05’3’9小さなフライパンに溶き卵を入れてガスにかけ、いり卵を作る。今流に言えば「スクランブルエッグ」である。あっという間に出来上がる。
子供ころの私は、お弁当にいり卵が入っているとうれしかった。
病身ながら母が家のこともこなしていたし、まだ平和な生活が送れていた時分だから、戦争もまだ初めのころで、私は小学校の1年生か、2年生になったばかりだろうか。
火鉢に手をかざしていると、母が小さなお鍋にとき卵を入れ、火鉢の火にかけ、「焦がさないように混ぜていてね」と、お箸を私に渡す。くるくる混ぜているとやがてふっくらしたいり卵の出来上がりだ。炭火でゆっくり作るせいだろうか、母のいり卵はふっくらとしていて、甘くておいしかった。色も鮮やかな黄色に白身の白い部分が混ざって見た目もきれいだった。
今、私の作るいり卵は「早さがとりえ」の作り方だし、フライパンの余熱でうっかりしているとぽそついてしまう。色もあまり「おいしそう」ではないが、これは最近の卵の関係なのかもしれない。うまくできない一番の原因は、あるいは「愛情」の込め方にあるのだろうか。
半熟未満? サツマイモの味噌汁とふっくらした甘い入り卵、これだけあれば幸せだった。「おさつのおツケだよ」と起こされれば、すぐ起きる子供だった。今考えれば、父も兄たちも多分これは、「大好きな食べ物」ではなかっただろう。兄たちのお弁当に何が入っていたかさえ良くは知らずに過ぎていた。
お弁当を、誰でもがそうであったように新聞紙でくるみ、それを小さなメリンスの風呂敷に包んで持たせてくれていた。最近の子供のお弁当箱のように可愛い絵がついているわけでもなく、中におかず入れのついた、やや小ぶりのアルミのお弁当箱だった。
学校では、冬になるとストーブの上に積んで暖めてくれるのが常で、授業中にたくあんの匂いなどが漂ってきたりしたことも、懐かしい思い出である。友達のおかずにも関心がなかったし、いり卵以外に何を持たせてもらったかも記憶は定かでない。母が亡くなったのは、終戦の年だから、もう六十年もたつ。私は今も「サツマイモの味噌汁」が好きだ。だが、私の作る「いり卵」は「母の味」ではない。コレステロールを気にしながら食べるせいとも思えない。
母との縁は薄かったけれど、本当に可愛がってもらったと感じていた。その思いが支えとなって、今日まで生きてこられたと思っている。男の子が続いた後に生まれた女の子だったから、皆に可愛がられた。もう一度、あのふっくらした、甘い母の炒り卵を「食べさせて」もらいたいものである。「お行儀が悪い」と言われながら、鍋肌についた卵をスプーンでこそげとってまで食べた、子供のころのあの味が、懐かしい。