元  気 

08’12’12
  最近、どういうわけか、会う人に「元気ねぇ」と言われることが増えた。 自分より若い人からもである。
 「好きなことを一生懸命やっていらっしゃるから、輝いていますよ」と言ってくれたのは、息子と同い年の若い奥さん。 彼女こそいつも輝いていると私が思っている人だった。 山仲間の男性には「あなたの年になっても、そんなに元気でいられるかな」と言われるし、久しぶりに来た嫁御にまで、「おかぁさん、生き生きしていますね」と言われる始末だ。

 「具合が悪そうですね」とか、「元気がないけれどどうしたの」なんて言われるよりも良いことは分かっているのだが、言われる度になんとなく不安を感じてしまうのである。 多分言って下さる皆さんの気持ちの中には、その言葉の前に、「結構なにお年なのに」と言う言葉が隠されているに違いない。 「元気でない」のが年相応なのだろう。 つまり、私と同じ年頃の人の多くは、もっと「老人らしく」生活していると言うことで、私のようにばたばたしてはいないのだろう。  

 今の私は確かに元気だ。 医者にもトンと縁がない。
 それなのに私が不安に思うのは、ろうそくが燃え尽きる寸前にひときわ明るく揺らめくのと同様、「人生最後の輝き」を今、私自身がしているのかもしれない」と思うかららしい。

 「好きなことを一生懸命やっている」と言えばそう見えるだろうと思う。
 なにしろ私の周りには、「したいこと」以上に、「しなくてはならないこと」が山積している。 したがって、「したいこと」をする時間を生み出すために、生活はフル回転になる。 「“これ”を早く済ませて、“あれ”をしたい」と思っているから、いつも「目標のある生活」をしているとも言える。 時間制限付だから「したいこと」には集中する。  傍目には「一生懸命やっている」と映るというわけだ。  

 改めて鏡を見るまでもなく「すごいバァサンになったなぁ」とあきれる。 久しぶりに会う人は誰だか分からないかもしれない。 同じ年代には、写真は年がごまかせないから、もう写真はいらない、と言う人もいる。 年を重ねたことを受け入れたくない気持ちがあるのだろうが、それは無理と言うものである。 生まれたときから人は年を取り続けるのだから・・・。

 なぜ、のんびりできないのか。 それは「人生の残り時間」が少ないと思うからなのか、性分なのか。
 待っていても若くなる可能性はゼロである。 待っていても体力が増強されることもありえない。 だから、「今のうちに・・・」である。
 「年だから・・・」と言っていれば、機会はなくなる。

 「一度、経験してみたいこと」は、早くしなくては、と思う。 今年、初めての写真講座へ行き始めたのもその一つである。 私が最高齢かと思ったら、80代の男性もみえた。
 自己流で楽しんできたが、講師のお話に改めて「なるほど」と思うことも多く楽しい。 いくつになっても「したいこと」の種は尽きない。

 何かに熱中しているときは、年のことなど、私の頭からは完全に飛んでいる。 気分は若いときと同じである。 それが「元気に見える原因」と思いたいものである。
 「人生の幕引きは突然やってくる」そうだが、今の「元気」が「最後の揺らめき」で、「あんなに元気そうだった人が・・・」と言われれば、それも幸せなことだろうとは思う。  ただ、本人は「差し迫った話」とは思っていないのだから、天下泰平であるはずなのだが・・・。

 以前聞いた話である。 年寄りに「お元気ですか」と言うのはまずい。 元気なはずがないからだと。 「お変わりありませんか」と言うのが良いのだそうだ。 そのときは笑ったものだが、「元気ね」と言われて不安になる自分を見ると、年寄りに声をかけるのもまことに難しいことだと、年寄りの私自身が思うのである。  

 とりあえずは、「最後の揺らめき」であるにしても、「本当の元気」であるにしても、元気でいることを最大限に生かして、「したいこと」、「しなくてはならないこと」に励むつもりでいる。  

   

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