広島弁

03’3’25
 太平洋戦争が日本に不利な展開をみせるようになった昭和十八年夏、私は広島に疎開した。二人の子供を連れて義兄の実家へ疎開する姉に同行したのである。そこは、みかん山を背に、広い庭からは眼下に瀬戸内海が望める大きな農家だった。

 義兄は教員をしていたが、実家では両親と兄夫婦がみかん山や田畑の農作業をはじめ、牛や綿羊や鶏の世話まで、忙しく立ち働いていた。ホームシックで元気のない私に、家中の人が声をかけてくれるのだが、その広島弁が私のホームシックをなおひどくしていた。姉も慣れない大家族の、それも気を使う人たちの中で、さぞ気苦労なことだったろう。
 二学期から地元の小学校の三年生として通い始めた。当時の国語の授業では斉読が普通だったが、私はイントネーションが違うので声を出さずに読むことにしていた。東京からの転校生は珍しかったとみえて、休み時間には皆で話し掛けてくるのだけれど、早口の方言に私は緊張した。しかし、子どもの順応性で、たちまち広島弁をマスターし、校庭から石段を下って汲んでくる海水での掃除にも慣れ、元気になった。
 
 晩秋、出征する兄を見送りに帰京した。担任の先生に「東京がよくなってしまってはだめよ。必ず帰ってきてね」と念を押されての上京だった。にもかかわらず、私はそれっきり広島には戻らなかった。それは私の意志というよりは、病身だった母が、末っ子の私を手放せなくなったと言うほうが正しかった。
 空襲が激化し、昭和二十年四月、私は今度は宮城県に集団疎開をした。終戦を迎え、十一月にやっと帰京できたが、三週間後に母は亡くなった。親にも子にも大変な時代だった。
 テレビで「・・・じゃけんのう」などと耳にすると、あの色づいたみかん山や美しかった瀬戸内海の風景が脳裏によみがえる。ごく短い期間だったけれど、私が実際に暮らしの中で使った唯一の方言が、広島弁なのである。

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