10’3’25
春の彼岸に入った二十日の日暮れ方、ふらりと表に出てみたら、ひらひらと目の前を飛んでいくものがいた。 こうもりだ。 暖かさにつられて出てきたものらしいが、何だか久しぶりに見た気がした。 昔は夏の夕暮れ時、よく見られたが、近年はこうもりの数も減ってきている。
彼岸の中日は朝から風が強く、空もどんよりとかすんでいた。 気象情報では、日本全体が大陸からの黄砂に覆われていると言う。 ニュースで、宮崎県の人が、「のどもイガイガして・・・」と話していた。
この日は夕方から発達した低気圧の通過で、さらに大荒れの天気になると予報が出ていたが、予報どおり夜はすごい風だった。 翌朝は、軒下においた自転車は倒れ、竹箒は飛ばされて庭に転がり、庭隅にはどこから飛んできたものか、ビニールの袋や発泡スチロールの箱などが散らばっていた。 近年の台風接近の時よりもひどいことになっていた。 家の裏手に回ってみると、バケツが転がり、何かと重宝しているビールケースもひっくり返っている。
裏で飛ばされたものを元の位置に収めながら、ふと黒いものが万年塀についているのに気づいた。 何と、小さなこうもりがぶら下がっているではないか。 前日見たこうもりに違いないと思われた。 昔、庭の梅の木にこうもりがぶら下がっているのを見つけ、小さかった子供たちが喜んだことがあったが、家で見たのはそれ以来のことだ。
この梅ノ木は今も健在だし、庭木はほかにもあるのに、何でコンクリートの塀にぶら下がるのかと思ったが、万年塀の柱の陰というところから察するに、大風を避ける場所として選んだのだろう。 野生の生き物のことだ。 大荒れの天候を予測できたに違いない。 しかし、昼近くなっているのにまだ風は強く、こうもりはぶら下がったまま風に翻弄されていた。 その後、見に行ったときには、コンクリートの塀に残っていた蔦の残骸に辛うじてつかまっていた片足は離れて、一本足でぶら下がっていた。 最初見つけたときには開けていた可愛い丸い目も閉じていた。
夕方、そろそろ飛び始める時間だと見に行ったら、下に落ちている。 ぶら下がっていた場所の真下ではなかったから、風で飛ばされたものだろう。 生きているのか死んでいるのか分らないが、こうもりの歯は鋭いから、手は出さなかった。 翌二十二日もそのままだ。 二十三日にはしっかりたたんで体の横につけていた羽が緩んで、「死んでいる」のが明らかになった。 背中の毛がふわふわと風に揺れていた。
そこにそのままおいておくわけにもいかないので、夕方、移植ゴテに載せて運び、庭隅に小さな穴を掘って埋めてやった。 そばに咲いていた「ジロボウエンゴサク」を折って、死体に載せてやった。 埋めた上には小石を一つおいて、目印にした。 あんなに元気に飛んでいたのに、あっけなく死んでしまったものだ。
こうもりのこともよく知らないので、この際、種類くらいは調べようと、ネットで検索した。 手のひらに乗るくらいの小さなこうもりは、「あぶらこうもり」、別名「家こうもり」と言うことが分った。 その名の通り人家に巣を作ったり、人間には最もなじみのあるこうもりである。
三月の中・下旬になると、冬眠から覚めて飛ぶと言うことなので、まさしくそれだ。 飛び出したら、気温の急降下や大風で、死んでしまったのかもしれないし、単独で暮らすことの多いオスの寿命はメスよりも短く、「三年程度。一年以内に死んでしまうものが多い」と言うことだから、オスで、寿命だったのかもしれない。
ネットには人が手で翼を広げている画像が載っていた。 実は、私も、翼を広げてみようかと思ったのだが、ちょっと躊躇してしまったのだ。 それができる機会は、おそらく最初で最後だとは思ったが、それをしなかったことを、特に後悔もしてはいなかった。
小さなこうもりとの小さな関わり、これもご縁と言うものだろうか。 小さな命が一つ、この地上から消えたことだけは確かなことだった。