片 付 け 物  

08’8’25
 昨年春、次兄が亡くなって、私の実の兄弟はいなくなった。 今年の春には亡夫の兄嫁が、そして先日、長姉が亡くなった。 兄嫁は百歳近くまで生きた長命の人の娘なのに、八十代半ばで亡くなった。 姉は九十を過ぎていたから、五十代で亡くなった亡夫の姉としては長生きと言えよう。
 身近な者の相次ぐ不幸に、私もやっと重い腰を上げて、身の回りの整理に取り掛かる気になった。

 何しろ、五十年も住んでいて、一度の引越しもしないのだから、家中にものがあふれている。 かてて加えて、「もののない時代」を経験してきている世代だし、つましく暮らすのが当然としつけられた世代でもある。 「何かに使えそう」と思ったものがたまりにたまっている。 明治生まれの人ならば、おそらく、きちんと「何かに使った」のだろうが、昭和生まれはそこがだめで、結局は使わないことが多いのだ。 つまり、ごみになるものを取っておいただけなのである。

 時代は変わり、いまや、ごみを捨てるのにも費用がかかる。 豊かな生活が普通になり、まだ使えるものでも、古くなればどんどん捨て、新しいものを買う「使い捨て時代」である。 品物も、それを見越しているのか、「一生もの」は少なく、見た目はきれいでも、ほどなく不具合になってしまったり、衣類であれば、ほつれてきたりする。
 傷めば、人々はどんどん捨て、新しいものに買い替える。 その結果、社会の「ごみ処理問題」も生じてきた。 しかし、私にはどうも「使い捨て」ができない。 直せるものは直して使ったり、繕って着たりしようと思ってしまうのである。

 家中に衣類があふれるので、一枚買ったら一枚捨てるのが良いのだそうだ。 着もしない服が一杯あるという人が多いが、捨てられない私はあまり買わない。 大体、私は買い物が下手で、買ってから後悔することも多いので、いわゆる衝動買いには無縁である。 買うにしても、自分のイメージと合うものに行き会うまでは買わない。 着るものに関しては、長年手作りだったので、なおさら買い方が下手だ。 「お洒落いのち」ではないので、必要に迫られなくては買う気もなく過ぎてしまう。 それでもガラクタが増えるのだから、困ったものである。

 頂き物も多いし、「使える間は使う主義」だから、押入れも満杯になってしまう。

 子供たちが大きくなって、家の増築をするときに、私は、とにかく押入れをたくさんほしいと思った。 そこで、八畳間にも六畳間にも、一間の押入れを二つずつ作ってもらいたいと考えた。 しかし、大工は、そんなに押入れも要らないと思うから、六畳間の押入れを一つ減らして、そこを、作り付けの洋服ダンスと半間の床の間にしないかと言う。 なるほど、出窓とのバランからも、その方が見場もよさそうだとなった。 今になって、ここも押入れにしていたら、更にガラクタが増えただけだったと苦笑している。

 物を片付けるのも、自分の物よりも人の物のほうが能率が上がると言う。 捨てやすいからだそうだ。 それは確かだ。 自分の物には思い出もあり、未練がましくまた元に戻しがちである。
 そこでまず娘の部屋から着手した。 彼女も、親の子、何かととっておきたがる。 特に頂き物が多い。 旅行先のおみやげ物など、「古いから、もう捨てれば」と言うのだが、「誰さんにもらったものだから・・・」と捨てたがらない。
 着るものにしても、「こんなのがあったのか」などと、もう忘れている始末である。

 それでも、かなりのものの整理ができて、箪笥にも、押入れにも多少の余裕ができた。 だが、まだまだ序の口である。 何しろたくさんの押入れを作ってしまったのだから。
 友達に言わせれば、「置く場所があるからたまる」のだそうだ。 そうかもしれない。 喜ぶべきか、悲しむべきか。 

 せっかくその気になったのだから、無理をせず少しずつ片付けるつもりである。 不用品を細かく分別して、リサイクルにまわしたり、それぞれの収集日に回収してもらうようにするのだが、それが結構ややこしく、手間もかかる。
 それにしても、長年サボってきた付けは、かなり大きなものとなって返ってきたようである。

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