に変わりはない」
「性格でてるな」
「ん?」
「いや」
 そんな会話をBGMに、あたしはひたすら線を指でたどった。
 あみだくじ。
「…一番と出ました」
 結果報告。
「ってことは… あたしは誰とですか?」
「一番だから…高須先輩だよ」
 潤ちゃんが言った。そう、一番は高須先輩。言われなくてもわかっていた。それでも、あたしは聞いてしまった。
 一番は二番じゃない。当たり前だけど、今はその当たり前の事実が辛かった。
「じゃあ、今言った班ごとに行動して下さい。細かいことは決めませんが、テーマは 『横浜中華街を追え!』 ですのでお忘れなく。……」
 高須先輩が諸注意を続けるのを、あたしは上の空で聞いていた。


「どうしたの和ちゃん?なんか元気ないよ」
 そんなふうに心配してくれていた潤ちゃんも、さすがにもう眠ってしまった。規則正しい寝息を聞きながら、あたしは暗闇の中でぼんやりとひとり天井を眺めていた。
 眠れない。
 潤ちゃんのお陰で、さっきまでの自分にはケリをつけることは出来た。
「なんであそこまで落ち込んでたんだろ、あたし。いくらなんでもあれは自分の世界に入り過ぎてたって感じよね」
 苦笑しながら、天井の木目に声をかけた。
 …え? 天井の木目?
 あたしはガバッと起き上がった。カーテンの隙間から、淡い光が部屋に差し込んでいた。耳をすますと、特徴的な鳩の声。
 夜が明けてる。
「…旅行に来たってのに徹夜か…」
 家の仕事を手伝っていることもあり、あたしは基本的に早く寝る方だ。普通の日だったら徹夜はおろか、夜更かしもしない。必ずその日のうちに寝るようにしている。テスト勉強のときなどにのみ、紅茶片手に夜更かしだ。
 午前四時半。時計を見てその事実を確認した途端に全身を軽い虚脱感が包んだが、今から寝るのは逆に疲れるだろうと思い、あたしは潤ちゃんを起こさないようにそっと部屋を出て、階段を降りた。
 あたしは外に出た。
 昼にもなるとうっとうしいほどに激しく照らしてくる太陽も、朝はその勢いを治め、人通りのない道を優しく照らしていた。今日も快晴だ。
 体調は良好。でも、昼頃にはどうなることやら。そんな不安を抱きながら、ちょっと散歩でもするかなと歩きだした途端に、少し肌寒さを感じた。あたしは寝間着のままで来てしまったことを後悔した。夏とはいえ、朝は冷える。
 とは言うものの、わざわざ戻って取って来るのも面倒だ。財布は持って来てるから、何か温かい飲み物でも買おう。
 あたしは足が進む方向に任せて歩きだした。この辺一帯ならば、昨日のうちにある程度まわったので迷う心配はない。
 …だけど、あたしは肝心なことを忘れていた。
 夏の自動販売機に、温かい飲み物はない。
「まずいなぁ…」
 誰もいないから、気にせずあたしは普通の声で言った。正直、かなり体が冷えている。
「こうなったら、少し走ろうかな」
 先日の体育の授業の際、あたしは長距離走でかなりのタイムを出した。泊まっている民宿までは随分と距離があるが、何とかならない距離ではない。
 微かな風に、アスファルトのそばに生えているヨモギが揺れた。よーい、スタート。
「あれ?京野さん?」
 その言葉で、あたしの足に急ブレーキがかかった。体が前につんのめる。
「…なにやってんの?」
「く、黒越先輩?」


 あたしと違って、黒越先輩は用意周到、準備万端だった。青い薄手の上っ張りを羽織り、腕時計もしっかりしてきていた。そういえば時間のことなんて考えていなかった。
 現在、五時ちょっと。
「オレはいつもこの時間には起きてるから、今日もいつものクセで目が覚めちゃってね」
あたしが来た道とはまた別のルートをたどりながら、黒越先輩は笑った。
「ちょっと温かいものでも買って来るかなと思って、散歩がてらここまで来たんだ」
 手に持っているコンビニのビニール袋が、あたしたちの歩調に合わせて揺れた。
 あたしはそれを不思議そうに見つめた。
