05’10’10私の周囲には、読書家が多い。
人は何のために本を読むのか。 時間つぶしに読むという人もいるが、研究のため、資料として必要だから読むこともあるだろう。 しかし、いわゆる文学作品を読む人の多くは、その「お話」に興味、関心を持って読むのだろう。
文学作品を通じて、いろいろな人の生き方を知り、それに共感したり反発したり、ひいては作者のものの考え方にも共感、反発を感じるのだろう。
俳優は、いろいろの人を演じることで、いろいろな生き方を演じられるのが喜び、と聞いたことがあるが、一脈相通じるものがあるようだ。好みのジャンルもなく、手当たり次第に乱読する人もあれば、純文学と言われるものが好きな人、推理小説が好きな人、歴史小説が好きと、それぞれ好みもある。
読んだ作品について論評するのが好きな人も結構多い。 こういう人の傾向として、「読書ほど知的レベルの高い趣味はない」と考えている節がある。
かつての私も、かなりの読書好きだったが、現代文学にはあまり関心がなかった。 文章の美しさに欠けているように感じられたからだ。
また、文学論と言うものに疑問を感じることもある。授業で文学作品を扱うときに、教師はよく「作者の気持ち」を取り上げる。 大人の論評でも同様だ。
「作者の気持ち」をどう解釈するかは、読者一人一人の経験や生き方によって違うだろうし、あれこれ言った所で、作者の気持ちは、書かれていなければ「分からない」と言うのが私の考えである。 想像の域を出ないことをああでもない、こうでもない、と言うのが、私はあまり好きでない。そして思う。 確かに私は「文系の人間」ではなかったのかも知れないと。
思えば高校の進路指導のときには、常に「理系向き」と言われていた。
私自身は子供のころから、天体に興味を持ち、理科では「地学」の分野が好きだったが、相談に行った地学の先生に、「君が地学をやりたいと言うのは、すごくうれしいけれど、ハンマーを持って山の岩場を歩いたりすることは、女の人にはどうしてもハンディがあるから、僕は勧めない」と言われ、納得したのだった。
父も兄も英語の教師で、父は「英文科に行くなら本がそろっている」と言い、兄は「英語には世界中の文学書が翻訳されているから、世界中の本が読めるぞ」と言った。 兄もまた「本の虫」だった。
しかし、語学の才能が自分にあるとはとても思えなかったし、受験の頃には父も亡くなっていたので、あえて選んだのが国文だった。 好きな「古典」でもやるか、というわけである。
とは言うものの、伝本がどうの、成立年代がどうのは、やはりあまり面白くなかったし、語法も面倒に思えた。 そんなことはどうでもいい・・のである。最近、「貴女は機械に強いから」と言われて、ちょっと考えてしまった。
機械に強いことはないけれど、車の運転も、カメラだのパソコンだのをいじるのも、決して嫌いではない。
苦手とする人が多いと聞くインターネットの接続も、マニュアル片手にやってみたらさほど大変ではなかったし、切れたヒーターや、具合の悪いスイッチや、がたつくコンセントを、DIYの店から部品を買って来て直すことにも特に抵抗はなかった。、車にカーナビをつけたときはうれしくて、スーパーに行くのにさえ、カーナビの案内で行ったりしたものだ。
座右に置き、よく手にする本は、カメラ関係の本や季刊誌、野の花の図鑑、などが多い。 それらを買うのはネットだ。 確かに「文系」ではなさそうだ。山を歩くようになったのは大学入学後だが、ハンマーを持っての岩場歩きも、多分問題なかっただろうなと思ったところで、最早手遅れである。
当然ながら友達には「文系」が多い。
仲間の「文学評論」に耳を傾け、私自身は、あまり文学的ではない本を愛読書にしながら、時には小説も読んだりして、わが道を行くことになるのだろう。 どちらを向いても、カメラや写した写真について語り合える友達が現れる気配はない。 それもこれも、自分で選んだ道だ。
読書家の仲間入りは適わなくとも、「一人もまた楽しからずや」である。