07’5’7
私の小学校の入学式の付き添いは、九つ違いのこの兄だった。 母は病人だったし、教師の父は自分の学校の入学式だったのだろう。 入学記念の集合写真には、セーラー服を着た私の後ろに、坊主頭で旧制中学の制服姿の兄が写っている。
兄はその後、旧制中学の四年生から海軍兵学校に進んだ。 しかし、兄が卒業して任官した頃は、大東亜戦争もすでに日本の敗色が濃厚だった。 やがて終戦。
私も疎開先から帰京し、アメリカ側への武器の引渡しに立ち会う等の残務整理を終えて兄が帰宅したのは十一月も後半になっていた。
子供たちの帰りを待ちかねたように、この兄が帰宅して幾日も経たないで母は亡くなった。
職業軍人だった兄はGHQによる「公職追放」の身で、就職もままならず、しばらくは母亡き後の家事を引き受けてくれていた。 「中尉殿も飯炊きじゃねぇ」と、兵隊の位でははるかに低かった上の兄が言ったりした。
戦争末期で、日本軍は艦船も飛行機もすでにない状態だったために兄は命永らえたのだと、上の兄は話してくれたが、当の本人からはそういう話はまったく聞かなかった。
兄嫁も早くなくなり、一人娘の一家と暮らしていた兄は、私には昔と変わらぬやさしい「兄貴」だったが、家族には頑固でわからずやのおじいちゃんだったようだ。
「もう駄目らしい」と姪からの電話を受けてから亡くなるまでの四ヶ月間は、何度か見舞いに行ったが、人工呼吸器をつけているので話はできず、やがて意識もはっきりしない状態になっていった。
親族だけで送りたいとの姪夫婦の意向だった。
お通夜の日に、早めに会場についた私は、柩の上に海軍の軍旗である旭日旗がかけられているのにちょっとびっくりした。 旭日旗と日章旗を兄自身が準備して持っており、兄の希望は、旭日旗にくるまれての水葬だと聞いたときには少なからず驚かされた。 写真も毎年撮り直していたのだそうで、スーツ姿で穏やかな顔の写真が用意されていた。
親族以外では兄の兵学校の同期生の皆さんが十名ほど来て下さった。 通夜の席で、同期のみなさんのお話から、毎年の同期会に兄も欠かさず出席していたことを知った。
任官後、艦船志望のお仲間は全員戦死されたこと、航空機志望は、練習機もなくなり、果ては「人間魚雷」も「特攻機」もなくて、生き残ったことなどを知った。
私はとにかく兄が生きていて良かったと思っていたのだが、お仲間の皆さん方は必ずしもそうは思っていらっしゃらないようだった。 この方々の結束力は、今も非常に強そうなのが印象的だった。
兄もお国のために身を捧げる覚悟で選んだ道を、敗戦によって絶たれてしまったけれど、軍人としての精神だけは変わらず持ち続けていたのだろうか。 私には兄がちょっと遠い存在になったように思えた。
和尚さんは「お嬢様から故人の思いを伺い、熟慮の末、戒名には「旭」と「洋」の字を入れさせていただきました」と話された。
兄の思いを知ったからだろう。 葬儀には同期のみなさんが「同期の桜」で送ってくださることになった。 歌詞のプリントも用意されていた。
たくさんの花で埋められた上から、からだを覆うように旭日旗をかけて柩は閉じられた。 皆さんで「〜〜同じ兵学校の庭に咲く〜〜」と歌いながら柩を霊柩車に運んでくださった。 三コーラス歌い終わるまで、運転士さんも、和尚さんも、みなさん直立不動の姿勢で待っていてくださった。
現代離れした光景だろうに、不思議なことに私の中では何の違和感もなかった。 私は短い上着に、短剣を吊った、スマートな兵学校の制服姿の若き日の兄をふと思い出していた。
火葬場で柩を納めるとき、それまで喪主として、てきぱきと動いていた姪は「もう駄目だ」と言いながら涙をこぼしていたが、扉が閉められようとしたとき、彼女はぱっと手を上げて、挙手の礼をした。
「けんかばかりしていました」と言った彼女だけれど、父親の気持ちをしっかり受け止めていたのだとしみじみと感じた。
「旭日旗に包まれての水葬」は無理だったけれど、旭日旗を身にまとい、「同期の桜」と、一人娘の挙手の礼に送られて、桜の季節の終わる頃、「海軍中尉殿」は旅立って行ったのだった。