「…この時間にやってるコンビニ、あるんですか?」
 横浜とはいえ、ここはかなり中心地を外れた所。二十四時間営業のコンビニは、民宿の近くにはなかった。
「横浜には何度か来てるからね、すでに調査済み。ついでに」
 ビニール袋の中から、ガサガサと音を立てながら缶コーヒーを取り出した。
「夏にも温かいのが売ってる所もね。飲む?」
「あ… すいません、あたしコーヒーは…」
 気持ちは嬉しかったし、何より今は温かいものがほしかった。でもあたしはコーヒーは苦手だ。今だけは自分の嗜好が悔やまれた。
「そう」
 黒越先輩はコーヒーをしまい、
「紅茶は?」
 …新たに取り出した。前言撤回。
「迷うことなく頂きます」
 受け取ったそれは、かなり冷えていた手をやさしく包んでくれた。そのまま手に持ったり頬にあてたりと、しばらくはカイロ代わりに使っていたが、黒越先輩がさっきの缶コーヒーを飲み出したのを見て、あたしもそれに倣うことにした。
「はぁ… この温かさが、あたしの冷えきった心を溶かすがごとく暖めてくれるんだなぁ」
 一口飲んで、体の中に溜まっていた冷気を全部はきだすように軽口を叩いた。黒越先輩は隣で声を出して笑った。
 笑ってから言った。
「よかった。少しは元気になったみたいだね」
「え?」
 黒越先輩を見た。当の本人は缶コーヒーのラベルを見ている。
「何だか元気なさそうだったからねー。ちょっと心配だったんだ。京野さんらしくないなー、って」
 あたしは顔が真っ赤になった。
「いや、あの…」
 言い訳しようと思ったが、そのことに関して先程悟りを開いたあたしとしては何とも言いようがない。
「…おっしゃるとおりです。あたしらしくなかったですね」
 軽い口調で言い、苦笑いを浮かべて黒越先輩の方へ向き直ったが、その黒越先輩は今までとは違い、意外にも真面目な顔をしていた。
 しばらくの沈黙。どうしたらいいのか分からなくなって、あたしは段々冷たくなってきた缶を口にくわえたまま、遠くから響く鳩の声を聞いていた。
「こんなこと聞いたら失礼かも知れないけど」
 黒越先輩は突然口を開いた。
「…蛍原さんが原因かな?」
「えっ?」
「さっきまでの京野さん」
 唐突に核心をつくことを言われると、人は隠そうとしても隠しきれない。否定するには時間が足りな過ぎた。戸惑いのためのその間は、ここまできたら隠す必要もないか、という気にさせた。
「やっぱりね。ずっとそんな気がしてたんだ」
 そう言うと、黒越先輩は残ったコーヒーを一気に飲み干した。
「…どうしてわかったんですか?」
「見てれば何となくわかるよ。それに…」
「それに?」
「あのとき、オレもいたんだから」
 あのとき? あたしは首を捻って、それに該当するような記憶を探した。
「あ」
 無意識のうちに声が出た。記憶を探り当てた合図だ。さっき、黒越先輩は「蛍原『さん』」と言っていた。
 そうだ。確かにあのとき、黒越先輩はあの場にいた。…本人の言葉を借りれば、あのときは『自分の世界に入り込』んでいたみたいだったけど…。
「周りの声が聞こえないほど自分の世界に行ってたわけじゃないからね」
 あたしの心を見透かすように黒越先輩は言った。
「…そりゃ、そうですよね」
 あのときのことを思い出して、あたしはまた顔が赤くなった。
 そばの道を、トラックが走り去って行った。
 お互い、何も言わなかった。聞こえるのは、段々多くなってきた車の音と、それにかき消されないように鳴く鳩の声。
 あまり深くは問うまい、ということなのだろう、黒越先輩はこれ以上何を聞こうというわけではないようだった。道を案内するかのように少し先行しながら、カラになったはずの缶コーヒーを口につけたりラベルを何度も見たりと、手持ち無沙汰にしていた。
 黙っているのが申し訳ないような気がしてきて、あたしは口を開いた。
「…ごほっ」
