2004防府読売マラソン参戦記

臼井 義哉 記

 

12月17日(金)、午前10時頃、臼井選手は、成田空港の第二ターミナルのバゲッジ・クレイムで自分の荷物が現れるのをひたすら待っていた。

12月16日(木)昼頃、コペンハーゲンにて荷物を預け、早々とチェックインすることで、非常口前の席を確保し、すこしでもロングフライトによる足への影響を減らそうと努力したが、成田空港に到着するすこしまえから右足がしびれはじめ、なんとかしびれを治そうと、手でさすりながら荷物を待っていたが、一向に自分の荷物は姿を現さない。

やがて、ターンテーブルに乗っている全ての荷物が無くなり、ようやく自分の荷物が成田空港に到着していないことを悟ると、仕方なく近くにいる係員に声をかけ、どうしたらよいか尋ねた。

この日は、このまま自宅に帰れず、八王子工場に出勤しなければならなかったが、係員に荷物の形態・色・大きさなどを説明しているうちに、あっというまに1時間以上が過ぎ、出社は夕方近くになってしまった。

ミーティングに参加した後、忘年会が待っていて、それに参加してから、次の日の朝一番の飛行機に乗るため、予約しておいた都内のホテルに向かった。うっかり飲み過ぎてしまったので、ホテルの最寄り駅で降りることが出来ず、品川駅からタクシーを拾う。ホテルに到着して就寝したのは、午前2時頃になってしまった。

12月18日(土)、つまり2004防府読売マラソンの前日朝、完全に二日酔い状態で、それでも飛行機に乗り遅れることが許されないため、強引に起床し、電車で羽田空港へ向かった。

いつも利用しているANAで宇部山口空港へ向かう。短時間のフライトとはいえ、いい加減ヨーロッパで乗り飽きたので、本当にうんざりした気分になった。それでも、宇部山口空港で石丸夫妻に会ったときは、どんなに気持ちがいやされたことか。それもそのはず、宇部山口空港で一人でレンタカーを借りる予定が、仲間が二人もふえたのだから。

 

ここ毎年、防府読売マラソンには、集団で出かけて、集団で行動することが多かったが、今回は各自の都合が合わず、皆バラバラで行動する事となった。

しかし、ラッキーなことに、石丸夫婦と偶然にも空港で一緒になった臼井選手は、日産レンタカーで、当時としては出たばかりのTIIDAを借り、早速市内へと向かった。

レンタカーを借りる時には、すでに二日酔いも収まり加減になり、夫妻ともまともに会話ができるようになっていた。前回は大会前日の最終新幹線で徳山に赴いたため、レンタカーを借りなかったが、2年前の記憶が残っていたため、ナビゲーションシステムを大して頼らずとも、記憶の中の景色で防府への道をたどることが出来たが、2年間のうちに、新しく出来た道が、更に防府へのアクセスを便利にしていて、予想よりかなり早く防府市内へと到着した。

軽く昼食を取った後、開会式の会場へと向かうと、時同じくしていつものメンバーが集まりだした。それに加えて、今年は岩田夫妻が、防府へ来ていた。岩田道也選手にとっては、夢にまで見た防府読売マラソン、そして完走すれば、おそらく自動的に自己ベストが更新出来るはずであった。

仲間内での今回の注目ランナーとしては、岩田道也選手と同様初参加の、俊足の女性ランナー・渡村恵子さん抜きでは語れない。2年前東京国際女子マラソンで当時自己ベストである2時間49分50秒を出しているとはいえ、もっぱら「もっと行けるのでは・・・」というのが下馬評であった。

しかしながら、臼井選手としてはやはり岩田選手が各関門をクリアして、きちんと完走できるかどうかの方が、よほど興味深かった。なぜなら、各関門時間をぎりぎり一杯で通過できるペースをきめ細かく計画立てて、そのとおりに走りきらねば、それまでの岩田選手の実績から完走は難しいと思われたからである。しかし、2ヶ月前の走りこみでは、月間500kmを初めて大きく上回る練習量で乗り切り、今回の大会に完全に照準を絞って調整してきており、周囲や本人が思うほど岩田選手のポテンシャルは低くなかった。

