11’3’25
思えば、津波警報が出ても、僅かな潮位の変化で収まるのが常だったから、「大津波警報」と言われても、ピンと来なかったのではないだろうか。 十メートルと予測されても、更にそれが十五メートルに達するかもしれないと、予想できた人がいただろうか。 そして、千年に一度と言われる大災害が発生してしまったのだ。
連日のニュース画面の信じられない光景を見て、言うべき言葉が見つからない。
この大きな災害の影響はじきに我々の生活にも響いてきた。 福島の原発が多大の被害を受け、世界中を「放射能汚染」の恐怖に陥れ、原発から近い圏内の人たちは避難を余儀なくされた。
電力が不足して、東電の「計画停電」も始まった。 朝六時二十分から夜九時二十分まで、五つのグループが三時間ずつ停電になる。 更に午後は追加で二つのグループが二度目の停電になると言う計画である。 我が家の場合、実際にはまだ、一日二回の停電は経験していないが、停電が実施されるか中止になるかがぎりぎりまで分らないのがストレスになる。 もちろん中止になれば「バンザイ」だ。
やがては国中が放射能に汚染されて、外出もままならなくなるとでも思ったのか、首都圏では日用品や保存の利く食糧の買占めが広がった。 あっという間に米は売り切れ、お餅も麺類も、小麦粉も、なくなった。 トイレットペーパーもオムツもスーパーの棚から消え、懐中電灯用の乾電池も入手できない状態になった。
計画停電で電車の本数が減ったり、運休したりで、車に頼らざるを得ない状態なのに、製油所が被害を受け、ガソリンができなくなったからなのだろうか、ガソリンの入手が難しくなり、ガソリンスタンドには長い行列ができた。 被災地ではガソリン不足で支援物資の運搬が滞る事態となった。
我が家は昭和三十年代に建てた古い家だが、生活も三十年代の生活とまでは言えないまでも、世間から見ればかなり遅れている。 時間により電気の供給が止まるこのところの生活でも、三時間の辛抱だと思ってそれなりに暮らしている。
明かりの必要な時間帯には、蝋燭をともす。 亡夫の葬儀のときの残りと思える太い蝋燭が一本あって、それを使っているので、二十年以上昔のものである。 小さな植木鉢の底の穴のサイズが合うので、植木鉢を伏せて穴に立てる、特製の燭台である。 下の台は、「峠の釜飯」のふただ。 短くなれば、お皿でも良いかと考えている。 それと以前百円ショップで購入した小さな懐中電灯。 単三電池二本で使える。 暗い中をむやみに動き回る必要もないので、これで十分だ。
その後、停電が長期化することを考えて一箱買った蝋燭は、今のものよりも少し細めなので、また植木鉢探しをすることになる。
暖房を、電気だけに頼ることが心配で、灯油だけで使える石油ストーブを台所用として使っていたことが役に立った。 灯油の残量が当座必要な量には十分だったことも幸いした。 調理はプロパンガスだから、停電中でも問題はない。 必要なものはあらかじめ出しておくので、冷蔵庫を停電中に開けることもない。 トイレも停電前に済ませておく。 朝一番の停電時間にあたったときは前夜に洗濯もしておいたが、このときは、めでたく中止になった。 少々不便ではあるが、戦後の窮乏生活にはまだまだ程遠い。 しかし、我が家は小人数だからどうにでもなるが、大家族や重篤な病人のいる家などでは大変だろうと思う。
こうなると東電の勧めていたオール電化生活は、難しそうだ。 床下暖房、I Hクッキング。 雨戸の開閉も電動の家が増えている。
福島原発が再び電気を供給できるようになることは先ずあるまいから、この電力不足はこの先も続くと考えられる。
世間よりは遅れているとは言うものの、我が家でもコタツは電気、エアコンも使用、炊飯器を使い、ホームベーカリーも大活躍だ。 一応三十年代の生活になってもやっていけるとは思っているが、世の中が更に変わって、二十年代の生活になっては困る。 ハコベやアカザやギシギシをとって食べ、ザリガニは蛋白源となり、お茶ガラも煮て食べる・・・。 それでも生きていけると思ってはいるが・・・。
東電の計画停電を機に、やや便利すぎる現代の生活を見直すのも良いのではないかとも感じている。