原 種 の 花

   

11’9’25
 NHKの番組で、日本画の中島千波画伯が、「幻の牡丹の花」を求めて中国雲南省の玉龍雪山に分け入る映像を見た。 画材として牡丹をよく取り上げる方のようだが、「花王」と言われる立派な牡丹の花も、品種改良が重ねられた結果、本来植物の持つ生命力が感じられなくなったとのことで、はるばる「原種」を訪ねての旅となったのだ。
原種の牡丹(テレビより)

 一流の絵描きさんが、品種改良の結果、豪華な花になった代償として失われるもののあることを感じているのだ。 それが、「本来の生命力」とまでは私の感性では感じられなかったが、私も花は「原種」が好きだ。 派手ではないが、品種改良されて園芸種となった花には無い、「素朴な味わい」が原種にはあると思う。
原種の牡丹(テレビより)

 ガーデニングが流行り、黒いポットに植えられた苗が店頭に並ぶ。 それを植えることで豪華な寄せ植えができる。 それは華やかで美しい。 でも、それだけである。 残念ながら「風情」は無い。

 私の好きな紫陽花も、今はいろいろな種類ができて、花色だけではなく、咲き方もさまざまで、それぞれにしゃれた名前もつけられている。 それはそれで確かに美しいのだが、梅雨時、雨に打たれて咲いている姿の美しさは、古来からある、何の変哲も無いアジサイに勝るものはないのではないかと思う。 洋種の紫陽花は、確かに豪華ではあっても、山道でひっそりと咲く「たまあじさい」の魅力には及ばない。 見る人の気持ちに安らぎをもたらすのはやはり、人の手の加わらない花たちではないだろうか。
原種の秋明菊

 「野の花が好き」と言う人も多い。 人の手で作られた美しさではない、自然の美しさに魅力を感じるからだろう。 自然物と人工物の差である。 私は八重咲きの花よりも、一重咲きの花の方が好きだ。 八重咲きの桔梗や水仙など、珍しいとは思うが好きにはなれずにいる。
 原種が八重咲きで、品種改良されて一重になっているものでは、「秋明菊」が身近にある。 秋明菊は原種と園芸種とではまるで別物のような花になっているが、原種を見れば「菊」とつくのも納得がいく。 八重咲きが原種だが、この花には、へんな華やかさがないのは、創られたものではなく、それが自然だからなのかもしれない。
秋明菊

 中島画伯が訪ねられた原種の牡丹も、花は小ぶりながら「立派な牡丹」だった。 手入れのまずさから毎年咲いてはくれない我が家の牡丹も、昔の花で、単純なピンクの牡丹だ。 雑然とした庭にはふさわしい。 そんな牡丹でも、まことにきれいで、「花王」の名に恥じない品のよさを備えている。 各地の牡丹園のニュースを耳にしても、私は、我が家の牡丹が咲けば、それで満足してしまう。
 温度を管理することで、真冬に咲かせたたり、鉢植えを地中に植えたりしているのはあまり好ましいこととも思えない。 やはり、五月のゴールデンウィークころに自然の状態で咲く花は勢いが違う。 わらの覆いの中に置かれた冬牡丹も、「絵になる」とは思うが・・・。
我が家の牡丹

 「原種が好き」とは、同じ考えの友達以外にはあまり言うこともなかったが、中島画伯の話を聞いて、それが特におかしいことでもないらしいと、ある種の自信が持てた。

 今年も秋のお彼岸には、庭の花を墓参に持参した。 我が家の庭には、昔からある原種に近い花が多い。 昔、「仏壇の花にもお金を掛けないで、いつも庭の花なんだから・・・」と、身内の悪口を言った人の話が頭に残っていて、庭の花を供える時には思い出す。 私自身は、「今年も咲きましたよ」と、「買った花より喜ばれるに違いない」と思って供えているのだ。 人の価値観はそれぞれだから、どれが良いというようなことではあるまい。
 ただ、野の花が好きな人は、道端のちょっとした花にも目が行き、可愛いと思い、季節を感じられるのだから、楽しみの幅は広いと言えそうだ。 「原種の好きな人」、また然りである。 「園芸種」にされるだけあって可愛いなぁ、などと思う楽しみもある。
玉龍雪山(テレビより)

 牡丹の原種まではとても訪ねてはいけないが、身近な「原種」をこれからも楽しんで行きたいものである。  

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