10’10’29
しかし、年を重ね、体力も落ち、いやでも減らさざるを得なくなってきた。 そこで、最初に候補に挙げたのが、生け花だった。
花展のために早朝から出かけたり、夜遅くに帰宅したりすることが重荷になってきていた。
十年だけやってみようと思って始めた「いけばな」は、予定を大幅に超過して二十五年余も続いていた。 花器や七つ道具をリュックで背負い、花材をいためないように気をつけながら混雑する電車に乗るのも、ある意味では体力勝負であり、高齢の先生が続けていらっしゃる間はと、私も頑張っていたが、元気な先生に私の方が根負けして、一足お先にこの世界から足を洗ってしまう形になった。
「趣味として生ける」には十分だと思っていたが、華道会を辞めたら花を生けることからも離れてしまった。 「生け花はやって“いた”」では意味がなく、「やって“いる”」でなくてはいけないと、偉い先生の言葉が思い出されて、申し訳のない気はするのだが、「生け花は、植物を使ったアート」とするかのような感覚になじめ切れない面もあった。
やめる気はないのに、いつの間にかやめているのは洋裁である。
洋裁をきちんと習ったことはないのだが、戦後、もののない時代に、親の着物から洋服を作ったり、小さくなった服に生地をたして別のものに作り直したりしたことが役に立って、自分のものはほとんど手作りだったし、娘のものや、時には人様のものも縫うようになり、結構楽しくやっていた。 しかし、二十一世紀になくなる職業の上位にランクされていた「洋裁業」は、事実、既製服に取って代わられた感があり、最近は自分のものを縫うことも少なくなった。 デザイン的にも、ずぶの素人には縫いにくそうなものが流行っている。 縫うことは好きだし、買ったままの生地も結構あるので、「縫いたい」気持ちは持ち続けているのだが、なかなか時間が取れないでいる。
昔の仲間ではじめた古典の読書サークルも、五年余り在籍して楽しんできたが、病気の後遺症で自転車に乗れなくなった娘の送迎もあって、時間的にやりくりが難しくなり、余儀なく退会することになった。 細かい文法などにこだわらず、純粋に「物語」として味わった「源氏物語」を読み終えたところだった。
こうして長く続けてきたものをかなり整理したのに、相変わらず空き時間の捻出ができずにいる。 その原因は、先ず、パソコン。
何年前だろう、息子が「パソコンて面白そうだよ」と言ったことがあった。 まだパソコンの何たるかも知らず、特に関心もなかったが、ワープロのインクリボンが製造中止になると聞くに及んで、パソコンに目が行くようになった。 ワープロの代わりにと購入したパソコンだったが、同じことならパソコンでできることを・・・と、思ったのが間違いの元だったのかもしれない。
とにかくパソコンは面白かった。 どうにか、インターネットへの接続ができたときの快感も忘れがたい。 息子が買ってきてくれた本と首っ引きで、ネットサーフィンにもはまった。 家にいる時間が増えたので、時間のやりくりがつきやすいことも都合よかった。
やがて、自分のホームページを持ちたいと思ったのが運の尽きだ。
五年だけのつもりだったホームページも、八年を経過している。
つまり、浮かしたはずの時間を上回るほど、パソコンやホームページに力を入れてしまったと言うことになる。
カメラも完全復活させ、デジカメになってからは時間さえあればカメラを持ち出したい気分になる。 いくら撮っても気に入る写真が撮れないのも、時間の足りなくなる原因なのである。 つまりは、空けた時間をしっかり埋めてしまっているのだ。
ホームページは、そろそろやめ時かなと思うこともあるが、これをやめたら、生け花の時と同じく、文章を書くこともなくなり、カメラを抱えて飛び回ることもなくなってしまうのではないかと思う。 楽しみながらページを作り、それを見て楽しんでくださる方があるのだから張り合いもある。 やめれば、本当に「空き時間」ができるのだろうが、張り合いもなくなることが心配だ。
見てくださる方が一桁になればやめようとは思ったりするが、まだしばらくは迷い続けることになりそうだ。
私の空き時間はいつできるのか、結局のところ、予測がつかない状態が続いていることには、何等変わりがないのである。 ただ、最近の忙しさは、自分の意志によるものだから、少なくとも苦にはならない。
「ぼうっとしてはいられない性分」と、諦めることになるのかもしれない。