小説 / 空の見る夢

ファミリーレストランで出会う不思議な人物。「於・雑木林」の続編?

 気づけば花火の音もやんだ。
 壁にかけられた時計は十時半を指していた。
 そんな時間か、と周りを見る。夕方頃降った雨の影響か、店内はほとんど空席だ。
 窮屈な制服に身を包みながら、ひとつ微かな溜息をもらした。

 アルバイトを始めたのは三月ほど前のことだ。あまりにも張りのない、単調な生活に嫌気がさし……いや、むしろそういった生活を送る自分自身に嫌気がさしたのだろう。浪人生であるにも関わらず、いわゆる「ファミレス」で働くことになった。
 去年の夏も同じような調子で単調な日々を過ごし、ビートルズの流れる喫茶店で物思いに耽り、結果大学受験に失敗した。そして今、自分はビートルズの流れるレストランにいる。なにか来年の自分を暗示するような、少しだけ皮肉めいたものを感じないでもない。
 この日は折りしも夏祭り、店内は浴衣姿の若者やらであふれ返るはずだったのだが、普段以上に閑散とした店内に、他の従業員らもどこか違和感さえ覚えている様子だった。祭りの締めくくりとして盛大に行なわれるはずの花火も、どこかしめやかに過ぎ去った。
 夏祭り要員として借り出されていた従業員らは次々と帰り支度を始めた。確かにこの状況ならば、店員ばかりが多いのはむしろ邪魔にもなる。残ったのは自分を含め数名のみ。
 からん、とどこからか届いた氷の音で我に返った。客が来ないのならば、今来ている客にできるだけのサービスをしなければ。急ぎ足でコーヒーポットを手にした。
 安いやら高いやら、とにかくコーヒーには違いない。独特のその香りはいつも鼻孔をくすぐった。淡い思い出と苦い経験と、色々な感情が交錯し、そして瞬間に消えた。あとに残るものはいつも何もなかった。香をかぎ得るのは香を炊き出した瞬間に限る…と言ったのは夏目漱石だったか。
 しかしその時、ただひとつ頭の中に残るものがあった。目の前のこの香りに喚起されたもの。
 いつもコーヒーだけ注文し、何時間も滞在する客がいた。他の従業員達は彼をあまりいい目では見なかったが、自分だけはなぜか不思議な気持ちで彼を見ていた。彼にはなにか、自分に訴えかけるものがあるように思えた。
 今日はその客は……
……いた。

「コーヒーのおかわり、いかがですか?」
読んでいた本から視線を離し、彼はこちらを向いた。
 いつもどおりのスキンヘッド、無造作に伸びた顎鬚。他の店員が敬遠したくなる気持ちも分かる。しかし彼の目は、いつもどこか憂いを、そしてその奥に懐かしさを含んだような目だった。濁った色の奥に輝きを隠すビー玉のような。
「ああ、結構です。ありがとう」
そう言って彼は笑った。ふと灰皿を見ると、ずいぶんと吸殻が詰まれていた。
 失礼します、と席を離れようとしたとき、不意に声をかけられた。
「今夜は」
思わず彼の顔を直視した。
「今夜は、ずいぶん静かですね」
「そうですね」
コーヒーポットを気にしながら、とりあえずの受け答えをした。愛想笑いだけは浮かべておく。
「あなた、私が来る時はいつもコーヒーのおかわりを持ってきてくれる。どうもありがとう」
「ああ、ありがとうございます。まあ、私もコーヒーが好きですので」
「どうです、少し私と話をしませんか」
「え?」
彼の目の奥にその意図を窺った。しかしその前の濁りに遮られ、逆になにか自分を見透かされそうな気がして目を逸らした。
 まあ、額面どおりの意味なんだろう。夏祭りもぱっとしないような日だ、なんとなく人恋しくなって話がしたくなっただけなのかもしれない。
 壁の向こう、禁煙席に目をやると、暇を持て余した従業員があくびをかみ殺していた。この様子なら、多少ここで話をしていたところで差し支えはないだろう。
「いいですよ。どうせろくに仕事もありませんから」
そう言うと、彼は満足そうにテーブルの上の本を閉じた。

