花 風 景  

 

10’10’12
 カメラを初めて買ってもらったのは中学生のときだった。 敗戦後の娯楽とてない時代に、父と兄三人の男所帯で、私にも、兄たち同様、カメラを持たせてくれたのである。 それ以来だから、カメラとの付き合いも結構長くなっている。
 戦前から、父は書斎を暗室にして、赤い電灯の下で、現像や焼付けをしていた。 小さかった私は横に座って、バットの中で画像が浮かび上がってくるのを見ているのが好きだった。 

 「マイカメラ」を持つようになって、どこかへ行った時に友達を撮ったりしていたが、記録写真、記念写真に類するものが主で、大きく伸ばしてみるなどということもなかった。 ただ、当時のカメラは、全て「マニュアル」だったから、その頃の経験は結構役に立っているのかもしれない。 

 私自身も年を重ね、世の中も変わり、カメラの進歩も目覚しいものがあり、今やデジカメ全盛の感がある。 デジカメの一眼レフが出るに及んで、私も改めて写真を撮ることを考えるようになった。 デジカメはカメラ自体は重いものの、三十六枚撮りのフィルムを十本も買い込んで、そのかさばる荷物を背負って登山をしていた昔が嘘のようである。  

 パソコンでインターネットに親しみ、自分もホームページを開設してからは、見るに耐える「良い写真」を撮らなくてはと考える。 ネット上には、プロの写真もあふれ、見ているだけでも勉強になる。
 写真のよしあしは、もちろん見る人の好みによるところが大きいとは思うが、誰が見ても「気に入る」ような写真を撮ってみたいとつくづく思う。
 私が、写真を「作品」として考えるようになったのは、つい最近のことなのである。

 もともと自然派の私だから、写したいものが、「風景と花」中心になるのは、当然といえば当然だろう。 風景にしても花にしても、写し方は人それぞれである。 きれいな風景をきれいに、美しい花を美しく・・・、それもまた大変難しいものではあるけれど、「カレンダー写真」、「絵葉書写真」と言われてしまえば、そこで満足してはいられなくなるのも事実だ。 「奥が深い」と一口では言ってしまえない深い深い世界である。

 巷には写真講座や写真教室も多いが、なかなか参加できない状況にある私は、もっぱら「独学」だ。
 最近購入した本の著者は、最近はデジカメで撮影をされているというプロで、その撮影上のテクニックが紹介されている。 読んでも、簡単に身につくものではあるまいが、「好きなカメラマン」に前田真三氏を挙げておられる点だけは、私も同じである。

 デジカメというカメラの性質上、撮ったものを「デジタルワーク」で作品に仕上げるのは当然なのかもしれないが、私は「デジタルワーク」が苦手であるうえに、どうも抵抗があって、できることならしないで済ませたいと思ってしまう。 しかし、フィルムカメラではあまり経験しなかった「白とび」「黒つぶれ」「ぶれやすい」などの問題もあり、頭の切り替えが必要なのかもしれない。 

 写真は「写心」であるという。 良い写真を撮るために、あらゆる手段を使う人もいるようである。
 花撮影のプロで、銅線の先に洗濯ばさみをつけたもので、花の向きを撮りよくしていらした方があった。 また、「前ボケ」を作るのに、花びらを手に持ってレンズの前にかざすという方法も取っていらした。 私はどうもそういうことをしたくない人間らしく、「よいことを知った」とは思えなかった。 少なくとも、「心」のありようが、私の望むものとはちょっと違うように感じられたのである。
 私は、バラの花に霧を吹いて雫をまとったバラにしたり、くもの巣に霧を吹いて雨後のくもの巣を作ったりすることを潔しとしない。
 「デジタルワーク」が、好きになれないのも、「心」をあまり感じない仕事だからかもしれない。

 一方、最近購入の本の著者は、「自然をありのままに」というお考えで、イメージ通りの被写体を“足で”探されるという。 この言葉が私はすっかり気に入った。 「自然を撮る」とはそういうことだと思うのである。
 「カメラを構えて、上下左右に動かしながら被写体を探す方法」も私には大いに参考になることだった。 「デジタルワーク」も、最低線のところで止められているようで、好感が持てる。 現在の私の「座右の書」である。

 植えられた花は比較的撮影しやすいが、野の花を「素敵に」見せるのは難しい。 でも、うまくいったときには「風情」が違うのではないだろうか。 私は図鑑的にではなく、「花風景」として花を捉えたいと思うのだが、難しい。
 構図を考え、ぼかしたり、重ねたりのテクニックを使い、『ありのままの姿で』 自他ともに認める「花風景」が撮れるようになることを目指して、がんばってみたいと思っている。   

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