開会式の終了直後に渡村さんが防府駅に到着した。彼女を除く全員は例年どおりホテルみやまだが、彼女はツアーの関係で別のホテルに宿泊。明朝一緒に行動する時間決めをし、すぐに別れた。

 

一行はホテルみやまに到着すると、夕食の時間を決めて、夕食までの自由時間を取ることにした。あるものは買い物へ、あるものはジョギングに出かけた。

やがて夕食時間になると、ホテルの一階にあるレストランに集まりだした。さてこれからが鬼門と言われる武田悦男選手の「飲めー!飲めー!」攻撃が開始される。いきなり人数分を上回る本数のビールが注文され、飲めや歌えやが始まる。もちろん誰も嫌いな人はいないことも確かだが、それでもレース前日とは思えないほどのスピードであっというまにビールがなくなっていき、次から次へと追加注文されていく。

しかし、驚くのは飲む量もさることながら、食べる量である。大盛りのスパゲッティーが次から次へと注文され、おかわりされていく。全くもって、普段からこのような食生活をしていては、あっというまに生活習慣病になってしまうであろう。

これら暴飲暴食は普通のロードレース、たとえば5kmとかハーフだと、大きなマイナス要因になりかねないが、フルマラソンだけは話が別。暴飲は余計かもしれないが、アルコールは脂肪燃焼を鈍らせる効果あるともされていて、レース直前に軽い飲酒は良いと考えられるし、レース後半に弱い人は、多少の深酒によりレース当日の朝の調子を悪くすることで、レース序盤でのペースを抑える効果も期待できる。もっとも二日酔いはご法度だが、飲酒とフルマラソンの深いつながりを熟知した者で、酔っても自分を見失わない能力を備えた者のみ許される行為かもしれない。それも自分らのようなオチャラケランナーのみに該当する話だろう。脱水症状などの諸々のトラブルを塾考すると、やはりリスキーである。をれを知っていながら毎年同じことを繰り返しているので、どうしようもない人たちである。

だが今回は比較的軽め(といっても十分飲んだが)で終了したのは幸いなことだった。

 

特段事件らしい事件も起きず、穏やかな朝がやってきた。窓の外を見ると、レースにはもってこいの好天気、つまり晴れ時々くもりの、無風、気温もそこそこの低さ。しかしながら臼井選手の両足は、まだヨーロッパ出張の時の足の痺れが少々残っていた。朝食時、一階のレストランに全員集合し、朝食を取り始めた。ご飯を食べながら武田悦男選手は、相変わらず今日は調子が悪いと、いつもの弱気な台詞を吐いていた。そして朝からご飯の大盛りおかわりをしていた。これもフルマラソンには大事なことである。

9時30分になり、ホテルみやまを後にして、競技場に向かう。途中で渡村さんの宿泊しているホテルにより、彼女をピックアップしてから、途中35km地点を経由、レース本番で35km通過の苦しみを想像しながら競技場に10時前に到着。

いつも競技場の観覧席、ちょうど100メートルのスタートより少しだけゴール寄りの席に今回も陣取った。早速記念撮影(すみません写真紛失行方不明です)。ふと観覧席から競技場の反対側をみると、何本かの旗が風に揺られることなくダラリと垂れ下がっていて、その日がいかにコンディションが良いかを示していた。このままこの状態が続けば、好記録間違いなしだった。

スタート1時間前、ぼちぼちアップを始めるランナーがトラックに現れる。最初はそんなに多くなかったが、みんなつられるようにトラックに集まりだし、反時計回りにグルグルと走り出す。武田悦男選手は、今日は調子が悪い、あきらめたとばかり、アップで気違いのように何度も流しを繰り返していた。それに反して岩田道也選手はマイペースでじっくりジョギングをしていた。

レーススタート10分前、スターティンググリッドにランナーが整列を始める。だんだん緊張感が張り詰めてきた。いよいよ第35回防府読売マラソンのスタートだ。

 

号砲と共に500人近いランナーたちが一斉にスタートを切った。さすが防府マラソン、最後尾に並んでいても、全員のペースが速いので、スタートライン通過までのロスはミニマムである。武田悦男選手はいつもどおりスタートダッシュ、臼井選手はトラックのイン側をマイペースで、岩田道也選手はその2名よりも更に落ち着いたペースでのスタートだった。

