魔 女 の 一 撃  

 

10’5’10
 亡夫の命日が、今年は四月最後の土曜日だった。 もう二十三回目の命日になる。 今年の春は天候不順で、寒い日が多く、春らしい日はあまりなかったが、その土曜日は珍しいほどの晴天になった。
 例年、命日には、庭の花を切っての墓参りと決めていた。 家から歩いても十分程度のお寺の墓地である。

 この半年、娘の入院もあって、ストレス解消のための「デジカメ散歩」も思うに任せない日々が続き、気持ちにゆとりのない生活を余儀なくされて来たが、娘も退院し、すばらしい青空を見上げた私の頭からは、なんと言うことだろうか、「亡夫の命日」は消えてしまっていた。

 亡くなったのが、まだ五十代の若さだったこともあり、当時の私はなんともやりきれない思いの中にいた。 なんとなくお墓に行くと気持ちが落ち着くので、毎日通った四十九日後も、月命日には欠かさず墓参りをしていた。
 「深い悲しみも時が解決する」と言うが、十五年が過ぎる頃には、私も元気になり、「もう、毎月は来ないことにするからね」と墓前で亡夫に伝えたのだった。 夫のいない生活が普通になっていた。

 「ちょっと近所を一回りしてくるから」と娘に告げ、カメラを片手に私は家を出た。 真っ青な空に草花丘陵の新緑がまぶしい。 柔らかな緑と言っても、木によって微妙に色の差がある。 青空をバックに泳ぐ鯉のぼり、新緑を彩る山桜、満開の山吹・・・、楽しい散歩だった。
 午後は、しばらくできなかった草むしりで終わった。 翌日曜日は、久しぶりに娘を散歩に連れ出した後、また、草むしりに精を出した。

 亡夫の作ったミニ温室が、今は土台のブロックを残すだけとなっているのだが、その「地下部分」を鉢の収納場所として使い、上には板を渡して鉢物の置き場として使っている。 その板がひどく傷んでいるのを見た大工さんが、「古い板だけど」と、持ってきてくれていたので、草むしりの合間には、それを渡す作業もした。 「古い板」と言うことだが、カンナをかけて、見た目もよくしてくれてあったし、測ったようにぴったりの長さだった。
 しっかりした板で、かなり重い二枚を運び、出っぱっている鉄のボルトの間に、少し無理をしてはめ込んだ。 「この仕事は腰に来る」と思いながら・・・。

 そして月曜日、朝起きたら危惧したとおり、腰がまっすぐに伸ばせない。 痛い。 重いものを持つと良くないのは以前からのことだが、今回はひどかった。 愛用の亡夫お下がりのコルセットで固定し、腰を曲げたまま動いていたら、体のあちこちが痛くなってきた。 必要最低限に動くことにしていても、主婦の仕事は多い。
 この状態に車の良くないことは分かっているが、翌日はなんとしても娘を予約の時間に病院に連れて行かなくてはならない。 天気も下り坂と言うから、洗濯も済ませておきたいし、山のように取った草の始末もしておきたいと、ついつい無理をすることになる。

 娘の病院は、意外に早く診療が終わった。 帰宅すると、玄関前に、水を入れた牛乳パックにさした花が置いてある。 チューリップや、フリージアなど、可愛い花々である。 「I 子さんだね」と娘が言う。
 すぐ近くに亡夫の甥がいて、その奥さんが時々「仏様に」と花を届けてくれる。 早速電話をかけて礼を言うと、「命日に持っていけなくてごめんなさい」と言う。 頭をガーンと殴られたようなショックだった。 命日だった! すっかり忘れていた。  
 痛い腰をできるだけ伸ばしながら、娘を病院に連れて行くのは難行苦行だったが、少々みっともない格好でも一応用は足りたのでほっとしていた。 しばらくはおとなしくしているより仕方がない。 お墓参りはしばらく待ってもらおうと考えた。 「そんなに無理して来るなよ」と言っているだろうと、勝手に決める。

 I 子さんは、毎年亡夫の命日に立派な花を届けてくれていた。 十年続いた時に、「もう十分だから」と辞退を申し入れて以来、庭の花を届けてくれるようになったのだった。 息子が「息子でさえしないことを・・・」と言ったが、その通りである。 時々、「これもおじさんにもらった花」と話してくれるから、生前の亡夫が球根を上げたりしていたのだろう。 それで今もお花を届けてくれるのかもしれないが、なかなかできる事では無いと感謝している。

 腰痛がいくらか良くなったので、五日遅れの墓参りに出かけた。 いつもより、念入りに掃除をして、娘の買ってくれた花を供えた。 この春は寒さのせいで、庭の花が少ないので良かった。 腰痛も少し良くなると動きたくなる性分で、少し逆戻りをしたりしながらも、大型連休が終わるころにはほぼ良くなった。

 「ぎっくり腰」を、「魔女の一撃」と言うらしいが、私の場合は、「亡夫の一撃」だったに違いないと、ひそかに苦笑している次第である。    

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