 その本の表紙にはなにやら横文字が書かれていた。見覚えはないことはない。これは…
「フランス語の本ですか?」
疑問が口をついて出た。友人がフランス語を学習していたこともあって、わずかに覚えがあったのだ。
「これですか」
思ったより薄いその本をひらひらさせて彼は言った。
「そうです、といっても、ほとんど意味はわからないんですがね」
苦笑いを浮かべたその顔に皺が浮かんだ。予想以上には歳をとっているのかもしれない。
「ただ、死ぬ前に一度だけでも、ルーブル美術館に行ってみたいんですよ」
「へえ。モナリザでも見に?」
ルーブルに関する知識などこの程度だった。
「それもありますが」
彼は少し目を細めた。
「私もテレビや写真でしか見たことがないんですが、ルーブル美術館の大階段の踊り場に置かれた彫刻、サモトラケのニケ。それをこの目で一度見てみたくて」
「サモトラケ?」
どこか聞き覚えのある単語だった。確かあれは、模試前日に無理やり詰め込もうとして紐解いた、世界史の参考書に書いてあった……
「エーゲ海のサモトラケ島」
再び口をついて出た言葉に、彼は目を見開いた。
「よくご存知ですね」
「あ、いえ、先日ちょっと単語だけ目にする機会があって。浪人生なもんで」
「そうなんですか。そう、そのサモトラケ島から出土された彫刻。大空へと羽根を広げる、悠然としたその姿を、一度でいいから見てみたいんですよ」
羽根を広げた姿。悠然とした姿。
 直視していられなくなり、彼の瞳からついと目を逸らした。
 わずかに顔を上気させながら語っていた彼も、さすがにその急な態度には気づいたらしい。
「どうしたんですか」
熱い口調とは一変、やわらかく聞いた。

 その優しさにつられ、改めて彼の目を見た。霞は消え、ビー玉はいつのまにか輝きを取り戻していた。手に届くのに掴めないような、掴めないのに目の前にあるような、そんな不思議な気分にとらわれながら、清澄さにつられるように口は開く。
「羽根を広げた姿ですか。羽根を広げられるのは、幸せなことですよね」
自分の言葉の節々に自嘲のかけらがこびりついているのがわかる。抑えようとしても、拭い取ろうとしても、一度流れ出したものをせき止めることはできなかった。
「私はもう、羽根の広げ方なんて忘れてしまいました。羽根なんてもう切り落としてしまったから。大空を見ることもなくなりました。もう飛ぶことなどできないから」
大学入試に失敗し、浪人生となってから、目的と手段とが交錯しているのが自分でもわかった。日を追うごとに自分の感覚が濁っていくのがわかった。あれだけ強く望んでいた、心に描いていた夢さえも、今ではすっかり色あせているのがわかった。
 もはや、自分に空を飛ぶ手段などない。
「きっと私は、誰かに打ち上げられて終わりなんです。自分で羽ばたくことなどできない。打ち上げられて、あとは地面に叩きつけられるのを待つだけなんです。それが私に待つ未来なんです」
「未来を待つんですか」
彼はゆっくり口を開いた。その口調は疑問を含んでいるわけでも、ましてや憂いを含んでいるのでもない。それは詰問、とでも言えるような強い口調だった。
「あなたはいつも待ってばかりだ。そしてまた、代わりにどんな未来でも受け入れるという態度をとることで自分を正当化している。違いますか」
「そんなことは」
豹変した彼の態度に戸惑いが隠せなかった。否定しようとするその声にも感情が露呈してしまう。
 彼ははっとしたように目を見開いた。
「失礼、きついことを言ってしまいました」
それから顎鬚をさすった。
「ただ、今のあなたは、あまりにも視界が狭いので。誰かが言わないとわからないと思ったんです」
「視界が狭いって、私は別に」
「だから、自分には羽ばたく手段がないなんて言うんでしょう」
そう言って手を伸ばした。腕をつかむ。
「あなたにはこの腕があるじゃないですか」
「腕?」
腕をつかむ繊細な感触に違和感を感じながら聞き返す。
「なるほど確かに今のあなたには翼などないかもしれない。ですが、翼というのは、鳥の前足が変化したものだといいます。鳥の前足にあたる、この腕。あなたはしっかりと持っているじゃないですか」
その瞳に吸いつけられている自分に気がついた。黙って続く言葉を待つ。
「その腕をいつか翼に変えればいい。翼に変える努力をすればいい。そういうものじゃないですか?
 まだまだ結論を出すには速すぎますよ」
ゆっくりと彼は腕から手を離した。

「コーヒーのおかわりもらえますか?」
その言葉ではっと我に返った。彼の目には再び濁りが戻り、奥の光はまた潜んでしまった。
「あ、ええと、ちょっとぬるくなってますよ」
「構いませんよ」
そっとカップを手に取り、コーヒーを注いだ。香りはあまりしなかった。
「ありがとう。そろそろお仕事に戻るころでしょう」
「そうですね」
見ると、壁の時計は思ったよりはるかに長い時の経過を告げていた。もうバイト終了の時間だ。
「ごゆっくりどうぞ。私は帰り支度をさせてもらいますね」
そう言って彼の瞳をそっと覗いた。
もう一度輝くのを期待したが、どうやらそれは望めないらしい。やむなく席を去ることにした。彼に背を向ける。
「あなただけの翼を。今はその準備期間なんですから」
その声に振り向いたが、彼は再び本の中に視線を投じているところだった。
 今のは彼の声なのか、それとも…

 自転車のサドルの上には、一枚の白い羽根が乗っかっていた。何の因果かねえ、と苦笑しながら、祭りの余韻をほんのわずか残す街の空に、のびをするように大きく両腕を上げた。
 サドルに乗った白い羽根が、風に吹かれてふわりと揺れた。

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