気 に な る 出 来 事  

 

10’8’26
 この春、友達の息子さんが広島に転勤になり、五月の連休には奥さんと子供さんも任地に赴かれた。 お子さんがまだ小さいので、彼女も引越しやあちらの片づけを手伝いに行っていた。
 夏休みには皆さん東京に来られるんでしょう、と聞いた私に、「私が向こうに行って、みんなで旅行することになっているの」と言う返事で、なんとも羨ましく思ったのだった。
  安芸の宮島、錦帯橋、・・・。

  戦時中、ごく短期間ではあったが、私は広島に疎開していた。 買い物に船で尾道に出ることはあったものの、いわゆる観光にはまったく縁のない生活だった。 まだ、日本の敗戦など、庶民にはピンと来ないものの、敗色が濃くなりはじめたころだった。 
オシロイバナ

 七月末近く、広島に行ってくるからと電話があった。 夏休みにはまだ間があるのに・・・と思ったら、お嫁さんが体調を崩してしまったので行くのだと言う。 予定されていた仲間の集まりに出られないので、よろしくとの伝言だった。
 「慣れない土地ではあるし、今年のこの暑さで、坊やを抱えて疲れてしまったのだろう」と想像していた。 それっきり音沙汰なしで、「もう帰って来られたかな」と思いながら、電話をかけることもせずに日が過ぎていった。

 八月も後半になって、久しぶりに電話をもらった。 お嫁さんが入院しているので・・・との話に、「入院するようなことだったの・・・」とびっくりしたが、「くも膜下出血」での緊急入院だったと言う。
 一時はどうなるかと思う状態だ ったらしいが、本当に大変なのは、リハビリもあるこれからだろうと言う。

 一人暮らしの彼女は、家のことも気になるのだろう。 一週間だけ、休暇を取った娘さんに交代してもらって帰ってきたのだそうだ。 娘さんは子供さんも大人だし、だんな様の両親と同居なのでどうにかなるらしいが、仕事を休んでと言うのはやはり大変なことだ。
 入院中のお嫁さんの身寄りは、息子さん一家と同居の高齢の父上だけらしく、普段から「おかぁさん、おかぁさん」と何かと頼りにされている彼女だが、三世代の男たちの世話をしなくてはならなくなったわけだ。

 時間がかかっても元気になっていただかなくてはね・・・と話したが、遠く離れているだけに骨の折れることだろう。 彼女も若いわけではないし、彼女が倒れれば、もう手も足も出ない状態である。 「あなたも大事にしてね・・・」と言うことしか私にはできなかった。
百日紅
 

 私の身内では亡夫の兄嫁が、くも膜下出血で亡くなっている。 まだ四十歳の若さだった。 東京大空襲で家族をなくした人で、本当に気の毒だった。
 この病気は壮年期に発症する人が多いと聞くが、若い働き盛りの人であるだけに、その影響は計り知れないものがある。

 私自身は、両親も姉も脳血管系の病気で亡くなっているが、四十過ぎに脳溢血で倒れた母は、若かったからだろうか、足を引きずりながらでも家事ができるまでに回復した。
 私は元気な母を知らない。 「この子が嫁に行くまでは生きていてやりたい」といっていた母だが、5年生の時に亡くなった。

 私自身の経験からも、一家の主婦の病気は大変で、友達の家の出来事も、私には他人事とは思えない。 後遺症がなるべく軽く、リハビリの成果の上がることを願うのみである。

 夏休みの旅行どころではなくなった彼女だが、人生、何が起きるか、明日のことは本当に分らないものである。 その日その日を一生懸命生きていくしかないなぁと、つくづく感じたことだった。   

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