 しばらく黙ったままだったからうまく声が出せなくて、それは咳となってしまった。
「大丈夫?」
 心配そうに黒越先輩が振り返った。あたしは大丈夫です、と笑ってから改めて言った。
「…あたしは、蛍原さんのこと好きなんですかね」
 黒越先輩はあたしを見つめた。
 静かな朝に響いていた足音が止んだ。
「人に聞くようなことじゃないってのは分かってるんですけど、でも…
 …分からないんです、自分の気持ちが。今までこういうことってなかったし…」
 黒越先輩は黙り込んでしまった。頭の中で言葉を探しているように見えた。
 言葉が見つかったのか、先輩はあたしを改めて見つめた。
「…オレは…」
 言いかけたその言葉を、「いや」と首を振ってかき消した。
「…自分が誰かを好きなのかってのは、他人が見て分かるものじゃない。自分で答えを見つけるしかないと思うけど」
 そこまで言ってから、黒越先輩はあたしから顔を背け、前の方を向いた。
「でもね、例えば京野さん、蛍原さんと同じ班になりたかったでしょ? で、違う班になってかなり落ち込んだ。オレが見ても分かるぐらいにね」
 あたしは答えなかった。沈黙が肯定になることがわかっていたし、これ以上隠すことは何もなかったから。あたしは次の言葉を待った。
 黒越先輩は言葉を紡いでいく。
「恋愛感情があったからそうなったのかも知れない。そうじゃなくて、好きなのかもって自分の中で迷っていたから、『好きなんだったら落ちこまなきゃいけない』って無意識のうちにそうなったのかも知れない。
 それがどっちなのかなんて、オレにも京野さんにもわからないけど…」
 そこまで言って、黒越先輩は少し言葉に詰まったようだった。どうしたんだろうと思ったが、しかしその表情を見ることは出来なかった。
「…でも、少なくとも京野さんは蛍原さんを嫌いじゃない。その事実が自分でわかってるなら、それでいいと思うんだ」
 そう言って振り返り、黒越先輩は笑顔をつくってみせた。
「自分の気持ちがどういうものなのか、これから確かめていけばいいんだからね」
 あたしは黒越先輩を見た。あたしと一歳しか差がないはずなのに、その顔は随分と大人びて見えた。
 あたしは微笑んで答えた。
「そうですね。ありがとうございます」
「いいよ、そんな」
 黒越先輩は照れくさそうに言った。滅多に見せないその表情に、あたしはなんだかおかしくなった。
「そーだ、もうひとつお礼言わなきゃ」
「え?」
 あたしは空っぽの缶紅茶を指で踊らせた。
「これも、ありがとうございましたっ」
 ああ、と黒越先輩も空っぽの缶コーヒーをゆらした。
「どういたしまして」
 笑い声の後ろで、鳩の声とともに蝉も歌い出していた。


 危惧したとおり、その日の昼頃にもなると、あたしは睡魔と一戦交える羽目になった。肉体的な疲労はかなり溜まっていたが、それでもあたしは一度も眠る事なくその日を乗り切った。夜にはマージャンポーカーもやった。精神的な解放感によるものだろう。
 味覚発見部のエース・高須先輩と同じ班だったお陰で、あたしは珍しく失敗する事もなく完璧な料理を作り上げた。ピーマンにフカヒレのイメージを持たせるというかなり強引なそれは、高須先輩の形容し難いほどの鮮やかな腕前によって見事に完成した。そこに設定上の強引さは見られず、民宿のおかみさんでさえ舌を巻いていた。
 あたしたちは完成した料理を写真に収めた。後の反省材料と、文化祭での展示に使用するからだ。
 ……文化祭。
 九月の終わりに開催されるそれは、文化系の部活にとっては数少ない活動内容発表の場となる。うちの部も御多分に洩れない。
 ちなみにあたしたちがやることは、過去に作った料理の写真とレシピの展示、それから顧問の先生(合宿には来なかった。潤ちゃんの記憶によれば「家族サービスせにゃいかん」というのが理由らしい)の粋な計らいによって実現した、「あの料理をもう一度」。過去の料理を実際に何品か作る、というものだ。今まで上層部がうるさくて実現出来なかったらしい。それを可能にしてくれた先生に敬意を表し、ネーミングセンスに関しては目をつぶることにしよう。
