青梅の歴史U


青梅の歴史U目次


江戸時代

石灰

新町村の開拓者織部之助

市(いち)

青梅縞

市争い

入会山紛争

宝暦箱訴事件

御三卿

増永諸運上赦免願

大丹波村輪光院の顕彰碑

筏乗り









江戸時代

慶長8年(1603)徳川家康、江戸に幕府を開く。

天正18年(1590)6月23日八王子城落城、7月5日小田原城落城、北条氏滅亡。

8月1日家康関東入国。多摩地方も、単なる支配者の交代ではない、土豪・地侍を認めない、厳しい検地など新しい体制の中に組み込まれました。

八王子周辺から多摩川上流は「山の根」とよばれ徳川氏の直轄地となりました。

家康は「山の根」を重視し、天正19年(1591)には早速代官として大久保長安を派遣し治めさせています。

代官は検地、年貢の徴収、訴訟の裁決、治安の維持などにあたりました。

「山の根」を治めた代官の屋敷は八王子にあり、青梅には「陣屋」とよばれる代官所の出張所が置かれました。

青梅の陣屋は天正末年、小代官とよばれた田辺庄右衛門の住まいであった日向和田の館にありましたが、後に青梅村西端の森下に設置されました。

広さは延宝の検地帳によると、跡地1,920坪とあります。代官所の鎮守が今の熊野神社。見事な樫の木が今も残っています。

長安の命令で派遣された役人は、手代、小代官といわれました。

初代の手代のうちでは、大野善八郎、鈴木弥右衛門などの名が知られています。その後は、多くは地縁者が採用されたようです。

森下陣屋の支配地域は、おおむね現在の八高線から多摩川上流にかけての範囲でした。

延宝8年(1680)の支配地と石高をみると、三田領(羽村以西)9,858石、加治領(飯能付近)4,285石、高麗領(日高付近)9,143石、毛呂領(毛呂山付近)1,962石 合計25,250石。

「俗に山の根25,000石」といわれ、八王子周辺を含めると9万石でした。

「山の根」は武蔵野の山沿いの土地という意味です。


石灰(いしばい)