ところで、トラックの一番イン側というのは、最後方か最前列で走る場合、逃げ場所が外側しかないので、意外と走りにくいことが多い。今回の臼井選手の場合も、何度も遅い選手につっかえ、外に逃れようにもポケットされてしまい、やむをえず急ブレーキをかけてしまうことがしばしばあった、たった500メートルだけだが、ブレーキをかけるのにも再加速するのにも筋力を使ってしまうので、ポジション取りって本当に難しい。その意味では、岩田選手は、後ろから誰とも接触することなく、本当に自分のペースでスタートできたと言える。あるいは石丸選手のように、先頭集団につくことができるスタートポジションと走力があれば、話は別なのだが。

その石丸選手、今年もスタートから元気よく飛び出し、前半にタイムを稼ぐ作戦のようだ。今年はどこまでハイペースで走り続けることができるか。

入りの1km、まだ3人はお互いに見える位置関係にあった。だいたい4分ちょうどか、それより少し速いくらいか。そこから武田選手は徐々に前方に見えなくなっていったが、渡村さんはもうすでに視界から消えていた。彼女の説明だと、後半が弱く、前半で大きな貯金が欲しかったそうだ。そこは武田選手と同じ考えだ。

5kmを過ぎてから、武田選手が渡村さんに一瞬追いつくが、またすぐに離されてしまう。離れる前に、渡村さんが武田選手に何かを話しかけたらしい。渡村さんとしては、今自分のペースが速すぎるので、ついてこない方が無難ですよという感覚で話をしたらしいのだが、それを武田選手が悪い意味で解釈したらしく、それで武田選手は彼女から徐々に離れていったようである。

その武田選手、入りの5kmは19分前半で、その次の5kmも渡村さんから離れたとはいえ、19分中盤から後半にかけてのタイムを刻み続けていった。

対して臼井選手は最初から5kmのペースが19分後半・・・といっても限りなく20分に近かったが、可能な限り同じペースで刻んでいこうとしていた。更に後方を行く岩田選手は、本当に5kmを20分ちょうど、あるいはほんの少し超えるくらいのペースを固守、彼があらかじめシミュレーションしたとおりのタイムを刻むことに専念していた。他の選手との勝ち負けよりも、まずは全関門突破が命題だった。

 

臼井選手がハーフ地点に近づいてきた時、前方にオレンジ色のランパンランシャツの選手が少しずつ見え出した。武田選手が少しずつペースダウンしてきたのである。後ろから彼の表情を確認することは出来なかったが、その先の折り返し地点で、非常に苦しそうな表情を確認すると、俄然臼井選手は元気が出てきた。自分も折り返し地点を回ると、武田選手はすぐ前方を走っており、あっという間に追いつき追い越してしまった。

実は昨年、臼井選手は武田選手に、ここ防府マラソンで負けていた。めったに負けたことのないこのカテゴリーにおいて、あろうことか約3分もの大差をつけられて敗れてしまったのである。昨年のその出来事は単なる偶然、今年からはもう負けない。そういう気持ちがあった。

臼井選手に抜かれた武田選手は、その後も徐々に差が広がっていったことから、今年はとても勝てない、ゆっくり刻んで行こうと考えを切り替えた。事実あっというまに視界から臼井選手は消えていなくなってしまった。

さてそのはるか前方を走っていた石丸選手は、すでにレーススピードからジョギングスピードへとギアダウンし始めていた。それでも27km地点付近にいる防府名物「がんばれ」おじさんの前を走る頃には、まだ仲間内のだれも彼の前を走っていなかった。

その27km地点手前、植松跨線橋過ぎの交差点から29km地点過ぎの消防署のあたりまで、ひたすら直線が続く。この直線でほんの3〜4メートルの高低差があるが、それがだらだら登りに見えて仕方ないときがある。調子が良いときは気にならないが、ペースが落ちてきているときは、特にそういういやな気持ちになる。その長い直線の終点まで石丸選手は少しずつペースダウンしながら走ったが、ついに誰にも抜かれなかった。

 

(以下工事中・2007年1月20日)

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