 そんな訳で、九月に入ってからというもの、あたしたちは少しでも空いている時間があったら部室に詰めるという、言うなれば人気作家さながらの日々一色になった。合宿が終わったらすぐ始めれば、とも思ったが、残った夏休みはゆっくり過ごす、というのが部の方針だそうだ。まあ、らしいと言えばらしい。
 あたしと潤ちゃんはこれが初めての文化祭なので、右も左も分からなかったが、前述の通り例年よりすべきことが増えたことで、いつにも増して忙しそうな先輩たちに迷惑をかけるわけにもいかず、とにかくあたしたちは写真の配置にレイアウト、機材運びに広報活動と、出来ると思われるあらゆる事をやることにした。潤ちゃんは「こんなに大変な文化部があっていいのだろうか、いや良くない」と習いたての反語表現を使って文句を言っていたが、確かにそれほどまでにあたしたちは忙しかった。
 そして、忙しさがピークに達したころ、文化祭はやって来た。


 一日目は内部のみの文化祭で、何だかあっと言う間に終わってしまった。やっぱり真の文化祭は外部の人たちが来る今日だと思う。そんなことを言っていたら、受付をやっていた間先輩に笑われた。間先輩のクラスの担任の先生も同じようなことを言っていたらしい。
 お客さんの入りは例年よりも上々だったようで、その予想外の人の量に、あたしは担当時間ではなかったが手伝いをすることになった。
「先生、手伝って下さいよ〜」
 手伝ってくれないのは分かっていたが、それでもたまたま来ていた顧問の先生に泣きついたりした。そうせずにはいられなかった。
 何だか寂しさを感じている自分がいたからだ。
 合宿後は一カ月近くも部活がなかった。二学期に入っても文化祭の準備で忙しかった。その二つの事実は、あたしに蛍原さんと話す機会をことごとく奪っていた。
 事情を知っている黒越先輩は、始めは色々と気を使ってくれていたようだったが、そのうち文化祭のプログラムの挿絵書きなどに駆り出されてしまった。前にも言ったが、黒越先輩の絵は校内でも評判なのだ。
 あたしは色々と質問してくるお客さんに対応することで、その寂しさを紛らわしていた。
 しばらくすると、とりあえずピークは治まった。多少余裕もできてきて、あたしは一息ついた。ちらと展示のコーナーを見ると、合宿のときの料理の写真のひとつが目に飛び込んで来た。
 一見ただの杏仁豆腐に見えるその料理。
 あみだくじで二番だった、潤ちゃんと蛍原さんが作ったものだ。
「…蛍原さん…」
 誰にも聞こえないように、あたしはそっと呟いた。その声は人込みの中に消えていく。
 はぁ、と溜め息をついて、また仕事を始めるかと思ったとき、
「お疲れさん」
 ぽん、と優しくあたしの背中を叩く手があった。この声は…
「蛍原さん!」
 あたしは目を疑った。だけど、今の手の感触は、今の声は、動かしようのない事実となってそこに存在していた。願いが神様にでも届いたのだろうか。そうだとしたら、あとで御礼参りだ。
 蛍原さんは周りを見回した。
「黒越くんから援軍の要請を受けたから、高須を置いて来てみたけど… そうでもないね」
 言われて気が付いた。受付のところに黒越先輩がいる。黒越先輩はこっちを見て微笑んだ。
 神様は受付にいたのだ。
「さっきまで大変だったんですよー。もう少し早く来てくれれば良かったのに」
「ははっ。ごめんごめん。高須の方が色々と大変でさ」
「あ、そういえば、高須先輩はどうしたんですか?」
「あ、知らないっけ。あいつ、午後からイベントやる予定の有名人の昼飯作ってるんだ」
「有名人?」
「何とかっていうラジオ番組の人だったかな」
「あ、そういえばプログラムに誰か来るって書いてありましたね。へー、高須先輩が料理作ってるんですかー。すごいですね」
