十二月八日

04’12’8
 今年も十二月八日がめぐってきた。十二月八日が何の日か知らない人が増えているという。それもやむを得ないことかなと思う。 
 第二次世界大戦、=私たちは「大東亜戦争」と言ったものだけれど= 始まったのは昭和十六年だ。終戦が昭和二十年、西暦1945年である。ざっと六十年前だから、ずいぶん遠い日の出来事になった。 
 子供のころ、私たちは日露戦争を「お話」として聞いていたが、その時点での日露戦争からの時の経過よりも、はるかに長い時間が過ぎている。 

 昭和十六年十二月八日。私は、国民学校一年生だった。国民学校へ入学し、国民学校を卒業した唯一の学年である。 
 開戦。それがどういう意味を持つかの理解はできなかったものの、「大変なことになったな」と言った父の言葉と、ラジオから流れた「大本営発表・・・本八日未明・・・戦闘状態に入れり」と言う臨時ニュースの言葉だけは今も耳に残っている。 
 破竹の進撃を続ける日本軍のニュースに国を挙げて喜び、祝勝記念の華やかな「ちょうちん行列」にも参加した。だが、そんな高揚した気分もつかの間だった。   
 あれは昭和十七年の春だったのだろうか、ある日の昼ころ、突然高射砲の音がとどろき、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。病身だった母の、「見てきて」と言う言葉に、私は表へ飛び出した。四つ角に近所の人が集まってきた。そのときの私の鮮明な記憶は、モンペをはきながら小走りに出てきた「石川さんちのおばさん」の姿と、砲煙を見て、「ノラクロの絵と同じだ」と思ったことである。 
 高空を飛ぶ飛行機がキラリと光り、ゆっくりと見えなくなっていった。高射砲が届くはずもない高さだった。これが記憶に残る第一回の来襲で「偵察飛行だ」と聞いた。やがて、東京は連日連夜の空襲にさらされ、さらに地方都市へと被害が広がっていくことになるのだった。

 空襲、疎開、敗戦、食糧難・・・、と多くの経験をし、「当時の子供たちには、根性があった」と、後年言われるような子供たちが育っていったのである。
 「根性ができた」かどうかは分からないけれど、「自分で何とかしなくてはならない」子供時代を経験したことが、人生にプラスになっているのは確かなようである。 
 その意味では、私の人格形成の原点は、昭和十六年十二月八日にあったと言えるのかもしれない。
 しかし、たとえ、人格形成にプラスになったとしても、戦争は「経験すべきこと」ではないし、 この日が来るたびに『十二月八日』を二度と迎えてはいけない、との思いを新たにするのである。  

お時間がありましたら、こちらもご覧ください
「私の八月十五日」
「疎開から帰れる喜び」を載せていただいております

[目次に戻る]