05’4’25今年の春の訪れは、一進一退で、時には足踏みもしている状況が続いたため、例年のように早くから雑草が伸びることがなかった。 それは楽で、良かったのだが、四月になり、遅れていた桜が開花する頃には、さすがに暖かくなった。 待ちかねたように、いっせいに花が咲き始めたこの春である。 雑草も時を得たとばかりに、一気に伸び、花を付け、瞬く間にわが庭は草原と化した。
日差しを受けて若葉の伸びる早さには例年驚かされるものだが、今年は特に早く感じられた。 草も木の芽もぐんぐんと伸びた。 重い腰を上げて、庭の草むしりを始める頃には、"ハコベ"は満開、"スズメノカタビラ"も、信じられないほど、小さなものまでしっかりと花を咲かせていた。若い頃の馬力はないから、一日にこのくらい取るとして、家の周りが終わるには十日、と計算する。 取らぬ狸のなんとやらではないが、実際には、雨の日もあれば、出かけたい日もある。 何よりも、十日たてば最初にとった場所には、次の草がちゃんと生えているという事実がある。 したがって、一渡り終わっても、それですべてが終わるわけではないのだ。 幾分楽にはなるものの、「草との戦い」は続くのである。 抜いてしまうには惜しい、可愛い花を付ける草も多く、来年の苦労を承知で残しておくこともある。
じろぼうえんごさく
結構大変なのに、私はこの仕事があまり嫌いではないのだからおかしな話である。
春の草は柔らかな色で、ハコベなどは一株抜けばそこにはしっかり土が見える。 「無心になれるから好き」と言われた方もある。 確かに、余計なことは考えていない。
抱えるほど取りためてから運び出すのは疲れるので、最近は少し取ると庭の真ん中に運ぶ。 この立ったり座ったりが、結構足腰を鍛えるとみえて、山歩きの好きな私には良い結果をもたらす。 「日ごろの鍛錬」である。 頑張っても一日三時間に留めておく。 それ以上張り切ると、どうも、腰痛の原因になるようだ。 取った草は庭の真ん中に広げ、中途で一度裏返して乾かし、かさを減らす。 夕方袋につめ、ごみの収集に出す。 ちなみに、羽村市では草木類は無料収集である。昨日は久しぶりに奥多摩の山を歩いてきた。 標高の低いところでは桜が見ごろで、新緑も始まっていたが、千メートル以上になると、まだ春は浅かった。 気持ちよく遊んだ後だけれど、お年だから、今日は休養、と思っていたのに、予報よりも天気がよくなってくれば、やはり、「少しやるか」となる。
きゅうりぐさ
庭の草むしりをしながら考えた。 結構草むしりには、時間を取られている。 もし、草むしりをしなければ、その時間を何に使うだろうかと。
草むしりを予定していた日に雨が降ることもある。 パソコンをいじったり、新聞を丁寧に読んでみたり、そんなことで午前中が過ぎる。 まとまった仕事はどうもしないようだ。 読みたい本もあり、縫いたいものもある。 しかし、それには手がつかない。 草むしりをしていても、必要に迫られればできることなのに・・・。
つまり、私は草むしりをやめても、その時間をとても有効に使うとは思えない。 むしろ草むしりに時間を割かれることで、わずかな時間も無駄なく使う生活ができるのかもしれない。 「忙しいほうがかえって仕事がいろいろできる」と言うわけである。 貧乏性である。 自分の作った時間表に振り回されているのだから、愚の骨頂だと思う。しかし、太陽の光を受け、自然の風に当たり、小さな虫や草の生活にも目を留め、終われば、「きれいになったなぁ」と自己満足も得られる。 意外と、草むしりは、私の心身の健康の元になっているのかもしれない。
草むしりがなければ楽には違いないが、この仕事のおかげで、元気に山にも行けると思えば、つべこべ言わず、やるしかない。 草むしりが大変と言いながら、除草剤も使わず、ひたすら取る人が多いのも、同じような思いなのだろうか。息子のお古のジャージにボロズック。 この「制服」で、今日もこれから取り掛かる予定である。 何しろ、我が家の草むしりは、言うなれば、超ダイナミックな一種のスポーツなのだ。
朝のうちぱらついた雨も上がり、日がさしている。 ぬれた草も、乾いたころだろう。