 そうだね、と相槌を打って、蛍原さんは腕時計を見た。
「十時半… そろそろ京野さんの担当時間じゃない?」
「え? …あっ!」
 そろそろどころの騒ぎではない。あたしの担当は十時からだ。受付にその姿を確認したときに気が付くべきだった。この時間はあたしと黒越先輩が担当なのである。
「高須の方は何とかなりそうだし、しばらくはこっちを手伝うよ」
 そんな声にお礼を言いながら、あたしは急いで受付の椅子に座った。
「ごめんなさい、完全に時間忘れてました」
 息を切らせながら言うと、黒越先輩は笑った。
「もう少し話しててもよかったんだけどね。間にも手伝ってもらってるし」
 見ると、確かにお客さんに料理の説明をしている間先輩の姿がある。仕事をしていなかった自分が余計に申し訳なく感じられた。
「ま、とりあえずここに感想とか書いてもらってね。ここが名前で、ここが学校名」
 目の前に置かれたノートを開いて、ボールペンで書かれた枠を指し示す黒越先輩に、あたしはそっと言った。
「…ありがとうございました」
 途端に黒越先輩は頬を赤く染めた。
「いいって、そんな」
 また照れてる。あたしはくすくす笑った。
「とりあえず」
 黒越先輩は声を励ました。
「午前中はこれから昼飯の時間までが勝負だからね。気合いれていこう」
「はーいっ」
 お客さんが、また増え始めた。


 時計を見ると、十一時を少しまわっていた。なるほど、そろそろお昼の時間ってわけね。あたしは納得した。人口密度は随分下がっている。
「ふ〜」
 ようやくお客さんから解放された蛍原さんが、溜め息まじりにあたしたちのところへやってきた。
「そろそろ、他の店に行ってみるかな」
 よく考えると、蛍原さんは昨日もずっとここにいた。他のところにはどこもいってないんだ。
「あ、そうですか? まあ、本当はこの時間の店番は僕と京野さんですからね。ゆっくりしてきて下さい」
 黒越先輩が言った。あたしと同じことを考えたのだろう。
 蛍原さんは、これが始めての文化祭なんだ。
 なんやかんやで間先輩も行ってしまい、結局あたしと黒越先輩だけが残った。
 ほんの少しの知ってる名前、大多数の知らない名前、電話帳みたいにいろんな名前が書かれた目の前のノートを、あたしはぼーっとしながらぺらぺらとめくっていた。
 だから、突然言われたその言葉を聞き取ることはできなかった。
「…でしょ?」
「えっ?」
 声の主を見た。黒越先輩は頬杖を突きながらあたしの方を向いていた。もう一度口を開く。
「行きたいんでしょ?」
「…そりゃ…まあ…」
 言いよどむと、
「こっちはいいから」
 黒越先輩はことさら明るく言った。
「京野さんは行ってきなよ」
「でも…」
「一度逃したら、チャンスは帰ってこないよ」
「…」
 あたしは少しためらった。それは、弱気な自分との戦い。勝者は…
「黒越先輩」あたしは席を立った。「申し訳ないんですけど、あとはお願いします」
「頑張ってきなよ」
 笑顔で見送られ、あたしは急いで駆け出した。
 蛍原さんに、追いつくために。
「…結局、オレはキューピッドか。…まあ、いいけどね」
 そんな寂しげな黒越先輩の声は、聞こえるはずもない。


 正直、自分の気持ちはまだ分からない。
 好きというわけではないのかもしれない。
 …それでも、あの気持ちは本当だから。
 長い間話せなかったときの気持ち。優しく背中を叩いてくれたときの気持ち。
 あのときの自分は、確かにあたしの中にいる。それは間違いないのだから。
 あたしは人込みを掻き分けた。その先には、見慣れたシルエット。今まで声をかけられず、ただ見つめてきた背中。
 ここは終着地じゃない。すべては、ここからまたはじまるんだ。
 今の自分を信じて…。
「蛍原さーん!」

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