青梅が重視されたのは、山林資源と、成木、北小曾木の石灰です。

慶長11年(1606)から家康は江戸城の大改築に取り掛かりました。

その年の冬に、幕府老中から八王子代官大久保長安のもとに命令書が届きました。

江戸城大改修のための白土(石灰)を青梅の成木と北小曾木から取り寄せたいというものでした。

城などの白壁の材料は石灰石を焼いてつくる消石灰がつかわれました。

成木川上流は石灰岩が多く露出していたため、石灰焼きが盛んにおこなわれていました。

これは、八王子城落城後に帰農していた、木崎平次郎、佐藤助十郎、川口弥太郎、野村伝七の4人の地侍によって始められたといわれています。

成木、北小曾木の白土は以来、江戸城だけではなく、日光東照宮や名古屋城、二条城、大阪城などにも使われました。

幕府は白壁用の白土が必要になると、その都度青梅の白土の上納を命じました。その度ごとに数千両の支払いがあったようです。

上納の他は、自由に販売することが認められ、村人にとっては貴重な収入源となりました。

江戸では、たびたび大火がありましたが、その復旧の都度、大量の白土の注文があり村は潤いました。

しかし、江戸中期以降は牡蠣殻灰や栃木の野洲石灰などにおされるようになってしまいました。

長安は、石灰運搬のため道路と伝馬制度の整備に取り組みました。この道路が「成木街道」です。のちに「青梅街道」と呼ばれるようになりました。

初期の成木街道のコースは、上成木・北小曾木→岩蔵→新町→箱根ヶ崎→残堀→小川→田無→中野→新宿→四谷→江戸というコースでした。

経路にあたる村々は石灰送りの助郷(諸街道の宿場の保護、人足や馬の補充のため宿場周辺の農村に課した賦役)をつとめなければなりませんでした。

明治の初めの数年間には、羽村から玉川上水を船で運んだ記録もあります。


新町村の開拓者織部之助

青梅街道を西に進み、青梅に入って少し行った左折すれば小作駅という新町桜株信号の次の次。

御嶽神社入口交差点の少し先に有形文化財旧吉野家住宅というのがあります。

この吉野織部之助は、このあたり新町村を新田開発した人です。

新田開発は、江戸中期(享保年間 1716〜1735)8代将軍吉宗の頃に盛んに行われました。

国分寺、小平、小金井などには以前、地名に内藤新田、戸倉新田、本多新田など新田とつくものがかなりありました。

これらのほとんどは、将軍吉宗の頃の開発によるものです。

しかし、この青梅新町村の新田開発はその約100年前、2代将軍徳川秀忠の頃(慶長年間 1596〜1614)に開始されているのです。

吉野織部之助は後北条氏の陪臣でした。忍城主成田長親に仕えていました。

天正18年(1590)秀吉によって後北条氏が滅ぼされた時、その支城であった忍城は有名な三成の水攻めによっても落城しませんでした。


しかし、小田原城が降伏開城したため忍城も開城することとなりました。

このため、多くの武士がそうしたように、吉野織部之助もやむなく帰農して、現在の青梅市の下師岡村に住みました。

その後、村の名主になりました。

二代将軍秀忠は慶長15年(1610)鷹狩りをした際、武蔵野の原野を目にし、城から10里の当地が草ぼうぼうであることに驚き、新田開発を奨励しました。

新田開発の望みを持っていた織部之助は、翌慶長16年(1611)に八王子代官大久保岩見守に願い出て直ちに許可されています。

新田開発した場所は、古くからある「秩父道」と「青梅街道」の交わる、将来性のあるところでした。

早速、近隣の村々に移住を呼び掛けましたが、応募者は全くいませんでした。これは、近くの西間村が飲料水の問題などで廃村になっていたことによるものです。

それでも、織部之助は事業を開始しました。ほどなく、師岡村の池上新左衛門と島田勘解由左衛門、吹上村の塩野仁左衛門の3人が協力者となりました。

新村は東西18町(1町は109m)、南北11町ありました。

青梅街道を90mほど南に移動し、道幅は7.2mとし、両側に33戸づつ66戸の敷地を割り当てました。一戸の間口は9間としました。

織部之助は新村が農村としてだけでなく、宿場としても栄えるように考えていたのです。1,200坪の陣屋の予定地までつくりました。

慶長18年(1613)2度目の大募集をかけました。八王子代官も協力して村々の次男、三男に働きかけました。

移住者には、屋敷用の土地を無償で与え、のちに自分で開墾した土地も無償で与える上、3年間は年貢も免除するこことしました。

これらにより、ようやく開墾希望者が増え、開拓は順調に進みました。

井戸を掘り、東禅寺、鈴法寺をつくり御嶽神社もつくりました。そして、元和2年(1616)「新町村」と名付けました。

のちに小麦の生産では、近郷で一番の品質となり、江戸に売り出したほどです。この他、ひえ、あわ、きびの栽培、荏油、酒などの生産、養蚕も行われました。

荏油は荏胡麻の種子から絞った油で、食用に、また乾性油なので塗料用(油紙、番傘など)に用いられました。

中世末期に菜種油が普及するまでは、灯火にもこれが主に用いられました。



  

元和3年(1617)織部之助は新町村に市をつくろうと、七日市場の権利の一部を譲り受け、7日と27日を新町村の市の日としました。

後に4、14、19、24と合わせ6日間の「六斉市」とし、「市」としても栄えるようになりました。


一方、青梅宿の「市」も多摩地域では八王子に次ぐにぎわいといわれ、2と7がつく6日間の「六斉市」でした。

市は「縞市」といわれ、取引される商品は特産の織物である青梅縞を中心に近隣の村々から集まる農林産物、生活用品、道具などでした。

  青梅縞

青梅縞については、室町時代の大永元年(1521)熊谷で綿の種が初めて売られたという記録や、「風土記稿」の嘉吉元年(1441)に始まるというのがあります。

享保17年(1731)の「万金産業袋」という本の中では「青梅縞」という固有名詞が登場しています。

「江戸風俗史」という本にも「男児は青梅縞に限る」とあります。

あの有名な十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、京都の茶屋の女の様子を「青梅の布子(木綿の綿入れの着物)に黒びろうどの半襟まで白粉べたべたつけたる・・・」とあり、京都や大阪にも普及していたようです。

  市争い

200年後の文政12年(1829)、問題が発生しました。

たいして離れていない青梅村と新町村で2つの市が開かれているため、青梅縞の生産が追いつかなくなったのです。

青梅縞が品薄では市がなりたちません。はじめは青梅宿側が訴訟を起こしました。その後、互いに近隣の村を味方につけ幕府に対して請願を繰り返しました。

この紛争は文政12年(1829)から9年間続いたのち、青梅宿が勝訴しました。新町村は5日と25日の月2回の市とするように命ぜられました。

その結果次第に新町村の市は活気を失ってしまいました。


入会山紛争

寛永8年(1631)黒沢村と吹上村との間で、秣場に植林したことから入会山粉争発生。

人口が増えてくると、それまで村民は入会山(地)に自由に立ち入り、肥料用の落ち葉、馬のえさの秣(まぐさ)、燃料用の薪などを取っていたのですが、いろいろな問題が起こるようになりました。

