07’7’12
考えるまでもなく、この「撮りたい気持ち」が私を忙しくさせているのだ。 「今」を逃すと、写真は思ったようには撮れない。 上手な人ならば、どんな条件でもそれなりに対応できるのだろうが、私は「いいな!」と思ったときでさえ、気に入ったようには撮れないのである。 その結果、時間ばかりかかってしまう。
それと、体操。 膝のために、大腿四頭筋を鍛える体操は、目下、絶対にやらなければならない「仕事」になっている。 一セット約三十分。 朝昼晩で、一時間半だ。 これも忙しさを助長する要因だが、止むを得ない。
時間が欲しいとつくづく思う。
「忙しいのも趣味のうち」と私はよく言っていた。 いつも時間に追われながら暮らしている私に、亡夫は「することを少し整理したら」と言い、息子には、「こんなにいろんなことをしている人がいるかな」と言われていた。
二十年前の私は、花を生けることに力を入れ、華道研究会を控えては、ああでもない、こうでもないと遅くまで花を生けなおしたり、約束の日までに仕上げたいと、家事を後回しにしてでもミシンを踏んだり、展覧会の梯子は毎度のこと、読書会もほぼ皆勤だった。 そんな中で、予定をやりくりしては山へも行くという生活ができたのも、今から思えば若さゆえである。 新聞にも目を通し、本も読んだ。
最近は、華道会にも距離を置き、洋裁も目が疲れるので休業。
展覧会の梯子は体力的にきつくなり、細々と続いていた山歩きも、膝の故障で風前の灯である。
にもかかわらず、本も読めず、新聞もたまる。
それは、「することを整理すれば」と言っていた夫が亡くなり、夫のしてくれていた仕事が、すべて私の仕事になってしまったことも大きな原因にはなっている。 庭仕事、家の内外のちょっとした大工仕事や力仕事、もろもろのお付き合い・・・。 かてて加えて、今の私はホームページ作りにも励んでいる。
もともと目いっぱいに時間を使っている上に、更に仕事の量が増え、体力的には下降線で、馬力がなくなっているのだから、すべてをこなそうと思うこと自体に無理があるのだ。 とは言え、「老後の楽しみ」となっている「カメラ・パソコンを友とする」ことはやめられない。
日中は仕事の合間をぬうようにしてカメラの出番がある。 抜きかけた雑草が可愛い花をつけている、と見ればカメラを持ち出す。 「こんなものかな」と思える写真が撮れるまで粘れば、二〜三十分は瞬く間に過ぎる。 仕事をやめて、朝からカメラを抱えて出かけてしまうこともあるのだから、忙しいのもすべてはカメラのせいであり、自分の責任ということだろう。
夜はメールのチエック、写真の整理、ホームページ作り、インターネットの閲覧・・・。 新聞を広げ、家計簿もつける。
あっという間に「お休みタイム」が来る。 忙しいけれど、私にとっては一番楽しい時間帯だ。
カメラを手離せない以上、確かに仕事を整理しなくては、とてもやっていけない。 庭木の手入れはシルバーセンターに頼めばよいのだが、お茶を出したり・・・と考えると、時間が使えない点では同じかとも思う。
さりとて、木を切ってしまうのも残念な気がするのである。 体力があって、それだけをしているのならば、庭木の手入れは嫌いな仕事ではないのだが、思うようにはならないものだ。
一日が二十四時間ではとても足りない、と思う一方で、これ以上時間があって、更に忙しくなったのでは身がもたないとも思う。
お盆でもあるし、お化けでもいいから亡夫が帰ってきて、相変わらず時間に追われている私を助けてくれればと願っているのだけれど、どうにも無理のようである。 いつになっても忙しがっている私に、亡夫もあきれているに違いない。 やはり、「することの整理」を、本気で考えなくてはならなくなってきたと言うことだろうか。