安倍政権が今国会の最重要法案と位置付ける教育基本法改正案について、与党は近く衆院の特別委と本会議で採決する構えだ。
 前通常国会から継続して審議されている同改正案は、審議時間からいえばかなりの時間をかけてはいる。与党が目標としてきた「7080時間」には達するだろう。
 しかし、量と質は別問題だ。論議が深まったとは到底いえない。このまま採決に踏み切るのは乱暴にすぎる。
 再開された特別委の論議は、高校必修科目の未履修やいじめによる自殺問題に集中している。いずれも教育を取り巻く危機的状況を象徴する問題であり、徹底的な論議が必要なことはいうまでもない。
 だが、肝心の改正案そのものの論議は極めて不十分だ。なぜ改正が必要なのか、改正すれば教育の現状がどう変わっていくのか、について、政府が答弁で明確にしてきたとは言い難い。
 改正論議は、現行法とさまざまな教育課題の関係についての十分な検証と説明が前提となるはずだ。ところが、政府はそれらを抜きにして、単に「だから改正が必要だ」と改正ムードをあおることに終始しているようにみえる。
 それは、内閣府の「教育改革タウンミーティング」での教育基本法改正をめぐる「やらせ質問」にも相通ずる。改正の必要性に関する明確な論拠がないために、政策誘導へと走ったのだろう。
 政府案には多くの「教育の目標」が盛り込まれている。「国と郷土を愛する態度」「公共の精神」「伝統の尊重」などだ。
 どれもが心の問題といってよい。その内容をどう考えるかは人それぞれであり、違っているのが当然だ。一つの物差しで評価できるようなものではない。
 ところが、学校教育の場では目標と評価は不可分の関係にある。福岡市の小学校で「愛国心」の評価が通知票に加えられたことがあったが、改正によって一般化してしまう恐れは小さくない。
 自民党文教族は教育基本法改正を「憲法改正の一里塚」と位置付けているという。確かに、国家を個人の上に置こうとする流れは、同党の新憲法草案と教基法改正案に共通している。
 教育の主人公は子どもたちだ。その視点でみれば、論議の不十分さがよく分かるはずだ。

高知新聞 11/12(日)付社説 
論議は深まっていない