06’12’11山仲間のYさんが亡くなった。 山ではなく、旅先で急の出来事だったらしい。 羽村のハイキングクラブに入ってこられたのは多分羽村在住の人の紹介だったのだろうが、ご本人は埼玉県飯能市の住人だった。 入会当時、頭の白さ薄さから七十を少し越した位の年齢の人かと思ったら、なんと私たちよりも七〜八歳も若いことが分かって驚いたものだ。
彼の第一印象は極めて悪かった。 最初の山行の帰りのバスの中で、彼は缶ビールを飲み、その勢いもあったのかやけに騒がしかった。 男性陣は羽村駅に戻り、解散後には「お楽しみ」があったようだが、それまで、行き帰りの車中での飲酒など考えられなかったし、まして、大騒ぎをする人などはいなかった。 そのことで、会長にも注意され、ほかの男性メンバーにも叱られたらしいが、女性陣からはすっかり顰蹙を買う結果になってしまったのだった。
その後、しばらくは顔を見せなかったので、「もうやめたのか」と話にも出ていた。 やがてまた顔を見せるようになった時には、人が変わったようにおとなしくなっていたが、女性陣は一歩引いた形でいた。
わざわざ乗り越してまで解散後の「お楽しみ」に出ていたようだから、飲むことも好きだったのだろう。 私たちも、なんとなく話をするようになっていった。
扇 山 十一月は山梨の扇山へ登った。 途中で彼も合流し、元気に紅葉の扇山へ登っていたが、帰りに「足がつる」と言うアクシデントに見舞われていた。 年を重ね、水分の摂取が足りなかったりするとありがちなことで、彼も誰かが持っていた「シュッと一吹きのスプレー」で、どうにか歩き通し、帰りも羽村まで「遠征」して「お楽しみ」に参加していたところを見ると、特に問題はなかったのだろう。
そして今月。 今月は、埼玉の高山不動から、関八州見晴台を経て、黒山三滝までの山歩きだった。 彼が参加するならば、JR八高線から、西武線への乗換駅、東飯能で待っているはずだったが、彼の姿はなかった。 毎回必ず参加するわけではなかったので、特に気にも止めず、西武線の西吾野駅で私たちは下車した。
歩き出す準備も終わったところで、会長が「ちょっと集まって」と言う。 たまにその日のコースについての話などがあるので、何の気もなく会長を囲む形で輪になった。
会長は帽子を取って改まって話し始めた。 「先日Yさんの葬儀があって・・・」と。 奥さんを亡くされて一人暮らしの方とは知っていたので、Yさんのどなたが・・・、と考えた。 「土地不案内なので、そのあたりに詳しい副会長のIさんに会からは行っていただきました」と、会長は続ける。 「Yさんのどなたが亡くなったの?」と思わず口を挟んでしまった。
倉 岳 山 ご本人の不幸と知ったときの驚き。 そんなことがあるのだろうかと、物が考えられない状態だ。 旅行先の韓国での急逝ということだった。 扇山で、足をつらせていたことが思い出された。 旅先で、好きなお酒を飲んで、しっかり水を飲んだり、酔いのさめるのを待たずにお風呂に入ったのではないのかとか、いろいろ考えながら私は歩いていた。 あんなに元気そうだったのに、まだ六十代半ばではちょっと残念だろうに。
副会長の話によると、男手一つで息子さん二人を育て上げ、退職後は、息子さんたちの「これからは好きなことをして」との薦めもあっていろいろな趣味を持って活躍されていたのだそうだ。 旅、スキー、銅版画、そして山・・・。扇山での、私との会話は、「最近は若布にねぎを刻み込んで食べるのが美味しくて・・・」と言われるので、「そこに、瓶詰めの”なめたけ”も混ぜるともっと美味しくなりますよ」と言う話だった。 ただ混ぜればいいのかと聞かれて、混ぜるだけと答えた。 それが最後の会話になろうとは。 「なめたけを混ぜて食べたのかしら」と、私はぼんやり考えていた。
一週間後の忘年会の席で、副会長から「扇山の写真の中で、彼が写っているのをご遺族に届けてあげたいので、焼き増しをしてほしい」との話を頂いた。 実はもう一枚上げたい写真が私にはあった。
昨年の十二月に山梨の倉岳山で、途中から大雪になったときに、彼が雪の林からでてきたところを撮った写真があった。 昨年の忘年会のときに、その写真を見た彼は、ほしいと言ったが、「今日は酔っているから酔っていないときにもらいたい」とのことだった。 次の山のときに私は持って行ったのだが、その後しばらく彼は見えず、上げそこなったままになっていたのだ。 その写真も一緒に副会長に託すことで、私は何か落ち着けそうな気がしてきた。
親しくなりかけたところで終わってしまったお付き合いだが、一期一会と言う言葉もある。 これも、こういう「縁」なのだろう。 ご冥福を祈るのみである。