08’10’24
夫が亡くなって二十年余。 庭木も大きくなり、木が込みすぎて枯れるものも出てきたので、少し木を減らそうと、「世話の焼ける木」を中心に切った。 その時に、この次郎柿も切ってしまったので、我が家の柿の木は「富有柿」一本になった。
消毒もせず、植えっぱなしなのだから、そうそう実がつくわけもなかったが、我が家で食べるには十分だった。 つく数が少ないだけに実は大きく、立派だ。 「もう少し赤くなったら」と取るのを少し伸ばすと、たちまち鳥につつかれてしまう。 ヒヨドリである。 よく知っているものだと感心する。 くちばしで穴を開けられるとそこから傷み、結局は落ちてしまうし、鳥の食べ残しを食べるのもあまり気持ちはよくないから、結構鳥たちのデザートにもなっている。
今年はたくさんなったので、実は小ぶりである。 食べきれないほどなったが、ほしい人もいないようなので、もっぱら我が家で食べることになる。 実がしっかりしているし、種も多いのが、今はあまり歓迎されないのだろう。
スーパーで見ると「種無し柿」と書いた立派な柿を売っている。 渋抜きしたものなのだろうが、甘くて軟らかいから、「今の人向き」だ。 私も軟らかい柿をおいしいとは思うが、亡夫の植えた「富有柿」まで切ってしまうことはできない。
私の育った家にも柿の木があった。 甘くておいしい実のなる柿だった。 この柿の木には思い出が二つある。
一つは、この柿の木の「最後の姿」だ。
戦争が激しくなってきて、わが家は「強制疎開」(注)の対象になった。 家の前の道を境に西側か東側かと気を揉ませたが、結局西側と決まり、我が家は引っ越さざるを得なくなった。 幸いなことに向かいにあった空き家を借りて引っ越すことができ、育った家が取り壊されるのを新しい家から眺めていたものだ。
その日のことだったかどうかの記憶があいまいなのだが、近くの「大どぶ」と呼ばれていた「桃園川」の中に、枝をかなり切られたこの柿の木がつけてあるのを見つけたのだった。 家の取り壊しに来た作業員が、自分の家に持ち帰るつもりで、川の中につけておいたのだろうと言うことになった。 そして、これがこの木を見た最後だった。
もう一つは、縁が薄かった母との、数少ない思い出である。 取り壊された家の縁側で、この柿を母にむいてもらって食べた記憶が懐かしい。 むいた柿を二つに割り、食べやすいようにと切込みを入れてくれたものだ。 しかし、むいてくれた母が、この柿を食べることはなかった。 「あまり好きではないから」と言っていたが、四十代ですでに総入れ歯だった母には食べられなかったのかもしれないと、最近の私は考えている。
家も取り壊され、当時を知る家族もいなくなり、すべては遠い昔の話になった。
庭の柿が今年はたくさんなったので、このところ私は毎朝欠かさず食べている。 母を思い出す機会も多いというわけである。
母の亡くなった年を、私はすでに四半世紀分も越えている。
庭の柿の木にはまだかなりの実が残っていて、秋の陽につややかな美しさを見せる。 これが鳥や人間のおなかに収まりきる頃、母の六十三回目の命日がやって来る。
庭の柿をもいできてむく。 秋には一抹の寂しさがあるものの、なんと平和な日々であることか。
(注) 戦時中、延焼防止の防火帯を作るために行われた建物の取り壊しです。 長年住みなれた家も、「指令」で取り壊されました。