日 の 出 山 荘  

09’5’13
 昭和58年11月11日、時の米大統領、ロナルド・レーガン氏と中曽根康弘首相の会談の場となった山荘が、今は、「中曽根康弘・ロナルドレーガン日米首脳会談記念館」となって残されている。 東京の西部、西多摩郡日の出町にある「日の出山荘」だ。
 平成18年11月11日に中曽根氏より日の出町へ寄贈され、翌19年11月11日より一般公開されたものである。 公開の目的は、『日米の親善と東西の冷戦構造を終結へと導き、世界平和に貢献した首脳会談「ロン・ヤス会談」が行われた場所を公開することにより、歴史的意義と成果を長く後世に伝えるため』と、パンフレットに記されている。

 私が出かけたのは、「大型連休が終わり、今日はやっと静かになりました」と言う日だった。
 やや分かりにくい道を経て辿り着いた小さな駐車場に、「この先にもあります」と、立て札があったので、私は更に進んで「専用駐車場」に停めた。 ネットで調べたところでは「10台分の駐車場」となっていた。 大体、そんなに人が行くとは思っていなかったのだが、ここだけでは足りないほど人が来ることもあるらしい。

 我が家からは12〜3キロの近さだが、便利とは義理にも言えない場所である。 まして、レーガン氏もその後、アルツハイマーにかかっていることを公表されたりしたが、今はもう故人になられているし、中曽根さんも、息子さんの活躍ぶりを拝見すれば、もう「代替わりをされた人」である。
 両雄の盛りの時代に「ロン」、「ヤス」と呼び合う親しさで首脳会談が行われたと聞いていても、次第に人々の記憶から薄れていくのは止むを得ないことである。 まして、その場所となると、地元の人以外はほとんど関心がないのではなかろうか。

 車を置いてから更に深い山の中に続く道を行った。 椎茸のホダギがたくさん並ぶ光景を脇に見ながら行く。 地元の中学校にヘリコプターで降り立ったレーガンご夫妻が、まさかここを歩いて行かれたわけではあるまい、などと思いながら歩いて行くと、若葉の美しい木立の中に建物がちらちらと見え、やっと受付に到着した。
 入館料は高齢者割引で200円。 「DVDやアルバムもご覧になれますからどうぞごゆっくり」と言われて歩を進める。 

 先ず目に入るのが「半鐘」。 韓国の全斗煥大統領から寄贈されたものと書いてある。 面白いものを贈るものである。 続いて、かやぶきで古い農家のたたずまいを見せる建物が、青雲堂だ。 この建物が見たくて私は来たようなものだった。 ここの囲炉裏端で中曽根さんがお茶を立てて大統領夫妻をもてなしたと、写真のパネルも飾ってある。 “ちゃんちゃんこ”を着込んだ両ご夫妻の写真には見覚えがあった。 この建物自体は「豪農の家」ではない。 入り口には「蓑、笠」がかかっており、どちらかと言えば、さほど豊かではない農家の趣であるが、中に置かれた座卓や衝立はもちろん立派なものだった。
 青雲堂の斜め前にある天心亭の方はやや新しい建物である。 レーガン氏を招くにあたって建てられたものかもしれない。 両雄が日米友好協力、世界の安全保障について「ロン・ヤス会談」を行った場所だそうだ。 小ぢんまりした建物で、炉が切ってあった。

 一番奥の書院はその後新しく建てられたもので、二階建ての各部屋には、各国来賓の写真や贈答品、書画の類が展示されている。 中曽根さんの華やかな政治活動や交友関係、趣味などを知ることができる。
 青雲堂よりもはるかに立派な現代風な建物で、応接間のソファーに座ってDVDを見ながら、ここでお茶でも飲んだら気持ちがいいなと思ったが、テーブルにはしっかりと「飲食禁止」の札が張ってあった。 庭園には来賓の記念植樹が多い。

 大型連休中には多くの人が訪れたようだが、この日は私の貸しきり状態だった。 これだけの施設を維持していくのは結構大変なことに思われた。
 過去にも、それぞれの道で一つの時代を築いた人の記念館が開館した例は多い。 しかし、残念ながらその多くは、やがては閉館に追い込まれるようである。
 時代が変われば価値観も変わり、新しいヒーローが誕生すれば、どうしても「過去の人」は忘れられていく。 ファンも年を重ねれば、度々記念館を訪れることはできなくなる。
 私が、「今のうちに一度行って来よう」と思った所以でもある。 現に、日の出モールへの近道としてそのあたりをよく通る息子一家にしても、この山荘がいつも通る道から少し入っただけの場所にあることを知らなかった。

 どこまでが敷地かよく分からない5738.31uという広大な緑に包まれた記念館は、とにかく気持ちの良い場所だった。 ここもいつかは人に忘れられてしまうのかなぁと、ふと思ったが、関係者には「縁起でもない」と叱られそうだ。

  「二日間締め切りでしたので、花がしおれているかと思いますが・・・」と受付の女性は言っていたが、随所に気配りも感じられ、よく管理されていた。 いつまでもこの雰囲気を残してほしいものだと思いながら、少し遠回りをして、梅ヶ谷峠を越え、帰宅したのだった。  (My Galleryへもどうぞ)

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