一つの村だけの入会山はあまり問題になりませんでしたが、複数の村がかかわっている場合に、取り決めをめぐって度々トラブルが発生しました。

上の入会山はその後も、寛永13年(1636)、寛文4年(1664)、明和5年(1768)、安永5年(1776)、嘉永5年(1852)に争いが起きています。

他の村でも、寛文4年(1664)御岳村と青梅村など6か村、延宝5年(1677)大荷田村、元禄4年(1690)南小曾木村と今寺など5か村、享保14年(1729)日影和田村と青梅村との間で争いがありました。

人口が増えたため、それぞれが自由に行動しても、利害がぶつからなかったものが、相対的に入会山が狭くなり、利害が衝突するようになったということです。


承応3年(1654)玉川上水完成


宝暦箱訴事件

幕藩体制の経済的矛盾が目立つようになり、これを解決するため8代将軍吉宗は「享保の改革」(1716〜)を行いました。

しかし、農民にとっては厳しい四公六民の年貢が五公五民と更に厳しいものになるなど、一揆がさらに多く発生するようになりました。

最初は、村役人、名主などの村の代表による年貢減免、検地拒否の越訴だったのが、やがて全村、さらに複数の村人全員が徒党を組んでの「強訴」に変化していきました。

越訴(おっそ)とは、再審などを求めて正規の法手続を踏まずに行う訴え。直訴は最高権力者の個人に対して訴えるのに対して、越訴は上級訴訟機関に対して訴えるものです。

強訴とは、江戸時代にお上に対し農民が集団で訴える事を強訴と呼んでいました。いわゆる百姓一揆のことです。

宝暦箱訴事件は、宝暦8年(1758)から3年間、田安領だった現青梅市の18か村などの村々が闘い続けた事件です。

  御三卿

第8代将軍徳川吉宗が次男・宗武、三男・宗尹を取り立てて別家させたのが御三卿の起こりです。さらに、吉宗の長男である第9代将軍徳川家重が、自身の次男重好を別家させることで、御三卿の体制が確立しました。

それぞれの姓は徳川で、田安一橋清水の名称は、それぞれの屋敷地が所在する江戸城内の最も近い城門の名称に由来しています。

田安家は10万石を給付され、武蔵国(多摩郡・高麗郡・入間郡)75村、下総国35村、その他甲斐国、摂津国、和泉国、播磨国などに領地がありました。

現青梅市域では、青梅村、乗願寺村、上長淵村、下長淵村、友田村、野上村、塩船村、新町村、今井村、畑中村、日影和田村、下村三分、御岳村、二俣尾村、南小曾木村、黒沢村、富岡村、下成木村の18か村でした。

