工作の思い出

05’8’24
 私の小学校のころの夏休みの宿題は、先生手作りのドリル・作文・図工などだったと記憶する。 ドリルは早々と済ませ、作文は好きで、あまり苦労した記憶がないが、 図工は当時から下手だった。
 苦手なものは兄の仕事となる。 長兄は器用で、凝り性だったから、十三歳、年の離れた妹のために絵を描き、工作に励んでくれた。 
 一番の思い出は、厚紙を重ねて作ってくれた小さな船。 厚紙の大きさを少しずつ変えてきれいに張り重ね、それに煙突がついた船で、全体を黄色の絵の具で塗ってあって、きれいにできていた。
 当時は秋に「夏休み作品展」が、学校の剣道場で行われるのが慣わしで、それに兄の船も出ていた。 自分で作ったものではないから、うれしいと言う気持ちはなかったと思うが、家に帰って叫んだものだ。 「お兄ちゃんの船、展覧会に出ていたよ!」と。
 
 「馬の絵」を描く宿題が出たことがある。 兄は馬を真横から見た絵を描いてくれた。 それはうまく描けていたから、教室の後ろに張り出される中の一枚に選ばれた。 でも友達の作品と比べて、私はなんだか恥ずかしくなった。
 友達の馬は、畑仕事をしていたり、牧場にいたり、餌を食べていたりした。 「兄の馬」は味も素っ気もない馬だけ。 さすがに兄には何も言えなかった。
 学校の剣道場があった頃だから、それは学校が戦災で焼ける前、つまり、私が一年生か二年生のときの話である。

 父との思い出もある。 
 やはり、夏休みの工作で何を作るのか思いつかず、父の意見で「風向計」を作ることになった。 自分で考えたわけではないから、どんな形のものかよく分からない。 当然父が手を加えることが多くなる。
 厚紙で作った細めの三角錐を横にして、その先端から突き出た棒の先にプロペラがついていたと思う。 木の台にしっかり立てられたこの風向計はくるくると良く回った。 なかなかの仕上がりで、区の作品展に出されることになった。
 それに際して、担任の先生が、「下に磁石があるともっと良いねぇ」とおっしゃった。 これを父に話したものだから、父は張り切った。
 木の台をきれいにくりぬいて丸い磁石を埋め込んだ。 出来栄えに父も満足そうだった。
 一応、私の作品として出品するのだから、少しは自分でやらなくては、と私は考えていた。 「兄の船」のように完全にお任せにはできないだけに私も成長していたわけだ。 ところがである。 手を出そうとする私に言った父の一言。 「お前がするときれいにできないから」。 
 こうして父の作品は、めでたく杉並区の作品展に出品された。

 ちなみに父は旧制中学の教師だったし、兄もその後同じ道を歩んだ。 男が続いた後に生まれた女の子を、父も兄たちもかわいがってくれた結果だったのだろうが、思い出すと懐かしさとともにおかしさがこみ上げる。

   こう書いてくると、私は何一つ自分では作らなかったようだけれど、そうではない。 戦争が終わり、疎開から帰ってからの話で、高学年になっていた。
 針を持つことは好きだったから、本を見ながら厚紙に布を張って、二つ折りの財布を作ったことがある。 この財布の表に紅い布地でアップリケした犬が「ダックスフント」と言う種類であることを、数十年たって知った。
 これが区の作品展に出たときはうれしかった。 何しろ「完全に」自分一人で作ったものだったから。
 それともう一点が、赤い毛糸で編んだお弁当袋だった。 これも先生のアドバイスで、白い花の刺繍をして出品となった。 ところがこれは、会場で盗まれてしまったのだ。
 小学生の編んだお弁当袋である。 大人の仕業か、子供の仕業か。 私はがっかりしたけれど、敗戦後の何もない時代は、そんなものでもほしい人がいたのだろう。 

 父も兄も故人となり、作品も何一つ残っていない。 大変な時代ではあったが、世の中にはまだおおらかさも残っていた。 
 懐かしくも心温まる、工作にまつわる私の思い出である。  


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