「死んでもいい」風景

04’5’6
 ゴールデンウィーク中の五月三日朝のテレビで、京都大徳寺の聚光院別院の襖絵七十七枚を描かれた、千住博画伯のお話を聞いた。十年の予定を七年で完成させられたお仕事だったという。 
 構想を練り、実際に筆を手にされるまでのお話の中で、「風景にはいろいろな種類がある」という話題に、私は興味を引かれた。
 中国の何かに書かれているというお話だったと思うが、風景には四つの「種類」があるという。 
 1は、「行ってみたい風景」。 2は、「遊んでみたい風景」。 3は、「住んでみたい風景」。 そして4は、「死んでもいい風景」だという。
 最後の「死んでもいい風景」。これを「知っている人」は、ある意味で幸せではないかと思いながら聞いていた。

涸沢と前穂・吊り尾根
 私も、かつて「ここで死んでもいい」と思う風景の中にいた経験がある。 
 初めて北アルプスの奥穂高岳に登り、頂上で一泊した翌朝、下ってきた涸沢でのことである。
 涸沢はぐるりと周囲を穂高連峰に囲まれたカールで、穂高連峰への登山基地になっている。
 そのほぼ中央あたりに、どこから転がってきたのか大きな岩があった。上は平らで、そこに私は仰向けになって、真っ青な空を見ていた。吸い込まれるような深い色だった。九時ころだったかと思う。 
 高山特有の濃いブルーの空をバックに、山襞に白い雪を残す穂高の峰峰がどっしりと雄大な姿を構え、目を閉じれば、からからとかすかに絶え間なく続く石の落ちる音と、耳をなでる風の気配だけの静寂の中にいた。そのとき突然、「今ここで死んでもいい」と私は思ったのだった。それは全く唐突に浮かんできた思いだった。
 やがて、山小屋への荷揚げのヘリコプターが静寂を破り、私も下山の途についたのである。

この岩だったかな?
  その後も涸沢に行く度に、胸を締め付けられるような感覚にはとらわれるものの、「死んでもいい」とまでは思わなくなっている。「見慣れた風景」になってきているのだろう。しかし、「行ってみたい」気持は募る一方だ。
 千住画伯の語られた「生と死」の風景は、そんな単純なものでは勿論ないのだろう。だが、「死んでもいい風景」が存在することは、私にも理解できる気がしたのだった。
 自然破壊の進む時代の中で、「死んでもいいと思わせる風景」が、次第に減っていくのは、何とも残念なことである。

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