周辺では大丹波村(奥多摩町)、大久野村(日出町)、石畑村(瑞穂町)などがありました。


宝暦8年(1758)、田安家の役人が領内の村々を回って、年貢の引き上げと増永そして新たな運上を申しつけました。

増永は、畑などにかけていた現金による税金の値上げということです。運上は物産ごとにかけられる税金です。

ただでさえ厳しい状態の農民にとっては、とんでもない無理難題でした。

日影和田村に残っていた古文書によると、村全体で田は3反2畝16歩、畑は24町9反5畝16歩ありました。

そこから収穫できる米は2石2斗3升3合、畑からは米換算で140石1斗8升7合でした。

宝暦10年の貢租は米が8斗6升2合、永は8両でした。これが翌年には米が1石3斗2升1合、永は11両に値上げされました。

これは、米が57.4%、永が38.8%の増税であります。

田畑からの税収だけでは、限りがあるとみた田安家の役人は入会山などにも運上の範囲を広げました。

  増永諸運上赦免願

各村の代表が、江戸の田安家の役人や家老に面談し、増税を止めるように請願しました。しかし、取り合ってもらえませんでした。門訴し、投獄された者もいました。

さらに、箱訴も行いました。

箱訴とは、8代将軍徳川吉宗が、庶民からの直訴を受けるために設けた制度で評定所門前に置いた目安箱に訴状を投げ入れさせたものです。

しかし、10代将軍家治は関心がなく、これを読むことはありませんでした。しかも、内容は田安家に筒抜けでした。

箱訴は9回に及びましたが、効果はなくかえって、厳しい罰を受ける名主が続発しました。

追放されたり所有地を取り上げられた名主は9人、手鎖をかけられたり免職になったものは多数にのぼりました。

死罪こそありませんでしたが、牢での過酷な扱いのため死亡した村役人は十数人になりました。

これらの一連の謀議は、大久野村坂本の神明社の裏山、斑峰(まだらみね)で行われました。回状は一夜のうちに伝わったということです。


 大丹波村輪光院にある 宝暦箱訴事件大丹波村牢死者顕彰碑

碑文

延享4年(1747)大丹波村は入間郡・多摩郡・高麗郡中の74ヶ村と共に幕府直轄領から田安家領へ編入され、次第に年貢の取立てが厳しくなったので、再三減免の陳情をしたが全く聞き入れられなかった。宝暦11年(1761)から13年にかけて大丹波村年番名主七郎左ヱ門が先頭に立ち近郷19ヶ村の農民を糾合して一大減税運動を展開し、徳川10代将軍家治へ箱訴に及んだのであった。然し、この運動も成功しなかったばかりか極めて厳しい吟味にあい入牢を申渡された者266名、牢死11名という悲惨な結果に終ったのである。中でも大丹波村の代表者は、六郎左ヱ門、欠所軽追放(牢死)、政右ヱ門 所払(牢死)、六右ヱ門 所払(牢死)、長兵ヱ 手鎖(牢死)、儀左ヱ門 所払、長右ヱ門 手鎖、作兵ヱ 手鎖という重罰を受け犠牲が最も大きかったのである。この運動は後の明和から天明にかけて全国的に蜂起した百姓一揆の先駆をなすもので慎に尊い犠牲といわなければならない。今や此等先輩達の義憤を偲び苦衷を察する時胸の痛む思いを禁ずるに忍びず、ここに碑を建ててその義挙を堪え永く顕彰する次第である。

昭和51年6月20日 大丹波村儀民顕彰会


多摩郡大丹波村(現奥多摩町)年番名主七郎左衛門、同村年番組頭長兵衛、同村百姓政右衛門の3名は、宝暦12年2月に直接江戸に上り、田安家の郡奉行および家老宅に赴き門訴を決行しました。

しかし、この訴えは聞き入れられることなく田安家では門訴をした農民たちの首謀者として捕え、厳しい吟味を行いました。その結果3人は吟味中に牢死したのであります。

3人の死後間もない時期に輪光院境内に供養碑が建立されていました。

近年、この事件が改めて研究・調査され、上のような顕彰碑がつくられています。


この事件の顛末は、幕府吟味の結果、判決文によると百姓に対しては「雑木林や宅地分の増税は取り止め、田畑については田安藩において再吟味。集団出訴の不届きについては所払い(居住地からの追放)8名(うち6名牢死)、田畑没収1名(牢死)手鎖118名、お叱り11名、無罪38名(うち牢死1名)」となりました。

一方農民と直接対峙した奉行や代官については「百姓どもの不平不満の騒ぎを直接報告せずいたずらに騒ぎを大きくした責任は大きい。よって役職取り上げとする」との判決。しかし古文書によると何年か後、奉行らは再び別の役職についたということです。


筏乗り

家康の江戸城改築が始まると、大量の木材が必要となりました。そのため、青梅の山林資源は江戸の商人などから大いに注目されるようになりました。

なにしろ江戸はその後(18世紀初頭)世界一の、人口50万の都市となりましたので木材の消費量も莫大なものになりました。

さらに、明暦の大火(1657)、明和の大火(1772)、文化の大火(1806)と大火事が発生し、大火に至らぬ火事は頻繁に発生していました。従って、木材はいくらあっても足りない状態でした。

江戸の木材は、木曽川谷や紀州方面からも船で運ばれました。

「近在物」と呼ばれた青梅の木材は、多摩川から筏で運ばれた物は「青梅材」、



















































































































































新町村ができたときに村人によって
つくられた御嶽神社にある織部之助
の碑




吉野家住宅 当時の建物は江戸時代
末期に焼失し、現在の建物は、第9代
目の妻の実家の建物を譲り受け、移築
したものです。手前は井戸。建物の前
方左手は式台になっている。かなり立
派なつくり。





新町村の「まいまいず井戸」 公園
の中にある柵は
東西約22メートル
、南北33メートル、深さ7メートルで
す。そのすり鉢の底に15.2メート
ルの
筒状の井戸が掘られています
この井戸の前面には「古青梅道」が
通り、西面には「秩父道」が通ってい
ます。この井戸は村ができる前から
ありました。羽村のものより一回り大
きなつくりです。